奈良・古建築の旅 元興寺塔頭・十輪院 2016.05.13 |
元興寺塔頭・十輪院と書きましたが、先ほどの元興寺の塔頭ではなく、昔の元興寺の子院のひとつ。先ほどの元興寺は昔の元興寺の四つあった僧房のひとつです。でも沿革の詳細は判りません。元興寺の子院というのも寺伝から。 上の四脚門は鎌倉時代前期のものとか。法隆寺の四脚門や八脚門の東大門と同様に脇の上半分が漆喰ですね。 こちらが本堂、と云ってよいのやら、ちょっと悩みます。本堂というより礼堂ですね。ご本尊はこの屋根の下にはないのですから。しかし良い建物です。宮大工の小川三夫さんもベタ褒めでした。 実はご本尊の石造地蔵菩薩は石の龕(がん)の中。龕とは仏像を納める厨子のことで、よく完璧や壁などに彫り込んで仏像等を収める穴を良くそう呼びます。その石龕は元々あったものではなく、最初に石造地蔵菩薩があって、それを守るために石で囲んで龕(がん)にし、その龕にまた仏像を彫っているんだそうです。私はここに来るまでやぐらや岩谷堂のように石壁を掘った龕かと思っていましたが、違うんですね。当然撮影禁止なのでこちらをご覧下さい。全て堅い花崗岩で「大陸的な印象を受ける技法で彫刻されている」と。 東大寺再建のために重源が中国から招いた石工かその子孫でしょうね。後に忍性に連れられて鎌倉にやってきます。そしてその龕を覆い屋で覆っている。普通、仏教寺院では本堂が大きくて、並立しり礼堂が小さいんですが、ここではご本尊が石の龕(がん)の中なので、まるで神社のように礼堂が大きくなり、そでれも遠慮して、というのが屋根、天井の高さなのでしょう。 正面は半蔀(しとみ)。まるで寝殿造のようですね。 寝殿造と云っても、この明障子(今の障子)は平安時代には無いですが。いや、 この明障子じゃない明障子なら平安時代末の清盛の六波羅泉邸に出てきますが、桟はもっとぶっとくてそれこそ格子のようだったはずです。でも鎌倉時代の絵巻にはこういう姿が良く出てきます。 前面には寝殿造で云う弘庇が。その弘庇と同様に側柱は四角、入り側柱は円柱です。 この建物がいつ建てられたのかは判りません。知りませんと云った方が良いかもしれませんが。でも古くても鎌倉時代でしょう。それでも寝殿造の約束事が生きていることにちょっぴり感動です。 ところでこの蔀(しとみ)の格子の間が白く見えるのは何だと思います? これ、板を白く塗っているんです。 室生寺のときのように光を通す訳ではありません。 何で元興寺関係はこれが多いのでしょう。またあれですよ、あれ。 ご案内頂いた奥様、いや、ご住職の奥様かどうかは知りませんが、ともかく、ここだけ撮らせてもらえませんかとお願いしたら快くお許しを頂けました。 ところが前面三間の両脇は「またあれ」なんですが、中央が違います。何と溝ひとつに明障子が三枚。どうなっているのかというと、三枚の中央だけが開くんです。
奥様が空けてみましょうかと真ん中の障子を。どうなってたんだと思います? それはあとで図面を書きましょう。それまでお考え下さい。 ヒントは、普段は閉めっぱなしということでしょうか。 垂木がありません。ということはかなり厚い板を野地板に使っているんでしょう。 綺麗ですよね〜。 実は二人の和紙展のお二人に私の部屋の天袋の戸を漉いて貼ってもらおうと企んでいるんですが、こういうパターンも良いなぁ〜と。あっ、上の明障子の部分です。明障子を外がら写しているので、桟の有るところと無いところで色が変わって見えるのです。 でも止めました。普通の引戸や開き戸でこの感じを出そうとすると、出来上がったものが本当に良い感じ、と思えるのかどうか。なのでこんなパターンは口には出さずに、ほとんど白な墨染めの薄い色違い、シンプルデザインという指定だけで、自由に貼ってもらうことにしました。信用出来る相手なら、その人の感性に任せた方が良いものが出来るだろうと。 格子の遣戸です。これはここだけじゃなくて文献にもそれらしきものが。 修学旅行らしき小学生が。小学生に修学旅行なんて無いと思い込んでいたのですが、考えてみれば二泊三日の夏期学校はあったんですよね。 あっ、あのクロスバイクが私が借りたレンタル自転車です。このあとこれで西の唐招提寺へ。 update 2016.07.10 |