鎌倉の梅 2006/3/14   浄智寺の梅と歴史

北鎌倉浄智寺

臨済宗円覚寺派の金宝山(金峰山とも)浄智寺。最盛期には七堂伽藍を備え、塔頭(たっちゅう)も11寺院に達したという鎌倉五山の第四位のお寺です。
この浄智寺の三門には時々円覚寺の幕が貼ってあります。円覚寺の管長だった朝比奈宗源禅師はこの浄智寺の住職であったとか。

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浄智寺の歴史

さて、お寺の縁起は、円覚寺の北条時宗の弟で、現明月院の5代執権北条時頼の三男宗政が1281年(弘安4)に29才の若さで亡くなったことから始まります。宗政夫人(北条政村の娘)は、亡夫と幼少の子師時(もろとき:10代目の執権を開基にして創建したと言うことだそうです。

親子兄弟が寄り添うようにこの北鎌倉の一角に菩提寺を建てたと。
北条氏は北鎌倉が好きだったんですねぇ。と言う訳ではなくて、ここは和田義盛の乱の後それに組した土肥一族の領地を没収して北条氏の私領にしていたのです。そして鎌倉の中が開けてきて広大な屋敷を構える土地が無くなり、それで5代執権北条時頼の頃からこの山内(北鎌倉)の地に屋敷を構えたのです。

いや3代執権北条泰時もこの山内に別邸を持っており私はそれが現在の常楽寺ではないかと思っていますが。

建長寺は最初から中国の僧を迎える為の寺でしたが、現明月院、鎌倉時代当時は禅興寺は北条時頼の私邸(中心は西亭:明月院の小路の入口の西側か)の一部(北亭)。この当時、私邸には持仏堂があり、その主の没後に菩提寺となると言うのがあの当時の傾向です。あくまであの当時。鎌倉時代全般がと言う訳ではありません。円覚寺はその子北条時宗の生前の開基で個人の菩提の為ではありませんでしたが、時宗はそこに葬られています。

時宗の私邸は今では横須賀線で隔てられていますが、この浄智寺の正面、明月院への小路の東側にあたり東亭、または山内泉亭と呼ばれたそうです。
それらのことから、この浄智寺は北条時宗の弟、北条時頼の三男である宗政の私邸であったと考えられます。

建立は円覚寺の翌年の弘安6年(1283年)。表向きには、宗政の子師時を開基にしていますが、実際は時宗が弟の為に建てたと言うところでしょう。

開山は兀菴普寧 (ごったんふねい)、請待開山は大休正念、準開山は南州宏海の3人が名を連ねていますが、創建された時には日本に居ませんでした。
実際に寺を開いたのは南州宏海ですが尊敬する中国師僧兀庵普寧(ごったんふねい)と導師の大休正念を開山にして自身は準開山になりました。師を思う弟子の師弟愛ももちろんあるでしょうが、それだけ当時の権力者北条時宗が力を込めた立派な寺院の建立であったことが読みとれます。最盛期には七堂伽藍を備え、塔頭(たっちゅう)も11寺院に達したということで、1323年(元享3)年の北条貞時13年忌には浄智寺からの参加僧衆は224人に達したとか。浄智寺の総人員は僧侶以外も加えると500人位に及んだとみられます。
実際に発掘調査ではこの谷戸のずっと奧、天柱峠のすぐ下あたりまで人の手の加わった跡があり、おそらくは現在の円覚寺や建長寺の規模に近いものがあったかと想像されます。が、1356年(延文1)に当初の伽藍は消失しています。

三門の階段を登ると

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こちらが料金所・・・、じゃない、拝観料を納めるところです。
実は私は自転車なので、この前の駐車場の方からいつも出入りしているもので。三門の処には梅は無かったし。フキフキ "A^^;


その正面が楼門なのですが、その右手に客殿、書院の入り口である棟門が。
こちらがそうですね。徳川の葵の紋があります。徳川将軍家も詣でたのでしょうか。

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しかし葵の紋も良く知られているのは将軍家のもの。こちらのはちょっと違うような気がします。御三家?

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浄智寺の鐘楼門(しょうろうもん)

浄智寺と言えばあの三門とこの鐘楼門が有名で、特にこの門は鎌倉時代からここに建っていたんじゃないかと思わせるほど雰囲気があります。
鐘楼門は鐘つき堂を兼ねた鎌倉では珍しい中国風の山門です。鐘には暦応3(1340)年の銘があるとか。また「山居幽勝(さんきょゆうしょう)」の額があります。谷奥の頂上の天柱峰までがこの浄智寺の寺域です。

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その楼門の脇から本堂の方を見ると、梅が。

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もうちょっと近づいてみましょう。

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その塀の端には紅梅が咲いていました。

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塀の上を見ると、手前には梅が、そして塀の向こうには椿が見えます。

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浄智寺の本堂・曇華殿(どんげでん)

さて、楼門から向こうを覗くと・・・

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本堂の向こうにも梅が

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本堂には三世仏である阿弥陀、,釈迦,、弥勒の木造三体の仏像が安置されています。
室町時代の作で県の重要文化財に指定されているとか。こちらの仏様のお顔はとても良くて私は好きですね。最近デジカメも高感度になってきたので、こういうお写真も三脚無しで撮れるようになりました。ISO1600です。

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むかって左から過去をあらわす阿弥陀、現在をあらわす釈迦、未来をあらわす弥勒の各如来様です。脇には達磨大師像・大休正念像・南州宏海像・観音菩薩像なども。でもそこまでは良く見えません。
こちら浄智寺の寺宝は鎌倉時代の地蔵菩薩像(国重文)や建長寺の玉隠英王與(ぎょくいんえいよ)が書いた「西来庵修造勧進状」(国重文)で、現在は鶴ヶ岡八幡宮の鎌倉国宝館に預けられているそうです。玉隠英王與のものは報国寺にもあったような気がします。

この三世仏が作られ、収められた室町時代にもまだかなり大きな寺で、禅秀の乱のあとの1417年(応永24)に足利持氏が鎌倉に戻ったとき、まず浄智寺に入り2ヶ月以上滞在したそうです。持氏の子永寿王(後の成氏)が1449年(宝徳元)に鎌倉に入ったときも浄智寺に滞在したなど関東公方家との特殊な関係、そして浄智寺の規模の大きさを示していると言えるでしょう。

その後、おそらくは関東公方とともに勢力は弱まったと思われますが、1547年(天文16)相模国小田原城主北条氏康が3貫文の寺領を寄進。
その後徳川家康も寺領6貫140文を安堵したとか。貫と石の換算比率は忘れましたが。

江戸時代後期の『新編相模国風土記稿』によれば,仏殿・方丈・庫裡・経蔵・地蔵堂・八幡宮・白山社・稲荷社・鐘楼・外門・惣門等を擁する大伽藍であったとか。
しかしの関東大震災(1923年)で殆どが倒壊してしまいました。現在の建物はその後に再建されたものです。


さっき見えていたピンクの枝垂れ梅から本堂の方を。桃色と言いたいところだけど桃じゃないしねぇ。(笑)

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こちらは白梅ですね。綺麗です。

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