高井戸の地図 |
こちらの地図の多くは、杉並区立郷土博物館の『杉並の地図を読む』から拝借しました。 高井戸全図明治13年フランス式測量図国土地理院蔵の帝国陸軍「明治初期測量 2万分1フランス式彩色地図」です。そう書いておけばWebサイトの中で、地図等の一部を挿絵的に使用するのはかまわないんだそうです。 この地図の何処が我が家のあたりなのかを探すのに苦労しました。井の頭線はまだです。それどころか、この時代中央線すら出来てはいません。手がかりは甲州街道と玉川上水です。玉川上水沿いの六天神社が確認できてやっと解りました。まさかこんな端っことは。 今の環八はもちろん、その前の荻窪に通じるバス通りすら途切れています。甲州街道から中の橋で玉川上水を越え、現在の高井戸駅近辺までは伸びていますが、現人見街道にすらつながっていません。正用の内藤家と打越の内藤家を結ぶ道で切れています。荻窪は視野にないようです。この頃はまだ中央線も走っていませんから。同年代の神奈川県鎌倉近辺の「2万分1フランス式彩色地図」を持っていますが、東海道線すら出来ていませんでした。 明治24年測量図
どうも測量原図は明治13年のフランス式測量図のままのように見えます。「田」とか「畑」が、記号に変わっていますが、縮尺も同じ1/20000です。原図のですよ。 甲州街道から庚申橋で玉川上水を超え、桜水商業高校の脇を通って神田川を超え、浜田山に通じる道もおそらく江戸時代からのものでしょう。でも普通の人には解らないかもしれません。 昭和 5年測量図こちらは昭和5年、まだ京王線も井の頭線も開通していません。高井戸村の時代です。この縮尺では見えにくいのですが、この地図には大字(あざ)、小字(あざ)とその境界が書かれています。村役場は久我山街道沿いの「北原」「打越」「西正用」の境、打越側に見えます。高井戸小学校があってその北隣に内藤邸と読める。あと「正用」の東に横倉邸とあります。字(あざ)で多いのはやはり「正用」です。「正用」、「正用西」、「正用下」、「裏正用」、「北裏」も「正用」の北奥という意味とすれば「正用」がらみですね。 後の我が家の地は当時の字(あざ)は「中久保」で、庚申橋とその袂に卍が。これが庚申塔でしょう。現在は場所が移っていますが、元の位置を知るものはこの地図しかありません。中の橋の北側は「御伊勢」という字(あざ)だったようです。中の橋の南北の道はこの頃既にバス通りです。地図では「バス道路」とは言わずに「乗合自動車線」で、バス停の位置まで示されています。高井戸中学はまだありませんが、字(あざ)は「堂上」。戦国時代の文書に見える「高井堂」のその「堂」はここにあったのかもしれません。浴風苑も、上の地図には入りませんが、府立松沢病院も既にあります。この「府」とは東京府のことです。
昭和14年測量図上の地図がいったいどの範囲なのか、この昭和14年の地図なら解ると思います。井の頭線も出来てるし。荻窪へのバス通りも開通しています。上の方は旧道ですが。高井戸小学校ももう有りますね。でも高井戸中学は無い。富士見ヶ丘小学校も富士見ヶ丘中学もない。我が家の兄妹が通った学校はどこもない。
以下は赤い点で示した我が家の近く、赤い枠線の範囲を年代順に見ていきましょう。 高井戸の家昭和14年測量図戦前の昭和14年にはまだ我が家は荻窪にすら家を持ってはいません。その翌年ぐらいです。人家はまばらですね。
昭和22年測量図戦後すぐの昭和22年です。上水の向こう側(北)にちょっとだけ家が増えたかな。
昭和33年測量図昭和33年にはだいぶ増えてきました。あいかわらず上水の北、高井戸駅よりですが。
昭和22年米軍航空写真戦後すぐ、昭和22年か23年の米軍による航空写真です。日本側ではこのころはまだ飛行機を飛ばせなかったのかも。あれ? これ本当に昭和22年頃? 昭和22年の地図より、人家は昭和33年の状態に近いんですけど。まあ地図はこんなものです。大きな変化は修正しますが、家の状態までは正確には反映されません。でも川向こうの銭湯はまだ出来てませんね。 国土地理院の昭和31年(1956年)3月10日の航空写真にはそれらしきものが写っているのですが。 現在のgoogle航空写真もうビッシリ。この画像は2012年11月に取ったものですが、でも航空写真自体はそれよりも少し前です。いつだかは解りませんが、ここで野原に写っているところが、2012年11月現在分譲地になって、家が建ち始めています。
|