鎌倉の正月2007.01.01   粟船山常楽寺 

元旦に近所の常楽寺にお参りに行きました。
今は小さなお寺ですが、最初の武家の法典・御成敗式目 で有名な3代執権北条泰時が開いたお寺で鎌倉時代には相当大きな寺だったようです。本堂裏には泰時の墓があります。

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山号を粟船山(ぞくせんざん)。常楽寺と名を改める前は、粟船御堂(あわふねみどう)、または青船御塔ともよばれたようです。現在の大船の地名はこの「粟船」(あわふね)または青船(あおふね)が段々となまったものとか。

江戸初期に水戸光圀が家臣に命じて編纂した「新編鎌倉志」には、「往時、海浜たり、粟を載(のする)船を以て此に繋ぐ、一夕変じて山と化す。今の粟船山是なり、其の形の如し」(ホントはかなはカタカナ)と。一夜で陸地が起きたというその地形変動は江の島隆起したときでしょうか?

『鎌倉市史・考古編』によると、縄文時代には離山の西際まで実際に海だったようで、その後も海水の海は後退しても、低湿地で沼も多かったのでしょう。付近は農耕地であり、その運搬には船が用いられ、人の住まいは湿地ではない粟船山の上だったかと。そこからは弥生式土器後期と思われる陶片が散在していたと言います。平安時代後期にはその湿地も少しずつ後退し、民家も粟船山の上から下に下りてきたかと。

もう10年以上前になりますが私は部屋着にしていた作務衣のままママチャリでこちらに来て境内を見せて頂いたあと、門の右側の通用門みたいなところから出ようとしたら、ちょうど法事でお婆さんが入ろうとしていたのです。そこで道を譲って軽く頭を下げたら、そのお婆さんに深ぶかとお辞儀をされて・・・・。どうも私は寺男と間違われたようです。(笑)

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常楽寺には1791年の境内絵図が残されており、それと現在の配置は殆ど同じだそうで、その中に。ちょうどこの中心の枯れた銀杏の大木のあたりに木が一本書かれているそうです。

写真にある石碑には「開山禅師手植えの銀杏樹で、大正六年秋、台風のために傾斜、同十二年の大震災で更に傾斜、支柱を施すが年々傾斜の度を増す。昭和十三年八月三十日夜、暴風のため倒れ尽くす」と。

「開山禅師手植え」は本当かどうかは判りませんが「もしかしたら」と思わせる佇まいです。

常楽寺の開山

文献上の初見はこれです。まだ常楽寺とは言われていませんが。

『吾妻鏡』 嘉禎三年(1237年)十二月十三日条

左京兆室家母尼の追福の為、彼の山内墳墓の傍らに於いて一梵宇を建てらる。今日供養の儀有り。導師は荘厳房律師行勇。匠作・遠江の守聴聞せしめ給う。

左京兆とは左京大夫、つまり北条泰時のことで、この年の3月4日に武蔵守に加え左京権大夫を兼任しています。左京兆室はその夫人。
匠作は確か修理亮のことでこの頃は泰時の子時氏? いやもう亡くなっていました。叔父の修理権大夫時房らしいです。遠江守はこの頃は泰時の弟で名越次郎と呼ばれた北条朝時のことでしょう。名越北条氏はその後お家騒動の火の元になっています。

荘厳房律師行勇とは退耕行勇(たいこうぎょうゆう 1163〜1241)のことですね、栄西の弟子で栄西没後は寿福寺二世住持、浄妙寺を開山した人でもあります。これが粟船御堂の発端です。

ここに妻の母の墳墓があったと言うことはその義母は妻とともにここに住んでいた? 義理の母の為に一梵宇を建てるとなると、その妻とは正妻で多分嫡男北条時氏の母で三浦義村の娘? いや安保実員の娘でしょうか。そして北条泰時は妻の為にその母の墳墓の傍らに一梵宇を建てたと。しかし北条泰時って愛妻家のよい夫だったんですね。

「山内巨福礼の別居」が常楽寺に?

