常葉殿調査 巻壱 御成町から旧東海道へ 2015.12.06 |
事の発端はこちらをご覧下さい。これは学術研究フィールドワークなのでござります。 11:04 御成町商店街をちょっと歩いたあと今小路遺跡跡に。何で「遺跡跡」かというと、もう埋め戻して小学校(御成町小学校)のグランドになっているからです。その前の今小路は藤将軍や親王将軍が北条氏によって首になり、京へ送り返されるときに通ったという由緒正しき道。 平成の公方は去る水無月六日に時頼様の御前で帽子を脱がなかった無礼を佐藤業連に見咎められ、佐助送りになったのですが、佐助の「みのわ」で葛きりなんか食べてて時間切れになってしまい、まだ佐介の時盛の屋敷に着いていなかったんですよね。本日はその鎌倉追放後半で御座います。 その御成町小学校前の信号のところに問注所跡の石碑が。 連署が「奉行、問注所ってここにあったの?」と。「嘘嘘、この先に裁許橋ってのがあってね、裁許っていうのは問注所があったからじゃないかって江戸時代の観光案内に書かれただけだよ。ついでに云うなら”一方、有罪となった者は(この先の)六地蔵辺りにあった刑場で処刑された”なんて云うのも江戸時代の妄想」。 11:10 この怪しげな黒マントが佐助送りになる公方です。 黒マントに見えるのはインバネスというコート。ジャーロックホームズや戦前の文人が着ていたやつですね。 「男性のインバネスコートは通気性に優れ、雨が降ってもバグパイプをガード出来るし、転んでもコートが汚れるだけなのでお勧めです。それに山の中ですれ違う人に絶対にウケる。」 と案内ページに書いたら本当に着てきちゃいました。私がのけぞったら「ウケると云われたら着てこない訳にはいかないじゃん」だって。この公方は見ての通りの文士(事務屋)で、武士(技術屋)の、それも「朝家の爪牙」、生粋の「兵の家」(つわもののいへ)の生まれである私くし佐藤業連とは水と油なんですが、「ウケねらい」な処は同じ穴の狢のように御座ります。公方は「おじゃりまする」と云うようですが。 そうこうするうちに六地蔵で旧東海道へ。「六地蔵って何処にもあるよね〜」「五地蔵も七地蔵も聞かないよね〜」なんて云っていたら、お嬢ちゃんが「あっ、あたし達も六人だ。六地蔵だ〜♪」と。 11:16 そう云えばその銀行の左側、斜めに入る小径を「多分古くからの道だと思うよ」と説明したのですが、明治15年の地図を見ていたら、ここから西はあっちが旧東海道な気がしてきました。 あっちは極楽寺坂やら、新田義貞が「汐さん引いてちょうだい」と宝剣を海に入れたという七里ヶ浜に通じる稲村ヶ崎への道で、鎌倉時代初期の史料に残るルートは稲村ヶ崎です。この目の前の道は長谷寺や大仏へ向かう道です。長谷寺も大仏も鎌倉時代中期以降。奈良時代にはそこに向かう道など有る訳がありませんので。 11:26 更に更に更に進むと・・・ 11:29 11:36 11:45 目の前に置いてあるリンゴやらはデザートでは御座いません。飾りです。もちろんリンゴは本物なんですが、あんなデッカイ松ぼっくりは食べられないでしょう。 連署は「この雰囲気だとビールでも飲みたくなるなぁ〜」と。おい、これから何処に行くのか忘れたのか? ところがその連署。今日のために予め調べた資料をみんなに配ってくれました。おまけに鎌倉駅に早く来て、みんなが集まる前に中央図書館で発掘調査報告書のコピーも取ってきたとか。さすがにそれはまだ読んでないからとくれませんでしたが、次の研究会のときに見せてくれることに。 11:59 ん? 生ハムの上の赤い実はなに? えっ、マイクロトマト? こんなもんあるんだ。 執権奥様とおじょうちゃん、は勿論ご満悦。でも野郎共は、と思ったらやはりご満悦。いや、おいしいんですよ、おいしいんですけどねぇ。思わず店主に聞いちゃいました。 ちなみにお嬢ちゃんは奥様のお嬢ちゃんではありません。私が彼女をお嬢ちゃん呼ばわりする理由はこちらに。 12:18 でも、執権奥様のこのガッツポーズはなに? 店を出た時間は判らないけど、大仏l切通のトンネルが見えたのが12時45分だから、35分ぐらいかな? |