鎌倉の正月2007.01.01 粟船山常楽寺 |
元旦に近所の常楽寺にお参りに行きました。 山号を粟船山(ぞくせんざん)。常楽寺と名を改める前は、粟船御堂(あわふねみどう)、または青船御塔ともよばれたようです。現在の大船の地名はこの「粟船」(あわふね)または青船(あおふね)が段々となまったものとか。 江戸初期に水戸光圀が家臣に命じて編纂した「新編鎌倉志」には、「往時、海浜たり、粟を載(のする)船を以て此に繋ぐ、一夕変じて山と化す。今の粟船山是なり、其の形の如し」(ホントはかなはカタカナ)と。一夜で陸地が起きたというその地形変動は江の島隆起したときでしょうか? 『鎌倉市史・考古編』によると、縄文時代には離山の西際まで実際に海だったようで、その後も海水の海は後退しても、低湿地で沼も多かったのでしょう。付近は農耕地であり、その運搬には船が用いられ、人の住まいは湿地ではない粟船山の上だったかと。そこからは弥生式土器後期と思われる陶片が散在していたと言います。平安時代後期にはその湿地も少しずつ後退し、民家も粟船山の上から下に下りてきたかと。 もう10年以上前になりますが私は部屋着にしていた作務衣のままママチャリでこちらに来て境内を見せて頂いたあと、門の右側の通用門みたいなところから出ようとしたら、ちょうど法事でお婆さんが入ろうとしていたのです。そこで道を譲って軽く頭を下げたら、そのお婆さんに深ぶかとお辞儀をされて・・・・。どうも私は寺男と間違われたようです。(笑) 常楽寺には1791年の境内絵図が残されており、それと現在の配置は殆ど同じだそうで、その中に。ちょうどこの中心の枯れた銀杏の大木のあたりに木が一本書かれているそうです。 写真にある石碑には「開山禅師手植えの銀杏樹で、大正六年秋、台風のために傾斜、同十二年の大震災で更に傾斜、支柱を施すが年々傾斜の度を増す。昭和十三年八月三十日夜、暴風のため倒れ尽くす」と。 「開山禅師手植え」は本当かどうかは判りませんが「もしかしたら」と思わせる佇まいです。 常楽寺の開山文献上の初見はこれです。まだ常楽寺とは言われていませんが。
左京兆とは左京大夫、つまり北条泰時のことで、この年の3月4日に武蔵守に加え左京権大夫を兼任しています。左京兆室はその夫人。 荘厳房律師行勇とは退耕行勇(たいこうぎょうゆう 1163〜1241)のことですね、栄西の弟子で栄西没後は寿福寺二世住持、浄妙寺を開山した人でもあります。これが粟船御堂の発端です。 ここに妻の母の墳墓があったと言うことはその義母は妻とともにここに住んでいた? 義理の母の為に一梵宇を建てるとなると、その妻とは正妻で多分嫡男北条時氏の母で三浦義村の娘? いや安保実員の娘でしょうか。そして北条泰時は妻の為にその母の墳墓の傍らに一梵宇を建てたと。しかし北条泰時って愛妻家のよい夫だったんですね。 「山内巨福礼の別居」が常楽寺に?この地は北条泰時の別業(「べつぎょう」とも「しものやかた」とも読み、私邸、別邸)であったのかもしれません。「吾妻鏡」の1241年には泰時の「山内巨福礼の別居」が出てきます。
「前の武州」は北条泰時のこと1219年(建保7)から1238年(嘉禎4)4月6日に辞任するまで武蔵守でした。 「右幕下」は右近衛大将の居所(幕府、と同義)、右近衛大将自身のことも表し、ここでは源頼朝のことですね。頼朝の法華堂は現在の頼朝の供養塔の処です。「右京兆」は右京権大夫、ここでは北条義時のことで、その法華堂は大蔵法華堂、覚園寺でしょうか? それとも釈迦堂切通しの方? 『中世都市鎌倉の実像と境界』p31で秋山哲雄先生は、ここに出てくる「山内巨福礼の別居」を、1223年(貞応2年)1月25日条の「西方奥州当時の舘」と同じもので、のちに建長寺になったと。