この地は北条泰時の別業(「べつぎょう」とも「しものやかた」とも読み、私邸、別邸)であったのかもしれません。「吾妻鏡」の1241年には泰時の「山内巨福礼の別居」が出てきます。

1241年(仁治2年)12月30日の条

前の武州右幕下・右京兆等の法華堂に参り給う。また獄囚及び乞害の輩の施行等有り。 三津の籐二奉行たり。その後山内巨福礼の別居 に渡御す。秉燭以前還らしめ給うと。

「前の武州」は北条泰時のこと1219年(建保7)から1238年(嘉禎4)4月6日に辞任するまで武蔵守でした。 「右幕下」は右近衛大将の居所(幕府、と同義)、右近衛大将自身のことも表し、ここでは源頼朝のことですね。頼朝の法華堂は現在の頼朝の供養塔の処です。「右京兆」は右京権大夫、ここでは北条義時のことで、その法華堂は大蔵法華堂、覚園寺でしょうか? それとも釈迦堂切通しの方?

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『中世都市鎌倉の実像と境界』p31で秋山哲雄先生は、ここに出てくる「山内巨福礼の別居」を、1223年(貞応2年)1月25日条の「西方奥州当時の舘」と同じもので、のちに建長寺になったと。
「奥州当時の舘」はこういう形で出てきます。

『吾妻鏡』 1223年(貞応2)1月25日条
西大路を若君の御方の壺に入れらるべきや否やの事、重ねてその沙汰有り。陰陽師等召しに応じ奥州の中門廊に参会す。・・・・また件の西方奥州当時の舘 は、承久二年十二月武州に譲渡せられをはんぬ。

「若君の御方の壺」の「壺」とは「局(つぼね)」と同音同義で、若き傀儡将軍(まだなっていないけど)の住まう一角です。白状すると私は「若君の御方の壺」を大倉御所の一画と思いこんでいたんですが違うみたい。というのはその秋山先生に教えてもらって気が付いたんですが。

「西方奥州当時の舘」がここ常楽寺だったのかどうかは解りませんが、でも「山内巨福礼の別居」は建長寺の場所ではなくここ(正確にいうとこの近く)だと思います。ほかの点は全部降参してもここだけはゆずらない。(笑)

確かに建長寺の山号は巨福呂山だし巨福呂坂切通しもあるのですが、しかし建長寺の地に元は地蔵菩薩坐像を本尊とする伽羅出陀山心平寺があったとは伝えられていても、北条氏の屋敷が有ったとは伝えられていません。「山内巨福礼の別居」は「山内荘巨福礼郷の別居」と読むのが正しいと思います。

この当時の山内とは山内荘のことで、現在の地名の山内、つまり北鎌倉近辺のことではありません。泰時の孫の時頼以降の時代には「山内殿」とか「山内亭」と出てきますが、栄区の証菩提寺だって山内です。『吾妻鏡』にもこう出てきます。

『吾妻鏡』 1250年(建長2)4月16日条
山内の証菩提寺 の住持申す当寺修理のこと、清左衛門尉満定奉行として、今日その沙汰有り。早く損色を召し、土木の功を成すべきの由、仰せ出さる。

そして「巨福礼」「巨福呂」郷ですが、語源的には「フクロ(袋)、フクレ(膨れ)」は水に囲まれた袋状の地域、または低湿地なんだそうです。建長寺のあたりではとても低湿地とは言えないし、また郷の名前になるような処でもないでしょう。「山内巨福礼の別居」と書かれたのは山内道が整備される前ですから。泰時より後の時代、この山内荘の巨福礼郷の奥、鎌倉中から見れば手前の、現在の円覚寺から東に、北条時頼以降の得宗家が代々事実上の本宅を持ち、禅宗の大寺院が次々と出来たことから、鎌倉幕府の中では、山内と言えば山内荘の中のそのエリアを思い浮かべるようになったんでしょうね。

