建築史・京都編 京都大会前日の三井寺 2018.04.20 |
新幹線で京都へ4月20日、妹に母を頼み、11時ちょうどの新幹線で京都へ。 これは12時58分。何処だ? 1時18分に京都駅へ。 直ぐにローカル線に乗り換え大津の先の膳所へ。そこで京阪石山坂本線に乗り換えなんですが。 園城寺の大門時間短縮の為タクシーで園城寺へ。しかしタクシーなら大津で降りた方が近かったかも。 2時15分。着きました。 ふ〜、まだ写真の撮れる時間だ(ホッ)。 重文の仁王門(大門・総門)です。 仁王? 見てないや。今日の目的は絞られているので。 裏側から。 釈迦堂大門を入って右側に釈迦堂(重文)が。良く見ると寝殿造っぽいですね。後で知ったんですが、天正年間(16世紀末)造営の御所清涼殿を下賜され移築したものと伝えられるそうです。だから寝殿造っぽいんだ。というか正面の唐破風を除けば寝殿造そのものですね。肘木(ひじき)も舟肘木(ひじき)だし。でもこの 写真を撮ったときには光浄院・客殿を見ること第一優先でろくに見てませんでした。失敗した。ん? 図録には「御所清涼殿を下賜され移築したもの」との言い伝えもあるが室町時代に建立されたものだろうとありますね。 大門の正面?が金堂の石段です。でも金堂は南面して建っているのでこれは側面(妻)です。大寺院の配置としてはなんか変ですね。 本当の目的地・光浄院そんなことはどうでも良い。今日の本当の目的地・光浄院に着きました! あれ? ガーン! 建物の中に入れないだけでなくて、外観すら撮れないじゃない。(トホホホホ・・・) で、Uターン、勧学院はどうだ? 勧学院も敗退これか? ここです、勧学院。しかし・・・ やっぱり入れないじゃん! 何をしょげかえっているのかって? ここ園城寺の光浄院と勧学院の客殿は寝殿造と書院造を繋ぐ重要な遺構なんですよ。初期書院造とも主殿造とも呼ばれますが。3名以上の申込で見られるということは知っていたのですが、何故かそれは建物の内部と思い込んでいたんですね。 とりあえず三井寺の基礎知識を。三井寺というと天台宗の中で天台座主であった円珍の流れですが、円珍の没後、比叡山は円珍の門流と円仁の門流に分かれて対立。正暦4年(993)に円仁派の僧たちが円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、円珍派は比叡山を下りて三井寺に移ります。天台宗の分裂です。以降比叡山延暦寺を「山門」あるいは「山」、三井寺を「寺門」あるいは「寺」と称し、その対立は熾烈で比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回にも上っています。 歴史は古いのですが古い建物はありません。というのは豊臣秀吉によって一度潰され、当時の建物は比叡山その他に移築されるか、あるいはそのまま取り壊されています。その詳細は知りませんが、現在の園城寺は秀吉没後にその夫人、北政所や徳川家康によって再建されたものです。中には大門や釈迦堂、一切経蔵、三重塔のように室町時代の建物もありますが、他所から移築したものです。例外は新羅善神堂(南北朝期)ぐらいですかね? ん? 見落とした。(;^_^A |