2012.09.29 荻窪の家から川南まで |
お次は東を見ていきましょう。スピノラ幼稚園と川南までです。 △屋根二軒が昔の我が家の場所ですね。
最初の三叉路の角、今は高級アパートみたいですが、むかしは上の妹の話ではお化け屋敷と呼んでいたとか。空屋だったってだけですけどね。広い庭に大きな石灯籠がいくつか。何度か庭に忍び込んだことがあります。幼稚園の頃かな?
その次ぎの十字路です。上の妹の話ではこのあたりに屑屋さんが住んでいたと。男の子が居たんだっけ。女の子だったような気もするが。右側のちょい手前のお宅に、毎週何曜日か、夜になるとお邪魔していました。何故かというと、その家にはテレビがあったのです。ということは我が家には無かったんであります。見に行ったのは「ハイヨー、シルバー!」の『ローン・レンジャー』。1958年から日本でテレビ放映だそうです。 どこまでがそのお宅で、どこからが我が家かよく判らないのですが。『怪傑ゾロ』は「1957年から1959年にABCで放送」だって。いや「日本では1961年から日本テレビ系で放映」だからもう高井戸に引っ越してるね。 『ローハイド』(Rawhide)は、1959年から1965年まで、NET(現テレビ朝日)系で放送されたとか。う〜ん、微妙。 「名犬ラッシー」は日本では1957年11月からだからその家で見たかもしれないけど。上の妹の話ではポパイも見に行ったと。ライフルマンも見たんじゃないかと云うのですが、日本語版は1960年11月30日からでしょ? その頃は我が家にもテレビが無かったっけ? あるいは高井戸に引っ越していたか。 更にその次ぎの十字路で凄いものを発見。昔は表札と一緒に住所も門に表示していたんですね。杉並区の区の字を見て下さい。旧字体ですぜ。だいたい今の荻窪二丁目は環八の東側。このあたりは南荻窪一丁目ですぜい。でも懐かしいから許す。
その角を右に曲がると、こんもりした林が目に留まります。
その林の向かい側の家。
その洋館の門から。さっき遠目に見えた林です。ここで記憶にあるのは、夜暗くなってから家族と下宿の人だったのかなぁ。一緒に川南の方の銭湯に行く途中で、母ではない多分下宿の人が「もう昭和30年になるんだね。早いねぇ。」とか言っていたこと。 29年の暮れだったのか、30年になったばかりだったのか。いずれにしても私は5歳ぐらい? 一番目の妹は3歳? 零歳児を銭湯には連れていかないから二番目の妹はまだ生まれていなかったのか。下宿の人に連れて行ってもらったのか。 この林は上の妹が覚えてました。中に入って遊んだこともあると。私は入った覚えはないのですが。 ところでこの道は、実は川南のバス通りよりも古いのです。こちらの明治24年測量図を見てください。川南のバス通り(現環八)は陰も形も。でもこの道はでています。おそらく江戸時代末期からはあったのではないかと。それ以前ですか? 庚申塔が無いので江戸中期までは遡らないかもしれません。 そのまま真っ直ぐ行くと、右手に見えるのが1885年にスペインのスピノラ枢機卿によって設立されたスピノラ修道女会の双百合幼稚園。昔はスピノラ幼稚園と言っていました。 母の言うには、ここは戦時中の橋田文相の家でその大きな表札が残っていたと。調べてみると橋田邦彦のようです。 生物学も修めた医学博士で東京帝国大学教授。近衛・東條両内閣で文部大臣を勤めたため、敗戦でA級戦犯容疑者に指名されて東京荻窪の自邸、つまりここで自決。 母の話ではおっきな門がいつも閉まっていて人気の無い屋敷だったと。母が荻窪に来たのは終戦で復員してきた父と結婚してからだから、「そのころこの橋田邸は本当に主が居なかったんだよ」と教えたら、やっと腑に落ちた様で、「そうだったんだ〜」と笑ってました。 なんか今はこの敷地全部が幼稚園みたいなんだけど、私の頃はこの角っこにあった平屋の小さな建物でした。と母に言ったら、笑いながら「あれは車庫を改装したのよ」と。その車庫は修道院の車庫じゃなくて、橋田文相の車庫だったんですね。だから私には「科学する心」が宿って、自然観察会なんかに行っていたのか。納得。(。_・☆\ ベキバキ ところで車庫と言えば昔なら馬屋? 馬屋で生まれたイエス様、車庫で育った私。こっちも縁があって良さそうなのに。全然ですねぇ。(世間の声:「うんうん」) 上の妹によると、車庫は私なんかの年長さんのクラスで、妹達年少さんは礼拝堂(御堂)の建物の部屋だったとか。 HPによると、スピノラ修道女会はスペインのマドリッドに総本部があるんだそうです。で1953年(昭和28年) に 2人のスペイン人修道女が来日し、ここ荻窪1-4-11(旧町丁目)に修道院設立。 あれ?