鎌倉時代に巨福礼郷のエリアを示す史料はありませんが、「新編鎌倉志」は戦国時代小田原北条氏の頃かに巨福礼郷(巨福呂郷)は「円覚寺西方を境に上(東)を山内、下(西)を市場村巨福呂谷に分かれた」と伝えています。その「巨福呂谷」が現在の「小袋谷」と書かれた記録は16世紀頃にあります。巨福礼郷の中心から鎌倉へ抜ける道筋が巨福呂(礼)坂と考えると現在の常楽寺=「山内巨福礼の別居」、と「巨福山建長寺」、「巨福呂坂切通」の関係が納得できますね。

一方、山内とは何処なのか。

と、こう言うと「おいおい、今山内は山内荘のことだと言ったばっかりじゃないか!」と突っ込みを受けるかもしれませんが、実は山内荘は寄進系荘園なんです。だから鎌倉から北は横浜市の戸塚区だって栄区だってみんな山内荘ってぐらいに広大なんですが。

その寄進系荘園というのは、本荘を皇室なんかに寄進して荘園として承認してもらうときに、その廻りの数百町(農家数百戸、数千〜1万石ぐらい)を加納・余田としてドサクサ紛れにまとめて立荘してしまう(ほんとはそこが狙い!)ものなんです。 だから名前の元となった山内本荘(数十町、農家数十戸ぐらい)があったはずなんです。1140年頃にはね。私が住んでいるあたりがその山内本荘だったらちょっとばかしカッコええなぁと思うんですが、その位置は解りません。残念なことに、一般には横浜市栄区本郷台あたりが原「山内」の中心と見られています。

悪のりな推論

円覚寺前を通る鎌倉道が藤沢方面と戸塚方面に分かれる水堰橋から離山(大船駅方面)に向かい横須賀線を渡る「鎌倉道第二踏切」の向こう側に成福寺と言うお寺がありますが、こちらは北条泰時の子泰次が若くして仏門に入って紗門院泰次入道となり、その後親鸞に師事して1232年にこの寺を開いたとか。鎌倉幕府滅亡(1333)の時には住職は北条高時の実弟だったので追放されたそうです。真偽のほどは確認しようがないですが、しかしそうだとするとここは北条泰時の子泰次の館だったと考えることもできます。

ちょっと悪のりですが、吾妻鏡1180年10月9日の条に出てくるの位置不明であった「知家事(ちけじ)兼道」の「山内の宅」もここ常楽寺の地だったというのはどうでしょうか? もちろんそこでの山内は証菩提寺の方だったかもしれないのですが、そちらも確定は出来ないので。

兼道の館は、「築200年、安部清明の札が貼ってあって一度も火事に遭わなかったから」と解体されて鎌倉は大蔵に運ばれ、頼朝の館となった屋敷です。

吾妻鏡1180年10月9日条
太景義の奉行として御亭の作事を始めらる。但し合期の沙汰を致し難きに依って、暫く知家事(兼道)が山内の宅 を点じ、これを移し建立せらる。この屋は正暦年中建立の後、未だ回録の災いに遇わず。晴明朝臣鎮宅の符を押すが故なり。

200年もその地に屋敷を構えるのはこの時代では小規模でも開拓領主、領地経営にも物流にも適した地に屋敷を構えます。またその屋敷跡なら地ならしも土塁等も有る程度出来上がっていて井戸も掘られていたでしょう。

