1.吾妻鏡の研究・明治時代 |
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<付論> 概要『吾妻鏡』(あづまかがみ)とは、日本の中世・鎌倉時代末期に成立した歴史書。編纂時期は諸説あるが1300年頃と見らている。 1180年(治承4)4月9日条の、東国の武士に挙兵を以仁王の令旨(りょうじ)が出され、それが4月27日に源頼朝のいる伊豆の北条館にもたらされたところから始まる。そして治承・寿永の乱、鎌倉幕府成立、承久の乱を経て13世紀半ばの1266年(文永3)に、鎌倉を追われた前将軍宗尊親王が京都に到着する7月20日の条までの87年間を、武家政権や社会の動きを鎌倉幕府将軍の年代記というスタイルで、貴族の日記と同じように和風漢文で記述されている。範囲としては当初から宗尊親王までで終わる予定であったろうが、それ以前についても、吾妻鏡の編纂自体はおそらく未完であったと考えられている。 源氏三代については、頼朝にはそれなりの敬意は払っているもののかなり手厳しいところもある。そして北条得宗家についてはその活躍や善政が高らかに強調される。特に北条泰時にそれが著しい。おそらくは鎌倉時代後期の1300年頃に、それまで北条氏主導の鎌倉幕府を支えてきた大江、三善、二階堂氏ら文筆の家(テクノクラート)に残る幕府の記録、筆録、日記を中心に、北条諸家、縁のある御家人の家伝、裁判の証拠として提出された偽文書も含む書類、更に寺社の記録、可能な場合は『明月記』などの公家の記録までを広範に収集して編纂されたと見られている。かなりの範囲で鎌倉時代後期での認識が混じっていると考えた方が安全であり、また一部には明らかに編纂時の曲筆と見られる部分もある。 編纂当時になんと呼ばれていたかは不明であるが、五味文彦氏は金沢文庫に残る長井貞秀の金沢貞顕宛書状に「鎌倉冶記」と読める書名があり、これが『吾妻鏡』のことではないかとする(p57)。「冶」は折り目による破損なのか欠字で左半分が無いが、残る右側半分は確かに「台」と読める。吉川本においては右田弘詮は「この関東記録(吾妻鏡と号す)」と書き、前田家に伝わる室町時代初期の写本(抄本)と推定されるものには包紙上書に「文治以来記録」とある。『吾妻鏡』と呼ばれるのは室町時代の写本からであり、『東鑑』と呼ばれるのは江戸時代の古活字版の表紙からである。 巻数は、写本のひとつ北条本をベースとすれば全52巻であり、15巻までが頼朝を主人公とし、24巻までが源氏三代。残り約半分強の主人公は北条得宗家である。ただし第45巻は欠落し、それ以外にも年単位で欠けている12年分を巻数が飛ばしており、そのうち3年分は他の写本には存在していたりする。『吾妻鏡』は早くに散逸し、室町時代には既に揃いの完本の形では伝えられておらず、断片的な抄出本や、数年分の零本の形で伝わるものがほとんどであったのではないかとされる。それを複数の者がそれぞれに収集しながらまとめていったものが、現在知られる複数の写本である。問題は多いものの、鎌倉時代を研究する上での前提となる基本史料である。 以下に歴史学においてこの『吾妻鏡』がどう評価されてきたのかを見てゆく。 明治大正初期の論文なので、「日記」とは「逐次記録」の意味、「追記」は「後年の編纂」と置き換えて読んでほしい。尚本編全体を通して江戸時代、明治時代の文献の引用ではカタカナはひらがなに直し、濁点を付加した。 星野恒(ほしの ひさし)の「吾妻鏡考」星野恒の論文集である『史学叢説』の最初の論考は「修史論史の要は材料精懌(えき?)に在る説」であり、星野はその論文をこう書き始める。
そして星野は1889年(明治22)の史学会設立直後に発行された『史学雑誌』の創刊号(第1編-1号)から、「吾妻鏡考」、2号には『将門記考』を著し、更に「保元物語考」「平治物語考」と毎月のように諸史料の「解題」を著していった。その最初を飾った「吾妻鏡考」において星野は以下のように述べる。尚、「吾妻鏡考」原文の参照は現在非常に困難であるので、事実の紹介を除き、星野自身の評価に関わる部分は極力引用しておく。
