2012.10.20 桐の木横丁・荻窪の太宰治の住まい  

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桐の木横丁の太宰治の家

また教会通りに戻ってすこし青梅街道側に進んだ左側の路地。井伏鱒二の『荻窪風土記』 (pp.106-116) にある桐の木横丁がこの先でしょうか。そうだと書いてあるサイトは無いのですが、井伏鱒二の記述と、徳川夢声の家を重ね合わせるとそんな気がします。太宰治はまだ有名になる前(昭和8年から)一時期そこに住んでいました。

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「その先、右手にあった画家の津田青楓(せいふう)の二階屋と、それと並んで太宰治のいた東京日日新聞記者飛鳥定城の二階屋のあったあたりには、先に言ったマーケットの従業員の住宅が建っている」(p.117) とありますので、太宰治が二階に下宿していた家はこのアパートあたりではないかと。

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おっ、板塀だ。めずらしい。表はトタンのようですが。

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で、その先のまるや質店の先・・・、えっ? まるや質店?
それはちょっと置いておいて、その先の角を右に曲がった奥に伊馬春部が住んでいたんだと思います。私個人の推測ですが。道って案外変わらないものなんですよ。で、太宰治のところから僅か100歩とありますから60〜80mぐらい。道って案外変わらないといいなが、当時の青梅街道は今とは違います。昭和14年の地図も出しておきましょう。徳川夢声の家はだいたいこれぐらいの位置だと思います。さくら荘はその頃あったのかな? あの古さだとあってもおかしくありません。


駅前交番の甲州街道の反対側、バスターミナルの出入り口が、歩道車道でそれぐらいです。その線を真っ直ぐ延長すると、今の荻窪銀座が線路にぶつかるまでの道の巾と傾きに今も一致します。そして大踏切で中央線を渡っています。大踏切から北への道は天沼八幡通りです。現在中央線と平行になっている部分の買収や工事は1937年(昭和12年)よりも後なので、徳川夢声の家が青梅街道に面していたという訳ではありません。

もっともpp.22-23 には昭和11年の5月頃「大雅堂を誘って私は徳川夢声さんのお宅の先にある釣具屋へ出かけて行った」とあり、その井伏がその釣具屋に入るとき、後ろを振り返ったら、大雅堂がは青梅街道沿いの用水に落ちたとあります。するとその釣具屋は大踏切から天沼八幡への道へ入ったすぐぐらいの処とすれば話は通じますね。そのあと直ぐに水を探して大踏切を渡っていますし。

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ところで。まだ質屋さんがあったとは。名前が同じだけでほんとうにここかどうかは判らないのですが、井伏鱒二の『荻窪風土記』(p.206)に「まるや質店」が出てきます。井伏鱒二の奥さんがインバネスを質入れしに行ったら太宰治と会ったという下りが。インバネスって何だか解らなかったのですが調べてみたらインバネスコートのことらしいです。シャーロックホームズが着ていたあれですね。

わしも歴とした文人じゃし、英国紳士なんじゃから、インバネスぐらいもっとかんとあかんかなぁ。
シルクハットでなしにミニタリーなベレー帽なんか被ってるんで、わしのことを武人(外人部隊の傭兵とか、山岳ゲリラとか、山賊とか)思ってる自転車乗りが多くて困ってるんよ。言葉の端々ににじみ出るインテリジェンスがわからんのかね〜。 わー! 撲たないで〜! (。_・☆\ ベキバキ