ただし、この時代の土豪の家が200年ももつ家だったなんてちょっと考えられないですね。「200年」は、安部清明と一緒に「嘘!」。

それらを推測や仮定も含めて時系列に並べてみましょう。

  • 頼朝の鎌倉入り段階から、「知家事(ちけじ)兼道」の山内の屋敷を解体して鎌倉に運んだ道筋があったはず。それは奈良時代から鎌倉郡北半分の租税を御成小学校の位置にあった群衛に運ぶルートであった。
  • 「嶮難の間、往還の煩い有る」そのルートは小袋谷交差点から台峰の尾根から化粧坂ルートであり、それが頼朝時代の中道(大手中路説を採らなければですが)、上道も化粧坂を越え、尾根伝いに州崎方面へ。(これは全くの想像)
  • 巨福礼郷は山内首藤氏の山内荘の南部の荘郷。山内首藤経俊は平家側に付いたため、頼朝の鎌倉入り後に取り上げられて、山内荘は土肥(とひ)実平の管理となり、和田合戦のあとに北条義時の所領となる。
  • 山内荘は北鎌倉から横浜市の戸塚区・栄区まで含む広大な荘園で、その荘園管理事務所を兼ねて、常楽寺のあたりに別業があった。それが山内巨福礼の別居」。言い直せば山内荘巨福礼郷の別居。
  • 泰時の子の泰次がその近くの成福寺の位置に屋敷を持った。そして仏門に入り、1232年にに親鸞の教えを受けて改宗し、その住まいが成福寺となった。
  • 泰時が父義時から受け継いだ「山内巨福礼の別居」に妻子と義母を置いていた。その義母が亡くなり、その近くに埋葬し、1237年に妻を慰めるために義理の母の「一梵宇」を建てた。
  • 1240年(:仁治1)に、泰時は鎌倉中までの道が「嶮難の間、往還の煩い有る」からと、別に「山内の道路 を造らるべきの由その沙汰」する。それが巨福呂坂切通を越える道なのか、それとも亀ヶ谷坂切通を越える道なのかははっきりしないが、とりあえず巨福呂坂切通を越える道とする。何れにせよ、常楽寺と仮定する「山内荘巨福礼郷の別居」や、泰時の子の泰次の家(ここも山内荘巨福礼郷)から、鎌倉中への道が整備される。
  • その道の山奥、鎌倉中との境界の外側脇が凡下の埋葬地となり地蔵堂(心平寺)が出来る。
  • 1242年6月に泰時が没し、そこが泰時の別業の一画であったので泰時も常楽寺に埋葬された。
  • 1243年6月15日、 一周忌法会が「山内粟船御堂」に於いて行われる。
  • 孫で執権を継いだ時頼が、常楽寺から鎌倉中への山内道の途中、現在の明月院の小路の入口の西側に山内亭を構え、実際の政務はそこで行った。
  • 1250年 (建長2年)、時頼は「先年輙く鎌倉に融通せしめんが為、険阻を直さるると雖も、当時また土石その閭巷を埋むと。仍って」山内道路の道普請をする。そして地蔵堂(心平寺)の地に、建長寺 を建てる。
  • 1256年時頼は出家して屋敷の奥の北亭、持仏堂を最明寺とした。 (当時は自分の屋敷内に持仏堂を建てていた。まあ仏壇みたいなもの)
  • その子、八代執権北条時宗は明月院の小路の入口の東側、(山内上杉氏が屋敷を構えた位置か?)に私邸(東亭、泉亭)を構えた。
  • 弟宗政は父の山内亭の向かいの谷戸、浄智寺の位置に私邸を構えたが若死にした。1281年(弘安4)にその屋敷が浄智寺となった。
  • 1282年(弘安5) 時宗は存命のうちに円覚寺を開基し、1284年に没し仏日庵に葬られた。

実は北条貞時も、場所は不明ながら、今も山ノ内と言われる北鎌倉近辺に最勝園寺と呼ばれる別業、事実上本宅を構えていたようです。(きっと円覚寺の近くではないでしょうか? 何の根拠もありませんが。)

話がつながりますねぇ。1個や2個ひっくり返されても大勢に影響は無いかも。やはり泰時が父義時から受け継いだ「山内巨福礼の別居」が常楽寺かまたはその近辺なのではないでしょうか。もしかしたら鎌倉史上の大発見?  「大手中路」は頼朝の帰路がちょっとやばかったですが、これはやったかも! 

ところが、ここ常楽寺の発掘調査報告書を読んでいたら、私が「大発見!」をするずっと前から、そういう話しはあったそうです。残念!

