北鎌倉の紫陽花  宝亀山長寿禅寺の歴史  2008.6.1

明月院、浄智寺があれぐらいでもきっと長寿寺の斜面の紫陽花は見事に色づいているのでは? と行ってみたら案の定。なんかここだけ早いんですよ。去年ビックラこきました。

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と、その紫陽花を撮り終わって、ふと振り返ると・・・・、あれ? 長寿寺が「特別公開」だって。 

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いや、ここは今まで公開していなかったんですが。


商店やらネットショッピングの「特別〜」には、「ケッ!」て感じなんですが、お寺や神社で「特別公開」と言われると、もう弱いんです。

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いつから公開を始めたんですか? と聞いたら今年の春からとか。何度も前を通っているんですが気がつきませんでした。自転車だからねぇ。で、6月いっぱいは金土日の週に3日間公開して、7、8月はまた非公開。秋はどうするか決めてないとのこと。妥当だと思います。夏は鎌倉は由比ヶ浜以外は閑散。当サイトも夏は冬の時代です。


まあ、階段を上がった門前のこれは前から知っていましたが。怖い亀さんですねぇ。何というのか忘れましたが、中国の神話に出てくる神獣でしょうか。 

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その向かいはお地蔵さん? ちなみにお地蔵さんの後ろの垣根の向こうが亀ヶ谷切通しへの道です。私が鎌倉中(中学ではない)へ行くときの道です。

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で、門のところに縁起が書いてありました。

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『鎌倉の寺小辞典』と、山家浩樹 「無外如大と無着」(『金沢文庫研究』第301号)からちょっと調べてみました。それにこちらのサイト は古先印元禅師についてとても詳しい。

まず古先印元禅師(1295〜1374)は『古先和尚行状』 (『続群書類従』収録) によってその足跡が知られますが、薩摩国の人で、8歳(今だと6〜7歳?)から6年の間、円覚寺の桃渓徳悟禅師(とうけいとくご:1240〜1306)の弟子となります。弟子と言っても今なら小学生、小僧さんですね。 この頃夢窓疎石も桃渓徳悟に師事していたのでしょうか。

文保2年(1318)24歳の時、海を渡って中国にわたり、本格的な修行はそこででしょうか。その中国の真浄寺の清拙正澄禅師にも師事し、清拙正澄が日本の北条氏より招聘され日本へ渡るときに一所に帰ってきます。そして 1327年(嘉暦2)に清拙正澄が鎌倉の建長寺の住持となると、古先印元も建長寺へ。その後幾つもの寺を開いたり、また住持となったりしています。後でまたふれますが、足利氏との関係も深かったようです。

1376年(永和2)成立の『古先和尚行状』 によると、尊氏の死の年に、ときの鎌倉公方足利基氏が、古先印元を開山として創建した寺院とありますが、しかし1336年(建武3)に、すでに尊氏が「諸山」に列した明証 (*) があり、創建はさらにそれより以前ということになります。

(*) 長寿寺諸山は、『建長寺文書』建武三年(1336年)八月二十九日足利尊氏御判御教書(『鎌倉市史』史料編三、207号)。

ちなみに「関東諸山第一の寺」というその「諸山」ですが、関東の第一の寺という訳ではありません。よく知られる「鎌倉五山」がありますが、実は「五山」は室町幕府が決めた禅寺の寺格で、「五山」の下に「十刹」(じっせつ)が置かれ、その下が「諸山」(しょざん)として位置づけられた寺格です。ですから「関東諸山第一の寺」ということはその上にまだ15もの格の高い禅寺が関東にあったということになります。そうそう、尼寺はまた別に「五山」があります。東慶寺が鎌倉五山にはいらないのは尼寺だったからですね。

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向こう側に見えるのが山門、右の小さな門の外は亀ヶ谷切通し道になります。いつもはその門からちらっと覗くだけだったのですが。今日は中から。 