「若君の御方の壺」の「壺」とは「局(つぼね)」と同音同義で、若き傀儡将軍(まだなっていないけど)の住まう一角です。白状すると私は「若君の御方の壺」を大倉御所の一画と思いこんでいたんですが違うみたい。というのはその秋山先生に教えてもらって気が付いたんですが。 「西方奥州当時の舘」がここ常楽寺だったのかどうかは解りませんが、でも「山内巨福礼の別居」は建長寺の場所ではなくここ(正確にいうとこの近く)だと思います。ほかの点は全部降参してもここだけはゆずらない。(笑) 確かに建長寺の山号は巨福呂山だし巨福呂坂切通しもあるのですが、しかし建長寺の地に元は地蔵菩薩坐像を本尊とする伽羅出陀山心平寺があったとは伝えられていても、北条氏の屋敷が有ったとは伝えられていません。「山内巨福礼の別居」は「山内荘巨福礼郷の別居」と読むのが正しいと思います。 この当時の山内とは山内荘のことで、現在の地名の山内、つまり北鎌倉近辺のことではありません。泰時の孫の時頼以降の時代には「山内殿」とか「山内亭」と出てきますが、栄区の証菩提寺だって山内です。『吾妻鏡』にもこう出てきます。
そして「巨福礼」「巨福呂」郷ですが、語源的には「フクロ(袋)、フクレ(膨れ)」は水に囲まれた袋状の地域、または低湿地なんだそうです。建長寺のあたりではとても低湿地とは言えないし、また郷の名前になるような処でもないでしょう。「山内巨福礼の別居」と書かれたのは山内道が整備される前ですから。泰時より後の時代、この山内荘の巨福礼郷の奥、鎌倉中から見れば手前の、現在の円覚寺から東に、北条時頼以降の得宗家が代々事実上の本宅を持ち、禅宗の大寺院が次々と出来たことから、鎌倉幕府の中では、山内と言えば山内荘の中のそのエリアを思い浮かべるようになったんでしょうね。 鎌倉時代に巨福礼郷のエリアを示す史料はありませんが、「新編鎌倉志」は戦国時代小田原北条氏の頃かに巨福礼郷(巨福呂郷)は「円覚寺西方を境に上(東)を山内、下(西)を市場村巨福呂谷に分かれた」と伝えています。その「巨福呂谷」が現在の「小袋谷」と書かれた記録は16世紀頃にあります。巨福礼郷の中心から鎌倉へ抜ける道筋が巨福呂(礼)坂と考えると現在の常楽寺=「山内巨福礼の別居」、と「巨福山建長寺」、「巨福呂坂切通」の関係が納得できますね。 一方、山内とは何処なのか。 と、こう言うと「おいおい、今山内は山内荘のことだと言ったばっかりじゃないか!」と突っ込みを受けるかもしれませんが、実は山内荘は寄進系荘園なんです。だから鎌倉から北は横浜市の戸塚区だって栄区だってみんな山内荘ってぐらいに広大なんですが。 その寄進系荘園というのは、本荘を皇室なんかに寄進して荘園として承認してもらうときに、その廻りの数百町(農家数百戸、数千〜1万石ぐらい)を加納・余田としてドサクサ紛れにまとめて立荘してしまう(ほんとはそこが狙い!)ものなんです。 だから名前の元となった山内本荘(数十町、農家数十戸ぐらい)があったはずなんです。1140年頃にはね。私が住んでいるあたりがその山内本荘だったらちょっとばかしカッコええなぁと思うんですが、その位置は解りません。残念なことに、一般には横浜市栄区本郷台あたりが原「山内」の中心と見られています。 悪のりな推論円覚寺前を通る鎌倉道が藤沢方面と戸塚方面に分かれる水堰橋から離山(大船駅方面)に向かい横須賀線を渡る「鎌倉道第二踏切」の向こう側に成福寺と言うお寺がありますが、こちらは北条泰時の子泰次が若くして仏門に入って紗門院泰次入道となり、その後親鸞に師事して1232年にこの寺を開いたとか。鎌倉幕府滅亡(1333)の時には住職は北条高時の実弟だったので追放されたそうです。真偽のほどは確認しようがないですが、しかしそうだとするとここは北条泰時の子泰次の館だったと考えることもできます。 ちょっと悪のりですが、吾妻鏡1180年10月9日の条に出てくるの位置不明であった「知家事(ちけじ)兼道」の「山内の宅」もここ常楽寺の地だったというのはどうでしょうか? もちろんそこでの山内は証菩提寺の方だったかもしれないのですが、そちらも確定は出来ないので。 兼道の館は、「築200年、安部清明の札が貼ってあって一度も火事に遭わなかったから」と解体されて鎌倉は大蔵に運ばれ、頼朝の館となった屋敷です。