と口で言ってもイメージがつかめないでしょうから、化粧坂切通しに使った「明治15年陸軍参謀本部 2万分1フランス式彩色地図(国土地理院)」の地図をこちらにも。

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化粧坂の先は色々考えられます。

しかし別の可能性も

この説の次に考えられるものは、こういうケースでしょうか。

  • 明月院の伝承に沿って、「山内須藤〔首藤〕刑部丞俊通、その子滝口俊綱」の館が、明月院の近くに有った。
  • 泰時の「山内巨福礼の別居」はその館跡であった。
  • 時頼・時宗の山内亭が泰時の「山内巨福礼の別居」を引き継いだものだった。

この想定は、仁治元年(1240)に泰時が「山内道路」を整備したのはその山内亭への通路として、と言う辻褄は合うのですが、しかしそれでは当時の道では1.5〜2kmも離れた常楽寺の地に義母の墓と言うのはどうもしっくりこないのです。そこに堂宇を建てたと言うことは泰時の妻がその母の供養に通うためもあるのでしょうが、当時は2kmですからねぇ。義母の墓は円覚寺や浄智寺、あるいは地獄谷と言われた建長寺のあたりの方が良いじゃないですか。

仮に泰時の義母は泰時夫妻とは同居しておらず、一人で常楽寺の場所に住んでいたとしましょう。だから墓もそこだと。では何で泰時の墓が常楽寺に? 泰時の妻が先に死に、母思いのその妻を思って母の墓の隣に弔ってやった。で、その後泰時もその妻の側らに眠らせてくれと遺言した、なんて愛情溢れる想定も出来ないではありませんが、でもそこが泰時の屋敷であり、持仏堂であったからと考える方が自然なのではないでしょうか?

と言う訳で、この説のどちらをとるかは当時の「侍(御家人)」、それ以前の在地領主の墓地と館の一般的な関係に依存します。まだあまり詳しくはないので先々コロリと自説を変えるかもしれませんが。

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仏殿は1691年(元禄四年)の建立とか。かなり大がかりな解体修理が行われているようですが。

北条泰時の一周忌法会

『吾妻鏡』 仁治三年(1243年)6月15日 庚申 天霽
故前の武州禅室(泰時)周関の御仏事、山内粟船御堂 に於いてこれを修せらる。北條左親衛並びに武衛参り給う。遠江入道・前の右馬権頭・武蔵守以下人々群集す。曼陀羅供の儀なり。大阿闍梨信濃法印道禅、讃衆十二口と。この供、幽儀御在生の時殊に信心を抽んずと。

北条泰時は仁治三年(1242年)6月に60歳で他界するとこの粟船御堂に葬られ、翌寛元元年の一周忌法会もここでとり行なわれました。法名は常楽寺観阿。寺の名前の「常楽寺」は泰時の法名からです。やっぱり泰時の「山内巨福礼の別居」は常楽寺近辺だったのではないでしょうか。

このとき、大阿闍梨信濃法印道禅が導師をつとめています。当時有名な人だったらしく、この時代に良く出てきます。阿闍梨とは真言密教の最高の秘法を納めた人で位は高く、天皇の子(法親王)がなったりもします。左親衛とは左近衛将監・北条時頼の兄経時のこと「武衛」は兵衛府の唐名ですから左兵衛少尉時頼です。叙爵はこの翌月のこと。このときも多くの御家人が弔意に参じ、曼荼羅供の儀を行ったそうです。

「常楽寺」の名の初見は、宝治二年(1248年)三月につくられた梵鐘の銘文です。梵鐘は鎌倉では最古のもので、その梵鐘は現在鎌倉国宝館で見ることができます。その次が建長寺のもの 。建長寺・円覚寺・常楽寺の鐘が「鎌倉三名鐘」といわれています。

大覚禅師と常楽寺

1246年(淳祐6)蘭渓道隆が筑前博多に着ます。中国の人で、名が「道隆」で「蘭渓」は号です。「大覚禅師」の号は後世のおくり名で日本最初の禅師号です。

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事実上これが禅宗の始まりと言っても良いでしょう。もちろんその前に栄西が居ますが影響力の点で。蘭渓道隆一旦同地の円覚寺(鎌倉の円覚寺ではありません)にとどまり、翌年京都の泉涌寺来迎院に入ります。しかし旧仏教で固められている京都では活躍の場が少ないと考えたのか、あるいは日本の中心は既に鎌倉だったためか、日本に来てから3年後に鎌倉へ下向。時に36歳だったそうです。

