奈良・春日大社.1 着到殿と寝殿造 2016.05.13 |
8:36。春日大社です。 8;43、春日大社の二の鳥居。 8:44、あれ? あれは何だ! いや、お嬢さんが指さしている方ではありません。 着到殿これですよこれ。 びっくりしたー、着到殿じゃありませんか! 観光客的には「なにそれ?」な代物ですが、自称寝殿造研究者たるわたくしにとってはたいへん貴重な存在なのであります。うわ〜、ラッキー♪ 詳しくは川本重雄先生の『寝殿造の空間と儀式』をご覧ください。 南と東に庇を延ばしていますが、四方に庇ではありません。平面は東西六間、南北二間の母屋の東・西・北の三方に壁を巡らし南面を開放。間面記法でいうと六間二面ですね。 母屋の三方に壁を巡らす形式は大宰府都府楼正殿に似ているそうです。「都府楼」とは大宰府政庁のこと。大宰府政庁正殿は五間四面の三方に壁でこれよりは北庇一間分大きいのですが。 屋根は檜皮葺、側柱の上は肘木を直に使って斗(ます)はありません。軒先も垂木は一重で飛檐垂木(ひえんだるき)は使っていません。垂木の間隔も寺院建築にくらべたら粗いです。 壁の是非をおけば、まるで絵巻にある寝殿造と同じ雰囲気ですね。 着到殿は、三勅祭(葵祭・石清水祭・春日祭)の一つ、春日祭で勅使が着到の儀を行う建物として建造されたものです。延喜16年(916)の創建で、現在の建物は永徳2年(1382)の罹災後、応永20年(1413)に再建されたもののようです。 ところが、藤原氏の氏長者が参詣する時は、着到殿はその休息所になり、床が張られ、様々な室礼(しつらえ)が施されました。床って、そんなに簡単に取り外しが出来るものなのかって? 出来るんですよそれが。 床は柱がささえているのではなく、柱の脇とか柱の間に立てられる束で支えられています。寝殿造に関わる古文書にも床の無い中門南廊に床を張り、蔀を立てて壁にし、内侍所を作ったり、儀式のときに雨が降ったので床を外して、庭からの拝礼をそこに移したなどという記述があります。つまり一部なら数時間で土間に出来たと。 「台記別記」巻第七、仁平3年(1153)11月26日条には、藤原頼長が春日大社に参詣した時の着到殿の室礼が記されています。 確か絵画にもあったはず。 これまで瓦屋根寺院建築の小屋組(屋根組)ばかり見てきましたから、この小屋組はなんて質素なんだろうと感じられるでしょう。だから寺院建築の、特に塔堂はモニュメントだと云うんです。高級住宅の寝殿造は上級だってこんなものです。それを説明する資料は絵巻物しかありませんが。 軒先の檜皮葺はだいぶ厚いですね。でもこれは軒先だけで上げ底です。蛇腹は使っていないようです。 裏に回ると、軒先が室生寺金堂のすがる破風の屋根と同じに見えますが、室生寺金堂の場合は寄棟造の完成した屋根に孫庇を追加したもの。こちらは入母屋屋根の北庇が無いものでだいぶ違います。むしろ聖霊院(しょうりょういん)の南広庇に近いんですが、でもあれも瓦の切妻屋根に檜皮葺の庇を跡づけですからねぇ。どっちとも違うか。 8:53,10分近くここを撮ってました。ところでこれは国宝とか重文になっているのでしょうか。ありゃ、文化財データベースには載ってない。でも春日大社サイトには重文と。どういうこと? これは廻廊をまわっているときに撮ったもの。綺麗な屋根ですね。3年前に葺き替えたようです。 update 2016.05.30 |