2012.11.10  高井戸の旧家内藤庄右衛門宅  

正用の内藤庄右衛門家

その前の道を東へ行くと環八にぶつかります。久我山街道(人見街道)に戻って信号を渡りましょう。

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で、環八が出来る前には打越の内藤与蔵家の門前の道を真っ直ぐ行くと、この高井戸中学前の踏切に通じる道になります。このあたり一帯の旧地名が正用。この右手の森が内藤庄右衛門家の屋敷森でした。左を向いてこれ。

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右を向いてもまだ屋敷森が続いているんでっせ。でも昔はそんなに「スゲー!」とは思いませんでしたね。「林がある。奥に家があるみたい」ってこれだけです。昔はこのあたりだって畑が沢山あったんですから。1947年の航空写真よりはもちろん家は増えていましたが。

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「屋敷森でした」というのは、1988年の航空写真までは屋敷森だったのですが、今はファミールグラン高井戸デュープレックスというマンション群になっています。築1998年09月とか。賃貸だと70平米で20万円ぐらい。分譲だと億ションに近い。お金持ちって居るんですね。でもそんなの340戸分の敷地を屋敷として所有していた内藤庄右衛門家って、どんだけの金持ち? なんて思っちゃいます。今はね。

『荻窪風土記』の内藤庄右衛門家


内藤家のことを思い出したのは井伏鱒二の『荻窪風土記』に、出入りの鳶職から聞いた話としてこの内藤家の火事のことが出ていたからです。

そのとき内藤家は 母屋が茅屋根の合掌造りで99坪。昔からの醤油屋だから倉が7棟のうち一棟は衣類を入れる文庫倉で、母屋とつながっており、そこから火が出て全焼したそうです。文庫倉というので、衣類の他に古文書もあったのかと。その古文書が焼けなければ、高井戸の歴史、内藤家の歴史がもっと解ったでしょうに、残念なこと です。『荻窪風土記』にはいつのことだかは書いてありませんが昭和6年のことのようです。その『荻窪風土記』(pp.194-195) には

「この旦那の先代は内藤庄右衛門といって、醤油の小売で溜めた金は菰包みにして、銀行へ預けに行くのに草鞋ばきで出かけていたという評判があった。他人の地所を踏むことなしに銀行へ行けるので、それがご自慢で歩いて行くのだろうと言われていた。(先年、高井戸に杉並区の塵芥焼却場が出来たのは、この内藤家で地所を手放してくれたおかげだという) (『荻窪風土記』 pp.194-195)

とあります。銀行って、何処にあったんでしょうね。地図で見ると、高井戸駅の南にみづほ銀行がありますが、そこ?

『新編武蔵風土記稿』の内藤庄右衛門

「高井戸の内藤家は内藤新宿の内藤家の分かれで、江戸時代から近隣での大地主であったといわれている。」(pp.193-194) というのは前半は本当でしょうか? 内藤新宿の内藤は大名ですから。でも「江戸時代から近隣での大地主」というのは本当です。なんと江戸時代の『新編武蔵風土記稿』に出てきますから。そこに上高井戸村の旧家として「庄右衛門行状之記」があり、以下のように書かれてあります。本当はひらがなではなく濁点もありませんが、読みやすくしました。

庄右衛門は当村旧家の百姓にて、その分家も7〜8軒あり。代々篤実にして、田録は80余石を所持し・・・家作大なりといえども門戸玄関体の造作せず、家内畳を用いず。簀子(すのこ)に莚を敷といえども、貴賤となく人来たれば、相応のもてなしせざるはなく、これに給仕せしむるに妻子をもってす。

更に江戸四大飢饉のひとつである天明の凶作・大飢饉(1782〜1787年)のときには、近在の農家への貸し金合計500両を帳消しにして借用書を返してあげたとか。また代官の伊奈半左衛門(関東郡代とも)が飢餓に苦しむ者のために米を買い上げようとしたときに、庄右衛門は400俵(100石以上)を供出したが、当然米価は高騰しており、代官所がその高騰した価格で買い上げようというのにそれを辞退し、高騰前の価格で代金を受け取って、更にその代金を村内近里のものに分け与えたと。それらによって文化元年(1804年)に代官伊奈忠寛より「為褒美其身一代内藤と苗字可名乗候様可致候」と、内藤の苗字を許されたことが記載されています。