鎌倉ではまず寿福寺におもむき大歇禅師に参じています。これを知った5代執権北条時頼は禅師の居としてここ常楽寺に招きます。それが建長寺が創建の五年前。先の梵鐘が造られた年の12月のことです。

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本堂右側に安置されているのが木造の蘭渓道隆像だと思います。室町時代の作で、道隆の面貌を実写的にとらえた優れた肖像彫刻と言われています。

『大覚録』(巻上)によると、翌建長元年正月「常楽寺に一百の来僧あり」といわれるほど、道隆に参禅求道しようとする多くの僧が当寺の門をたたいたため、同年4月には寺地を広げて僧堂が建立されたとか。そのころの建物には三門・仏殿・方丈などがあり、ここ常楽寺は当時としては相当の規模を誇っていたようです。

この間、5代執権北条時頼も政務の暇をみつけては師のもとに参禅し、おおいに問法したとか、・・・私はあまり信じてはいないのですが。そのなかから日本における最初の禅宗専門道場建長寺の構想が生まれたと言われています。


この頃の伝承としてこんな話があります。

道隆を心から尊崇した江ノ島弁財天は、師の給仕役である乙護童子を美女に変身させてからかったというのである。それとは知らない童子は、いつものようにせっせと師に仕えていたが、 傍目には道隆が美女をはべらせて寵愛しているようにしか見えない。
当然、土地の人々の口はうるさくなり、美女と道隆の話でもちきりとなった。ことの由を知った童子は、身の潔白を示そうとして、にわかに白蛇と化し、仏殿前の銀杏樹を七まわり半めぐり、同じく仏殿のかたわらにある色天無熱池を尾でたたいたのである、と。

でも道隆を心から尊崇したにしては江ノ島弁財天もおかしなことをしますねぇ。

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鏡天井には、狩野雪信筆『雲竜』が描かれています。狩野雪信って女性だとか。「円鑑」の額は無学祖元の筆と。


建長五年(1253年)11月、建長寺の開堂供養が行なわれ、禅道場の大刹が創建されるとその住持は常楽寺の住職をも兼ね、常楽寺を守る僧衆を定めたそうです。
これは蘭渓道隆の経緯で「常楽は建長の根本なり」 と、謂わば建長寺は常楽寺を発展させたもの思われていたからとか。

『吾妻鏡』 1253年(建長5年 癸丑)

11月25日 庚子 霰降る。辰の刻以後小雨灑ぐ
建長寺 供養なり。丈六の地蔵菩薩を以て中尊と為す。また同像千体を安置す。相州(時頼)殊に精誠を凝らせしめ給う。去る建長三年十一月八日事始め有り。すでに造畢の間、今日梵席を展ぶ。願文の草は前の大内記茂範朝臣、清書は相州、導師は宋朝の僧道隆禅師。また一日の内五部大乗経を写し供養せらる。この作善の旨趣は、上は皇帝万歳・将軍家及び重臣の千秋・天下太平を祈り、下は三代の上将・二位家並びに御一門の過去数輩の没後を訪い御うと。

11月29日 甲辰 晴
諏方兵衛入道蓮佛、山内建立の一堂 、今日供養を遂ぐ。これ武州前刺禅室(泰時)追福の奉為と。辰の日の追善仏事先規無きの由、傾け申すの輩有り。而るに参河守教隆眞人勘じ申して云く、入道中納言能保卿後白河法皇御追福の奉為、甲辰の日小堂を供養す。宇治阿弥陀堂供養に当たりまた辰の日たり。これ追善なりと。

文殊堂

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こちらは文殊堂、明治14年に扇が谷の英勝寺から移築したものだそうです。

文殊菩薩は文珠菩薩とも書き、文殊師利菩薩(もんじゅしゅりぼさつ)の略で。梵名はマンジュシュリー。バラモン教の神の転身ではなく、舎衛国のバラモンに生まれた実在の人物だそうです。仏典編纂に関わったとか。「文珠の知恵」と言えばおわかりになるでしょう。知恵の神様、いや菩薩さまです。こちらに祭られる文殊菩薩は首部は蘭渓道隆が日本に来た時に携えてきて胴部を日本で補造したと伝えられます。そうかどうかはともかくとして、鎌倉時代のものと言うことは確からしいです。

1月25日の文殊祭りのときしか御開帳にならないんだそうですが、この元旦には開いていました。でもそんな大変なものとは知らず、天井の文殊大菩薩と書かれた提灯と千羽鶴しか見ていませんでした。あとは「神社でもないのにここは鈴なんだよなぁ」とか。失敗した!