明治時代の歴史学者・星野恒(ほしの ひさし)もその前半と後半の境を何処に求めているのかは判然としない。しかし以下の文面から察するにかなりの部分を貴族の日記同様のリアルタイムな公式記録ととらえていたかに受け取られる。そしてまた現在の認識からすれば、星野は無批判に『吾妻鏡』を受け入れたと見えてもしかたがない。 ただし、上記の引用の中に「彼平家物語源平盛衰記等の専ら潤色を事とする者と、素より日を同じくして語るべきに非ず」とあるように、星野恒が当時向き合っていたのは後世の歴史学ではないことには十分に留意すべきであろう。先の「修史論史の要は材料精懌に在る説」との論文で星野はこう続けている。
「史料批判」という概念はまだ日本には伝わっていなかったかもしれないがそれに通じる考え方と言える。つまり「源平盛衰記」、「平家物語」、「太平記」のなどの、歴史史料としてはななはだ問題のある、しかし江戸時代以来、「大日本史」に象徴的なように、史家も世間もそれによって歴史を理解していたものに異義を唱え、より信頼すべき史料はどういうものかを示すことが当時は最大の課題だったのである。 「将門記考」は1975年の『論集将門記研究』(現代思潮社)の巻頭に収められている。 原勝郎の疑問
そして星野恒らの奮戦もあってか「平家物語」「太平記」を第一級の史料から後退し、むしろその史料価値の全否定が史学の雰囲気ともなっていったようである。それはそれで後にまた議論を引き起こすのだが、それより先にヨーロッパの歴史学研究法を学んだ若手の研究者によって、『吾妻鏡』の史料価値が再検討されることになる。 「吾妻鏡考」から9年後、原勝郎は1898年(明治31年)、まだ20代後半で東京帝国大学の大学院生の頃かと思うが、『史学雑誌』第9編第5号と6号に 『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』を著し、その冒頭をこう書き始める。
そして歴史研究における「史料批判」の重要性を強調し、「鎌倉時代の根本史料たる吾妻鏡の如きは管見を以てせば或は其性質は誤解せられ、其史料としての價値は過大視せらるゝ者にあらざるなきか」と警鐘を鳴らして、「(1)吾妻鏡は果して純粹の日記なるや否や」 「(2)吾妻鏡は其性質上果して官府の書類なるべきか」と設問する。 純粹の日記(逐次記録)かまず、「吾妻鏡は果して純粹の日記なるや否や」との設問については、については、遠く離れた地方で起こったことが当日の条に記述され、明らかに後世でなければ書けない部分も記事の中に散見されることを具体的に例あげて指摘する。
同日条を読み下し文であげておく。尚私はこの十九万騎という時点でまるで「太平記」のようだと思う。「直書」でありえない。尚、最後に「今日」から始まる部分は今日では前文とは別の資料からの編纂を示していると見るのが通例になっている。
そしてすくなくとも嘉禄2年(1226年)11月8日条以前は追記(後世の編集)であって決して日記(リアルタイムな記録)ではないとした。同日条も読み下し文であげておく。
これと関連するものは1189年(文治5年)9月17日条であり、奥州藤原氏が亡ぼされた直後、中尊寺・毛越寺の寺僧が寺領の安堵を頼朝に願い出た際、両寺の堂塔仏像の由緒を記した注文を差し出しており、その「寺塔已下注文」の全文が引用されている。これについて群馬県立女子大美学美術史学科教授の麻木脩平氏は、「『吾妻鏡』の一断面」の中で「これではまるで説話の世界である。基衡没後30年余の文治5年という時点で、中尊寺や毛越寺の僧が、実際にこのような文書を頼朝に提出したとは、私には信じられない。」と書かれる。これは1189年(文治5年)などではなく、おそらく両方とも、『吾妻鏡』が編纂された1300年頃に編纂者の元に提出された由来と推定すれば麻木脩平氏の疑問も解消するのではないだろうか。何れにしても原勝郎は「脱漏之卷嘉禄二年十一月八日の條」を元にこう述べる。
