鎌倉の梅 2006/3/15   海蔵寺の梅と歴史.1

扇谷山海蔵寺の歴史

海蔵寺は小さなお寺ながら紅葉のときもすばらしかったですが、梅もなかなかでした。

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建長五年(1253)に六代将軍宗尊親王の命により藤原仲能(道知禅師)が七堂伽藍の大寺を建立したものでもともとは真言宗の寺だったそうです。しかし1333年の鎌倉滅亡の際の全焼したと言いますが定かではありません。それほどの大伽藍なら吾妻鏡に出てきそうなものですが。その後のことはこちらに詳しいです。

扇が谷にあり、臨済宗建長寺派。
応永元年(1394)上杉氏定(1374-1416)が氏満の命をうけて創建したと伝え、開山は大覚禅師五世の孫という心昭空外とするが、事績は不明。山号は扇谷山。 寺は五山・十刹・諸山のどれにも列せず、はやくから建長寺の頭塔のようになっていた。『鎌倉志』に「天正ノ此ヨリ建長寺ノ塔頭ニ属ス」とある。
詳しい寺史は編めないが、室町期の応永・永享のころ、扇谷上杉の外護のもとに栄えた様子が、『関東合戦記』『永享記』などによって知られる。
塔頭は開山塔の仏超庵をはじめ、寂外・棲雲・昭用・崇徳各庵など十数庵を数えている。
寛政三年(1791)の『海蔵寺境内図』では仏殿・客殿・庫裡・長屋・門などをあげ、塔頭は端東庵だけを記している。

仏殿は安永六年(1777)に浄智寺から移したもの。 遺跡では鎌倉期様式のやぐらである。「十六の井」や鎌倉十井の一つ「底脱の井」もある。

  【出 典 名】鎌倉事典(白井永二 編)東京堂出版

天正年間(1573〜92)、または1577年(天正5年)に臨済宗建長寺の末寺になったと言う説もありますが、はて?
山門脇の底脱の井、十六の井があることから、水の寺とも呼ばれています。

源翁禅師とカナズチ

開山とされる心昭空外(うげ)は源翁禅師(げんのうぜんじ)とも呼ばれます。金槌のことをゲンノウと言いますが、殺生石をこれで打ち割った源翁禅師に由来するんだとか。こういうお話です。多分どこかで聞いたことがあるでしょう。

平安時代末期、鳥羽天皇が奇病に悩まされていた。原因は愛妾に化けていた白キツネ(確か七尾)の仕業だった。逃げるキツネを三浦義明が那須の原で討ち取った。その功により三浦義明は三浦大介を名乗ることを許された。しかし死んだ白キツネの怨念が「殺生石」となり近寄った人間は死んでしまう(ガスじゃないの?)。室町時代初期に、その「殺生石」を海蔵寺の源翁禅師が念力で一撃して砕き、そのあたり一帯は呪いから解放されたと。

本堂と庫裡

本堂は関東大震災後で倒壊し、左の現在の本堂は大正期に再建されたもの。
右の茅葺屋根の建物は江戸時代1785年(天明5年)に建てられた庫裡です。

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もうちょっと近づいてみましょう。梅が綺麗ですね。

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海蔵寺鐘楼と梅

こちらは鐘楼。ここは紅葉のスポットでもあります。

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海蔵寺庭の三椏

種類が有るのでしょうか。ここの三椏の幹(枝)はえらい太かったです。

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海蔵寺の紅梅

逆光で見る紅梅は綺麗でした。向こうに見えるのは薬師堂です。

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しかし紅梅と呼んでいいんだろうか。フキフキ "A^^;