シャンベルタンでラターシェを飲みながら彼女が話した「内藤一族が高井戸の文化的地位向上に役にたつことをしようと申し合わせたらしいの」というのは、聞いたときには半信半疑だったのですが、森泰樹氏の『杉並風土記』にあるその家風を考えれば、本当のことだったのかもしれない、庄右衛門さん一人じゃなくて、一族のみんなが同意したかもしれない、と思い初めましました。

豪農だって代官だって立派な人はいるんです。伊奈忠寛の何代か前の代官伊奈忠順は、富士山の宝永の大噴火のときに勝手に幕府の米倉を開き、1万3000石を村々の飢民へ分配して、切腹したという人でしたし。

杉並清掃工場と正用記念財団

さて、その内藤家屋敷跡の東の端を南に曲がると、下り坂で神田川沿いの低湿地になります。写真では木が植わっていますが、私の子供の頃は野っぱらでした。雨が降ると水浸し。昔は水田だったんでしょう。少し下流には本当に水田でしたし、昭和33年の地図でも水田記号です。

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その角を西に曲がったところ。元湿地は今では(って30年も前からだけど)有名な杉並清掃工場になっています。美濃部都知事のときにその建設を巡って「東京ゴミ戦争」なんて騒がれた清掃工場ですね。

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森泰樹氏の『杉並風土記・下』には「清掃工場の敷地の約半分、5,300坪が内藤家の所有地であったこと から、第13代内藤庄右衛門氏は反対期成同盟の地主団団長、区議会議員に推され ご苦労されたが、一方からは「高井戸エゴ」と非難の的になり、心労から病床に臥され、和解成立直後の昭和49年12月に亡くなられた。」とあります。

その「東京ゴミ戦争」の真っ最中に私は高井戸に住んでいましたが、「あれは地主がゴネ得を狙っているんじゃないか」「美濃部都知事が軟弱なもんだからもたもたしているうちに土地が値上がりして東京都は大変な出費になった」なんて陰口が囁かれていました。
その直後に我が家も中央高速の建設で立ち退きになったのですが、祖父は「お上の仰せですから」とさっさと判を押したので、買収交渉に来た職員の方があっけにとられてたとか。その頃にはもうゴネ得なんかは無くなっていて(というか最初からあったのか?)、他の家ではなかなか判を押さなかったんだけど用地買収の金額は上がらず、引っ越す頃には他所の土地は値上がりしていて、結果的にはさっさと判を押して代わりの家を買った我が家の方が得をした、なんて両親が言っていました。本当に得をしたのかどうかは解りませんが。

高井戸エゴなんて陰口をたたかれたその内藤家を初めとする地主さん達はどうだったのかというと、土地収用代金の一部を拠出して杉並正用記念財団を設立し、清掃工場とセットで建設された高井戸地域区民センターの運営その他に関わり、地域に貢献しているそうです。内藤家の皆さんゴメンナサイ。実は私も「地主のごね得ねらい?」なんてちょっとだけ思っていたんです。

ところでこの清掃工場、建設当初は最新鋭だったのですが、今では都内最古の清掃工場となり、全面建替えとなるようです。既に今年(平成24年)の1月末でゴミ搬入は停止。平成24年着工、29年完成予定だとか。

1958年(昭和33年)の地図

1958年(昭和33年)の1万分の1地図を杉並中央図書館で見つけました。冒頭の現在の航空写真の範囲を出しておきます。上の写真の道は、先の方は昔の道とちょっと違うようですね。もっと線路よりです。そして北側にはゴルフ練習場がありました。あれも内藤家のものだったのでしょう。

実は元本家跡の前の道を浜田山の方に歩いていくと、丸太のログハウスと練習場があって、そこに学校法人内藤学園・東京ゴルフ専門学校という看板が。この地図のほんのちょっと東です。

ちなみに、高井戸駅の南(下)に「八つ目鰻」と書きましたが、昔は神田川沿いは湿地で、蛇行した川が丘と接するあたりにザリガニや八つ目鰻が居たんです。採ったことはあるんですが、なんかドジョウよりちょっと大きいぐらいで、鰻には見えなかったなぁ。
あれって食べられたんですね。失敗した!