上記の引用部分の最後はどうもそれが本心とは思えない。星野恒が「前半ハ追記ニシテ」というその「前半」の範囲を具体的にどこまでがとは述べていないものの、「頼家變死ノ一事ハ曲筆ヲ免レズト雖、其餘ハ皆直書して諱マズ」とし、大部分は「逐次續録セシニ似タリ」であると言っているのである。 先に見た通り、星野の主眼は平家物語との比較に於いてであり、その範囲では云わんとするところは十分に理解は出来るのだが、しかし言葉通りに受け取ればそれはやはり言い過ぎと云えるだろう。原勝郎はその点に鋭く切り込んだ。嘉禄2年(1226年)以前とは、ボリュームで言えば『吾妻鏡』の約6割を占める。原勝郎がそれ以前を追記とした1226年(嘉禄2)が鎌倉時代の中でどういう年であったかを見てみよう。
本当の北条執権時代はそこからともいえる。そしてそこまでが鎌倉幕府創成の、そして本格的な執権政治の具体的な準備であり、『吾妻鏡』のもっとも重要な部分といえる。『吾妻鏡』の史料価値の7~8割はその部分にあると云っても過言ではないだろう。そこを「日記ではない」とされたら『吾妻鏡』を「鎌倉幕府ノ日記ナリ」とはいえなくなる。 尚、星野恒は原勝郎の論文から3年半後の1902年(明治35)正月に「吾妻鏡の補考」(『史学叢説』1編p600)を著してこう書き始める。
これは原勝郎の上記の指摘を意識したものであろう。事実上追認したものとも言えるかもしれない。と同時にこの「吾妻鏡の補考」からも星野恒の問題意識を知ることが出来る。「其餘は皆直書して諱まず」を私はかなり厳密、言葉通りに受け取ったが、しかし星野にとって問題であったのは、平家物語、太平記のような「物語」の部類なのか、それとも「玉葉」「百練抄」と同じに扱うべきなのか、という点にあったことが次の一文からも覗える。
これが「玉葉」「明月記」であればNO!だが、 「玉葉」「百練抄」であれば確かにその通りではある。「百練抄」も後年の編纂であるので。しかし原の指摘は、日本の史学研究が、その大掴みな段階から既に次のより精密なステージに進み始めたことを物語っているとも言える。 星野恒はちょうど親子ほどの歳の差のある原勝郎らの世代の成長と、そこでの自分への批判をどう感じていたのだろうか。私は困った顔をしながらも結構喜んでいたのではないかと思う。というのは、星野恒が明治26年1月に行った「史学ニ対スル世評ニ就キテ」との講演でこう述べていたからである。(久米邦武筆禍事件の前月であり、当時の史学会はフロンティア精神に溢れていたようである。)
原勝郎も目を輝かしてその講演を聴いていたと思いたいが、しかしこのとき原は18歳で第一高等中学校予科(現在東大教養学部)の学生か。まだ史学に進むとは思ってもいなかったかもしれない。 官府の書類か第2点目は、星野恒が、編纂者を「幕府ノ吏人ナルハ疑ナシ」としたことに対する検証である。
この疑問が原勝郎のいいたいことの根幹なのではなかったか。原勝郎は江戸時代初期の林道春(林羅山)が『東鑑考』(*1)において「盖北條家之左右執文筆者記之歟」と述べていることを紹介しながらこう結論する。
原勝郎はそれから14年後の1912年(大正1)、『足利時代を論ず』と言う論評の中でもこう書いている。
(*1)「東鏡未詳撰、盖北條家之左右執文筆者記之歟、此中北條殿請文下知書状等皆平性而不書諱、又其廣元邦通俊兼之筆記亦當混雜而在歟」 2008.3.20~4.24、9.21、12.06更新 |
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