奈良・古建築の旅 唐招提寺の礼堂と僧堂 2016.05.13 |
もとの僧房です。弘安6年(1283年)に改築したものですが。 もとの僧房と云えば法隆寺の三経院と西堂、聖霊院。それに元興寺.極楽堂と禅室などもそうでした。しかしそれらと比較しても、こちらはそれ以前の僧房の姿を比較的良く残しています。 対(たい)屋を彷彿とさせる弘庇法隆寺の三経院と西堂、聖霊院もそうでしたが、この礼堂も寝殿造の対(たい)屋を彷彿とさせます。内部は解りませんが、瓦葺や出三斗(でみつど)を除けば、寝殿造とほぼ同じ建築様式に思えます。 出三斗(でみつど)は瓦葺故でしょう。瓦葺の屋根は重いですから。 まずは東側の弘庇。御所の清涼殿の東、東三条殿の東対では南、寝殿では西に弘庇がありましたが、ここでは東と南にあります。 寝殿造では母屋とそれを囲む庇は床の高さだ同じ。でも簀子縁は長押(なげし)一段下がる。孫庇や弘庇も一段下がる。じゃぁ、弘庇の外の簀子縁はどうなるんだ。長押(なげし)二段も下がるのか? 簀子縁は同じ高さじゃないのか? という点が疑問だったのですが、その答えがここに。どっちもありえる。簀子縁に段がつくこともあると。東三条殿の東対では南の弘庇を思い出すこの南側では室内より長押(なげし)一段低い弘庇の床から、更に長押(なげし)一段下がって簀子縁が付いています。 と云っても、弘庇の下長押(なげし)に相当する部分は、長押(なげし)ではなく貫(ぬき)にしているようですが。鎌倉時代なので。 『年中行事絵巻』にある東三条殿での大饗のシーンを良ーく見ると、庇部分の簀子縁と、広庇部分の左端の簀子縁の継ぎ目に段差がちゃんと書き込まれています。やっぱり現物を沢山見て回らないと、絵巻も読めませんね。 東面はかなり長い弘庇が。でもこちらは弘庇の床面と簀子縁の床面は同じです。 ところで、南面で下長押(なげし)は使われていたいと書きましたが、蔀(しとみ)の上下には内法長押(なげし)に下長押(なげし)を使っています。しかしもはや構造材では無いでしょう。 蔀(しとみ)を使う和様部分では長押(なげし)がなければいけないというような「様式」からの要請でしょう。やっぱり鎌倉時代ですね。
それが証拠に、蔀(しとみ)を使わず、妻戸(つまど)が並ぶ西面には、上下とも長押(なげし)はありません。 あちらに見えるのは金堂です。金堂は純中国風で、床はありません。 でも僧堂にはあります。元僧堂ですが。
馬道(めどう)です。 向こう側は講堂です。 しかし長いですね。 馬道(めどう)から北を東院と呼びますが、三間(さんけんではなくさんま)単位で、両脇二間(ふたま)が連子窓、中央一間(ひとま)が妻戸(つまど) になっています。寝殿造じゃないから妻戸(つまど) とは云わないのかもしれませんが。妻(端)じゃないし。 講堂の基壇から見た馬道(めどう)。 ここに写っているのが東院部分、でも全長の半分に過ぎません。ほんと長いですね。でもこの写真では東室は3間×3の9間に見えるんですけど。あっ、灯籠の向こうにもう一間ありました。10間ですね。 update 2016.08.04 |