法隆寺10東院伽藍 伝法堂 2016.05.12 |
いよいよ東院伽藍突入です。 でもこの風情は良いなぁ。 こっち側も。と築地塀フェチが再燃(笑) この門は四脚門ですね。寝殿造なら親王家と大臣家にしか許されません。でも聖徳太子は天皇の子ですから親王なので良いのです。 ところでこの門も築地塀も屋根は瓦葺きですね。奈良時代には檜皮葺だったんです。この東院伽藍で瓦葺だったのはこれから見る講堂(伝法堂)と八角仏殿(夢殿)の他は現存しない僧房だけで、その他の附属建物は檜皮葺でした。 蟇股(かえるまた)この四脚門は三棟造じゃありませんね。あっ、蟇股(かえるまた)だ。門の本柱の上の梁の上に斗(ます)と肘木(ひじき)を乗せているベルを押しつぶしたような形の木がありますよね。あれを蟇股(かえるまた)と云います。でも「蟇」って「がま」ですよね、「かえる」じゃないですよね。昔は「蛙」って字は無かったんでしょうか。よくわかりません。 この形は一番よく見かけるものです。でもこの形は鎌倉時代以降。法隆寺だからと云って全てが飛鳥時代の建物ではありません。鎌倉時代以降のものも沢山あります。 「かえる」らしくなるのは日本では奈良時代から。このあとの伝法堂にも使われ、転害門にも奈良時代の蟇股(かえるまた)があります。春日大社の廻廊にも沢山使われていますが、住宅系では超高級寝殿造でもまず出てきません。やはり神社仏閣で、その中でもかしこまったところに使われるようです。 東伽藍突入11時8分、 ついに突入しました。夢殿なんかより伝法堂が先だ。鐘楼なんかより伝法堂が先だ! と群がる敵をバッタバッタとなぎ倒し、伝法堂へ突き進みます。 おっ、あのバスガイドさん美人♪ (,_'☆\ ベキバキ 伝法堂ありました! 現在の伝法堂です。 あれ? 藤田勝也・古賀秀策編 『日本建築史』 p.128には「聖武天皇の皇后光明子の母である橘三千代が施入(法隆寺東院資財帳)」とありますね。平井聖先生も。でもここでは『日本史広辞典』に従います。 ただし元橘古那可智邸だった頃と現在の伝法堂はだいぶ姿を変えています。なにしろ解体してここに移築したんですから。私財帳の記載からだったか、解体修理時の痕跡からだったか、あっ、解体修理時の痕跡からですね。ともかく元の姿はこのように復元されています。左上が現在の姿の南面、左下が橘古那可智邸だった頃、その右が平面想像図です。 元は檜皮葺で板敷5×4間で向きも異なり南北に長く、北側三間が壁と扉に囲まれ、南の二間が弘庇のように開放され、さらにその前に屋根の無い床がテラスのように出ていたと。 これとは別に、奈良時代の貴族住宅は記録(「正倉院文書」)からの復元ですが、右大臣(建築史の本には左大臣とあるものも)藤原豊成の屋敷が知られ、それも板敷5×4間、ただしこちらはその全体が閉鎖的な母屋で、前後に開放的な庇、つまり寝殿造なら弘庇が付いていたと推定されています。二人ともほぼ同時代の人ですが、印象としては橘古那可智邸の方が古式な気がします。聖武天皇の妃だったからでしょうか。 妻飾(つまかざり)建築で妻というと側面のことを指します。妻飾(つまかざり)とは屋根の端で三角形の断面が見えるところの様子を云います。主にこの伝法堂のような切妻屋根の側面です。寄棟造ではこういう三角形の壁は出来ません。入母屋造は母屋の上の切妻屋根部分の側面がありますが、切妻屋根の場合より小さいし、近づいたら庇の軒に隠れて見えないしでやはり目立つのは切妻屋造の場合です。その代表的な例が次の二重虹梁蟇股式(にじゅうこうりょうかえるまたしき)です。 二重虹梁・大虹梁・繋虹梁食堂と細殿で見た食堂(じきどう)の側面にそっくりですね。二重虹梁の代表選手がこの伝法堂です。虹梁(こうりょう)は既に説明しましたが二重虹梁はまだでした。 下の写真の伝法堂の妻(側面)の母屋部分(内側の二間)では虹梁(こうりょう)が二重になってますよね。この二重な虹梁が二重虹梁だと普通は思うでしょう。私もそう思っていました。でも違うんです。二重になっている下の方、長い方を大虹梁、その大虹梁の二つの蟇股(かえるまた)の上にある短い方を二重虹梁と呼びます。 言葉としておかしいだろうって? 