200年もその地に屋敷を構えるのはこの時代では小規模でも開拓領主、領地経営にも物流にも適した地に屋敷を構えます。またその屋敷跡なら地ならしも土塁等も有る程度出来上がっていて井戸も掘られていたでしょう。 ただし、この時代の土豪の家が200年ももつ家だったなんてちょっと考えられないですね。「200年」は、安部清明と一緒に「嘘!」。 それらを推測や仮定も含めて時系列に並べてみましょう。
実は北条貞時も、場所は不明ながら、今も山ノ内と言われる北鎌倉近辺に最勝園寺と呼ばれる別業、事実上本宅を構えていたようです。(きっと円覚寺の近くではないでしょうか? 何の根拠もありませんが。) 話がつながりますねぇ。1個や2個ひっくり返されても大勢に影響は無いかも。やはり泰時が父義時から受け継いだ「山内巨福礼の別居」が常楽寺かまたはその近辺なのではないでしょうか。もしかしたら鎌倉史上の大発見? 「大手中路」は頼朝の帰路がちょっとやばかったですが、これはやったかも! ところが、ここ常楽寺の発掘調査報告書を読んでいたら、私が「大発見!」をするずっと前から、そういう話しはあったそうです。残念! と口で言ってもイメージがつかめないでしょうから、化粧坂切通しに使った「明治15年陸軍参謀本部 2万分1フランス式彩色地図(国土地理院)」の地図をこちらにも。 化粧坂の先は色々考えられます。 しかし別の可能性もこの説の次に考えられるものは、こういうケースでしょうか。
この想定は、仁治元年(1240)に泰時が「山内道路」を整備したのはその山内亭への通路として、と言う辻褄は合うのですが、しかしそれでは当時の道では1.5〜2kmも離れた常楽寺の地に義母の墓と言うのはどうもしっくりこないのです。そこに堂宇を建てたと言うことは泰時の妻がその母の供養に通うためもあるのでしょうが、当時は2kmですからねぇ。義母の墓は円覚寺や浄智寺、あるいは地獄谷と言われた建長寺のあたりの方が良いじゃないですか。 仮に泰時の義母は泰時夫妻とは同居しておらず、一人で常楽寺の場所に住んでいたとしましょう。だから墓もそこだと。では何で泰時の墓が常楽寺に? 泰時の妻が先に死に、母思いのその妻を思って母の墓の隣に弔ってやった。で、その後泰時もその妻の側らに眠らせてくれと遺言した、なんて愛情溢れる想定も出来ないではありませんが、でもそこが泰時の屋敷であり、持仏堂であったからと考える方が自然なのではないでしょうか? と言う訳で、この説のどちらをとるかは当時の「侍(御家人)」、それ以前の在地領主の墓地と館の一般的な関係に依存します。まだあまり詳しくはないので先々コロリと自説を変えるかもしれませんが。 仏殿は1691年(元禄四年)の建立とか。かなり大がかりな解体修理が行われているようですが。 北条泰時の一周忌法会
北条泰時は仁治三年(1242年)6月に60歳で他界するとこの粟船御堂に葬られ、翌寛元元年の一周忌法会もここでとり行なわれました。法名は常楽寺観阿。寺の名前の「常楽寺」は泰時の法名からです。やっぱり泰時の「山内巨福礼の別居」は常楽寺近辺だったのではないでしょうか。 このとき、大阿闍梨信濃法印道禅が導師をつとめています。当時有名な人だったらしく、この時代に良く出てきます。阿闍梨とは真言密教の最高の秘法を納めた人で位は高く、天皇の子(法親王)がなったりもします。左親衛とは左近衛将監・北条時頼の兄経時のこと「武衛」は兵衛府の唐名ですから左兵衛少尉時頼です。叙爵はこの翌月のこと。このときも多くの御家人が弔意に参じ、曼荼羅供の儀を行ったそうです。 「常楽寺」の名の初見は、宝治二年(1248年)三月につくられた梵鐘の銘文です。梵鐘は鎌倉では最古のもので、その梵鐘は現在鎌倉国宝館で見ることができます。その次が建長寺のもの 。建長寺・円覚寺・常楽寺の鐘が「鎌倉三名鐘」といわれています。 大覚禅師と常楽寺1246年(淳祐6)蘭渓道隆が筑前博多に着ます。中国の人で、名が「道隆」で「蘭渓」は号です。