尊氏の法名は一般には「等持院殿」ですが、1358年(延文3)4月30日に死去してすぐに「等持院殿」と呼ばれたわけではなく (1) 、当初は「長寿寺殿」と呼ばれていました。例えば三十五日忌の導師を務めた乾峰士曇の法語に「長寿寺殿仁山義公」とみえ (2) 、また初めての月忌の際に、中巌円月が京都壇林寺の住持尼にかわって作成した法語にも「長寿寺殿」 (3) とあります。

(1) 尊氏死去の関連史料は『大日本史料』第六編之二十一、延文三年〔1358〕四月三十日条に収める  (2) 乾峰の法語は『広智国師語録』一、(3) 中巌作の法語は『東海一※別集』

また、それは尊氏の「存日之号」、つまり尊氏が生前から用いた称号と伝える史料もあり(*) 、長寿寺は、おそらく尊氏が創建した寺院であろうとされます。そっちの方が古いのに何でお寺の「長寿寺略縁起」には新しく書いてあるのかというと、まあ、立場上『古先和尚行状』の記述の是とするしかないでしょう。

(*) 「存日之号」と記すのは、『神護寺交衆任日次第』にみえる注記、『大日本史料』前掲尊氏死歿条所収。

 

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こちらが本堂の縁側です。2〜3年前に新築の工事をしていました。本堂の中央にはご本尊・釈迦如来、向かって右側に足利尊氏坐像、左側に開山古先印元坐像があります。

またここにあった釣り鐘が現在円覚寺に(どこだろう?)残っていて、それの銘文によると、1389年(元中6)にここ長寿寺には僧堂があったとこが解るそうです(『鎌倉の寺小辞典』)。七堂伽藍というのはその僧堂からの推測かもしれません。

僧堂は選佛堂とも言われることがあり、僧の修行場です。円覚寺の選佛堂を思い出しますね、私の好きな処です。あそこも両脇で修行僧が座禅を組んだりしていたんでしょう、そういう作りです。『鎌倉の寺小辞典』によると、林羅山、林鵞峯(春斉)父子の『続本朝通観』には1448年に火災にあったことが記されているそうです。

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この図は江戸時代初期に水戸光圀が建長寺の復興の為に調査して書かせた図ですが、下の方の白丸の処が長寿寺です。では江戸初期に現存したのかというと、「さぁ〜?」ですね。なんせこの図は元々最盛期には「この位置にこれだけあったはず」、という図ですから。このあとにこの図を基に長寿寺も再建されたのかもしれません。

ところで永原慶二監修・貴志正造 訳注『全譯吾妻鏡』の別巻に鎌倉の地図があるのですが、ここ長寿寺の位置には「伝足利大夫判官邸」とあります。『吾妻鏡』1263年 (弘長3)8月6日条に足利大夫判官家氏が出てきますからこの人でしょうか。父は足利泰氏、母は名越朝時の娘。斯波氏の祖ですね。おっと足利大夫判官義氏も居ますねぇ。義氏の長男の足利長氏も大夫判官だ。どうもここでの足利大夫判官は足利義氏のことのようです。足利氏嫡流の別業がここにあって、それが足利尊氏の代まで引き継がれたということでしょうか。


さて、お堅い話はそれぐらいにして奥に行ってみましょう。こちらは客殿でしょうか? いや、小方丈でした。 

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8畳ぐらいの小さな(お寺ですから)お部屋がまず二つ。これは最初の方だったか。 

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こちらは2つ目のお部屋からのお庭の様子。 

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その廊下。向こう側が本堂ですね。 

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このお庭は、決して古風とか、冷厳という訳ではないのですが、良いお庭でした。 

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さっきの2つの部屋の方ですね。 

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こちらが3つ目の一番大きなお部屋。何畳あったんだろう。 

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書院の方へ。向こう側がさっきの新築部分です。 

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こちらは確か大正時代だったか。 

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