北条泰時の十三回忌

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翌1254年(建長六年)、3代執権北条泰時の十三回忌がここ常楽寺でとり行なわれます。臨済宗建長寺の住持が兼任したお寺なのに真言供養と言うところが当時らしいですね。

『吾妻鏡』 1254年(建長6)6月15日条
今日前の武州禅室(泰時)十三年の忌景を迎え、彼の墳墓青船御塔を供養せらる。導師は信濃僧正道禅、真言供養なり。請僧の中、中納言律師定圓(光俊朝臣の子)・備中已講経幸・蔵人阿闍梨長信等これに在り。この御追福の為八講を行う。京都より態と招請せらるる所なり。相州(時頼)御聴聞。御仏事已後、相州(時頼)山内の御亭に帰らしめ給うの処、鎌倉中騒動す。路次往返の輩多く以て兵具を帯す。仍って則ち鎌倉の御亭 に渡御するなり。

道禅がまた出てきましたね。ここでの相州とは北条時頼、山内の御亭とは現在の明月院近辺、のちの禅興寺のことです。

北条泰時の墓

本堂裏のこちら、一番手前が北条泰時の墓と伝えられています。

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その奥には古い石仏が。読める範囲では元禄、宝永、享保、元冶と江戸時代中期以降のもの、古いものは読めません。

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姫宮塚

山門を出て境内に沿って左側の小径の奥の粟船山の斜面に北条泰時の娘と伝えられる姫宮塚と粟船稲荷の祠があります。本当だとすると、いよいよここは北条泰時の別業(私邸)だったのではないでしょうか。

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木曽義高の墓・木曽塚

その上には木曽塚が。木曽義仲の子、義高の墓と伝えられます。
「鎌倉攬勝考」(らんしょうこう 文政12年:1829年編)によると、義高の首実検後、ここから300mぐらいの田圃に塚を築いて埋葬し、その土地は代々「木曽免」と呼ばれて租税を免除されていたそうです。その後と言うかだいぶ後の江戸時代延宝8年(1680年)2月に、田の持ち主が掘ったところ人骨入りの青磁の瓶を見つけ、これが木曽義高に違いないとここ常楽寺に移し、塚をきずいて木曽塚と称したとあるそうです。

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木曽義高(清水冠者義高)と言うと頼朝の娘の大姫の婚約者で、大姫との悲劇の物語は有名ですが、あまりにも有名なのでここでは省略。
ちなみに木曽塚がここにあるので、すぐ傍の姫塚は大姫に違いないと言う説もあります。実は今日、常楽寺で追加の写真を撮っているときにその大姫の姫塚を探している女性に会い案内したほどです。でもねぇ、木曽塚がここに移ったのは江戸時代なんだからその伝承は無理がありますよねぇ。

木曽塚の脇に大正15年の鎌倉史跡碑があります。

義高は義仲の長子なり 義仲嘗て頼朝の怨を招きて兵を受け将に戦に及ばんとす 義高質として鎌倉に至り和漸くなる 爾来頼朝の養う所となり其女を得て妻となす 後義仲の粟津に誅せらるるに及び遁れて入間河原に至り捕へられて斬らる 塚は元此地の西南約二町木曾免といふ田間に在りしを延宝年中此に移すといふ 旭将軍が痛烈にして豪快なる短き生涯の余韻を伝へて数奇の運命に弄ばれし彼の薄命の公子が首級は此の地に於て永き眠を結べるなり  (大正十五年一月 鎌倉同友会)


2007.1.20 2008.7.10 2008.8.24-29 9.14 追記