「大覚禅師」の号は後世のおくり名で日本最初の禅師号です。 事実上これが禅宗の始まりと言っても良いでしょう。もちろんその前に栄西が居ますが影響力の点で。蘭渓道隆一旦同地の円覚寺(鎌倉の円覚寺ではありません)にとどまり、翌年京都の泉涌寺来迎院に入ります。しかし旧仏教で固められている京都では活躍の場が少ないと考えたのか、あるいは日本の中心は既に鎌倉だったためか、日本に来てから3年後に鎌倉へ下向。時に36歳だったそうです。 鎌倉ではまず寿福寺におもむき大歇禅師に参じています。これを知った5代執権北条時頼は禅師の居としてここ常楽寺に招きます。それが建長寺が創建の五年前。先の梵鐘が造られた年の12月のことです。 本堂右側に安置されているのが木造の蘭渓道隆像だと思います。室町時代の作で、道隆の面貌を実写的にとらえた優れた肖像彫刻と言われています。 『大覚録』(巻上)によると、翌建長元年正月「常楽寺に一百の来僧あり」といわれるほど、道隆に参禅求道しようとする多くの僧が当寺の門をたたいたため、同年4月には寺地を広げて僧堂が建立されたとか。そのころの建物には三門・仏殿・方丈などがあり、ここ常楽寺は当時としては相当の規模を誇っていたようです。 この間、5代執権北条時頼も政務の暇をみつけては師のもとに参禅し、おおいに問法したとか、・・・私はあまり信じてはいないのですが。そのなかから日本における最初の禅宗専門道場建長寺の構想が生まれたと言われています。 この頃の伝承としてこんな話があります。
でも道隆を心から尊崇したにしては江ノ島弁財天もおかしなことをしますねぇ。 鏡天井には、狩野雪信筆『雲竜』が描かれています。狩野雪信って女性だとか。「円鑑」の額は無学祖元の筆と。 建長五年(1253年)11月、建長寺の開堂供養が行なわれ、禅道場の大刹が創建されるとその住持は常楽寺の住職をも兼ね、常楽寺を守る僧衆を定めたそうです。
文殊堂こちらは文殊堂、明治14年に扇が谷の英勝寺から移築したものだそうです。 文殊菩薩は文珠菩薩とも書き、文殊師利菩薩(もんじゅしゅりぼさつ)の略で。梵名はマンジュシュリー。バラモン教の神の転身ではなく、舎衛国のバラモンに生まれた実在の人物だそうです。仏典編纂に関わったとか。「文珠の知恵」と言えばおわかりになるでしょう。知恵の神様、いや菩薩さまです。こちらに祭られる文殊菩薩は首部は蘭渓道隆が日本に来た時に携えてきて胴部を日本で補造したと伝えられます。そうかどうかはともかくとして、鎌倉時代のものと言うことは確からしいです。 1月25日の文殊祭りのときしか御開帳にならないんだそうですが、この元旦には開いていました。でもそんな大変なものとは知らず、天井の文殊大菩薩と書かれた提灯と千羽鶴しか見ていませんでした。あとは「神社でもないのにここは鈴なんだよなぁ」とか。失敗した! 北条泰時の十三回忌翌1254年(建長六年)、3代執権北条泰時の十三回忌がここ常楽寺でとり行なわれます。臨済宗建長寺の住持が兼任したお寺なのに真言供養と言うところが当時らしいですね。
道禅がまた出てきましたね。ここでの相州とは北条時頼、山内の御亭とは現在の明月院近辺、のちの禅興寺のことです。 北条泰時の墓本堂裏のこちら、一番手前が北条泰時の墓と伝えられています。 その奥には古い石仏が。読める範囲では元禄、宝永、享保、元冶と江戸時代中期以降のもの、古いものは読めません。 姫宮塚山門を出て境内に沿って左側の小径の奥の粟船山の斜面に北条泰時の娘と伝えられる姫宮塚と粟船稲荷の祠があります。本当だとすると、いよいよここは北条泰時の別業(私邸)だったのではないでしょうか。 木曽義高の墓・木曽塚その上には木曽塚が。木曽義仲の子、義高の墓と伝えられます。 木曽義高(清水冠者義高)と言うと頼朝の娘の大姫の婚約者で、大姫との悲劇の物語は有名ですが、あまりにも有名なのでここでは省略。 木曽塚の脇に大正15年の鎌倉史跡碑があります。
2007.1.20 2008.7.10 2008.8.24-29 9.14 追記 |