私もそう思いますが、そう云われてるんだからしょうがないんですよ。ついでに、庇の部分。つまり母屋柱と側柱をつないでいる虹梁は繋虹梁(つなぎこうりょう)と云います。つまり上下の写真には全ての虹梁(こうりょう)が写っていることに。 海老虹梁はどうしたって? 邪道な繋虹梁だと思っていればよろしい。あんなものは当サイトの対象外に御座います。清く、正しく、健康的な、ワルター・グロビウスが泣いて喜ぶような建築史が当サイトの守備範囲。ご幼少の頃は『生活空間の創造』が私の座右の書だったに御座いますから。ん? 青春時代かな? でも青春時代は「同棲時代」(by上村一夫)な世代ですのでそれより前。 食堂(じきどう)の側面にそっくりなんですが、圧倒的に伝法堂の方が大きいです。両脇の庇部分の虹梁の上にも蟇股(かえるまた)が乗って桁を支えています。食堂(じきどう)では斗(ます)で二重虹梁を支えていましたよね。この蟇股(かえるまた)が、奈良時代の蟇股です。鎌倉時代以降で一般的なものより背は低いですが。拡大してみましょうか。蟇(かえる)と云うより蟹(かに)股ぐらいですかね? でも金堂の人(ひと)股よりは蟇股(かえるまた)のイメージに近づいています。 虹梁(こうりょう)の端を良く見ておいてください。鎌倉時代の元興寺になるとだいぶ変わります。 破風(はふ)切妻屋根の妻側(側面)の縦板のことです。わたしは「はふう」と読んでいましたが伸ばさずに「はふ」なんですね。でもまあ蟇股(かえるまた)よりは素直な読みですが。 懸魚(げぎょ)これも知らなければ「けんぎょ」と読んじゃいますよね。上の写真の一番上、破風(はふ)の下に付けられたベロ(舌)のような模様のある木です。ただし、何分風雨に曝される場所で薄い板ですので、ここに付いているものがいつのものかわ解りません。はっきりしているのは奈良時代のものではないということ。何しろ鎌倉時代より古いものは現存していないそうですから。 桔木の無い大屋根なんか、見た感じ野屋根じゃないように見えます。あくまで見た感じですが。 平面図を見てみましょう。おや? 野屋根は庇の部分だけ? 飛檐垂木(ひえんだるき)は入ってるけど桔木(はねぎ)は入っていない? これ復元図? いや断面図とあるだけ。うわ〜、見に行った甲斐がありました。おっきな建物で桔木(はねぎ)が入っていないなんて。ということはこの屋根の傾斜は移築時のままなんですかね? 勾配屋根の勾配は緩いです。測ってみたら4尺7寸ぐらい。ちなみにこの勾配何尺とは横一丈に対して高さが何尺かです。 「建築大辞典」や wikipedia には「日本建築における勾配は、通常、水平1尺に対して立ち上がりの(または立ち下がりの)長さで表される」、つまり一尺に対して何寸と書かれていますが、少なくともここで対象としているような時代には単位の基準は一丈です。 このあとあちこちで出てきますが、現在見る古建築の屋根の勾配は江戸時代からのもので、勾配は6尺前後。しかし平安時代では4尺5寸前後です。この断面図の状態は寝殿造の時代の屋根勾配に近いということですね。ところが、この建物が橘古那可智邸だった頃にはその勾配が三尺以下だったらしい。これはかなり緩いのだが、板葺の古民家にはそれぐらいに見えるものが結構あります。 柱間(はしらま)寸法柱間(はしらま)は上記の断面図では母屋が9尺(講堂は15尺)、庇が9尺弱(講堂は13.7尺)、ところがそれは側面図からで、平面図からだと12尺あります。つまり柱四本に囲まれる一マスは正方形ではない。庇の虹梁(こうりょう)の中央下で地面からだと13尺(講堂は20尺)、床からだと約11尺。実際に見るとかなり大きい建物なんですが、講堂と比べるとだいぶ小さいことに。でも標準的な寝殿造のサイズにはこちらの方が近いと思います。
飛檐垂木は使ってます。というか、使っていない金堂や五重塔の方がいまでは異例なんですが。今ではというより奈良時代以降の瓦葺きの大きな建物ではですけどね。 それにしてもデカイよなぁ。これは屋根が切妻ですが、入母屋なら五間四面の一流寝殿のサイズです。柱間(はしらま)はほんのちょっと小さめですが。でも鳥羽殿の寝殿もそれぐらいだったような。
update 2016.06.11 |