なんだそりゃ! おかしくね〜か? カソリックの修道院がそれで良いのか? だいたいほうきを持つのは魔女だろ!(でも、楽しそうで良いですね♪)
その北側向かいにこの幼稚園に通う女の子がいて、その家に遊びに行った記憶があるんだけど、どの家だったんだろうか? それとも記憶違い?
さっきの十字路のスピノラ幼稚園の真向かいにもこの無認可幼稚園に通う女の子が。こっちの子は名前を覚えています。前田南ちゃん。名前しか覚えていないんだけど、歌人で同人「詩歌」を主催した前田夕暮のお孫さんらしいです。だからみなみちゃんは前田透の娘さんてことに。 私んちより立派な家で、縁側があって、うちの2倍以上の広いお庭だったことだけ覚えてます。前田夕暮は戦前は資産家だったみたいですから。敗戦でパーになったところは我が家と同じですが。 前田夕暮と橋田邦彦はきっとどちらかの家で酒を飲みながら語り明かしていたんじゃないですかね。それが私の記憶に残る縁側だったりしたら良いんだけどなぁ. ん? その隣の表札に前田と。広すぎるお庭を分譲したみたいです。でもこの家が当時の家かは不明。というか、縁側がありそうな建物じゃないもんね。建て直したのでしょう。当時の家は戦前からのものでしょうからね。 前田夕暮はいったいいつ頃ここに家を建てたのでしょうか。息子の前田透さんは大正3年に現新宿区の大久保で生まれたそうです。関東大震災のあと、ここから北500mぐらいのところに与謝野鉄幹・晶子が越してきて、昔の荻窪二丁目、現在の南荻窪4-3付近には、戸川秋骨、阿部知二、大石真、尾崎喜八などが住居を構えていて、文化人のまちの雰囲気を呈していたそうですから、前田夕暮も関東大震災のあとに此処に越してきたのかもしれません。当時は畑の真ん中にポツンと建っていたんじゃないでしょうか。与謝野晶子宅もそうだったらしいですから。 さっきの「荻窪二丁目二二八番地」の十字路に戻って、真っ直ぐバス通りへ向かいます。 この途中の左側にも女の子の友達が。どういう女の子かというと、自転車に乗れなかった私の家へ「練習しよう!」とやってきて、何度も後ろから押してくれた子です。その一日の特訓でなんとか自転車に乗れるようになったという大恩人ですね。確か寒い日で、自転車は赤い20インチだったからスピノラ幼稚園じゃなくて、西田小学校の友達だったんでしょうね。妹もその赤い自転車を覚えていました。赤い20インチってこれぐらい?(娘が9歳のときです)。 何て名前だったかなぁと思いながら26インチの侘寂二世号でゆっくり走っていたら、ん? 斉藤じゃなかったかなぁ、斉藤なにちゃんだっけ。あっ、こんな大谷石の塀の家だったかも。 ん? ここ斉藤さんだって! 本当にこの家? いや、こっちの家も斉藤さんだぞ。そもそも本当に斉藤○ちゃんだったんだろうか。 でも、イケメンな私の女友達なんだから、きっと可愛い子だったに違いない。わっはっは(=^0^=) |