建築史・京都編    大勧進憲静の東寺        2018.04.22

南大門

ホテルの前でタクシーを拾い「東寺のみなみだいもんへ」と云ったらまた「南大門?」と聞き返されました。あちらでは単に「南門(みなみもん)」と呼んでるそうです。
ん? 「なんだいもん」なら通じた?

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私が東寺に関心をもつ最大の理由は北京律の泉涌寺六世長老・憲静が大勧進をやっていたから。もうひとつは京都大学名誉教授の高橋康夫先生が教授時代に書かれた『建具のはなし』に「中世建具の宝庫」として法隆寺の聖霊院と同時に東寺大師堂があげられていたから。

そういえば高橋康夫先生は学会の懇親会でお見かけしました。なんかカッコイイ先生ですね。でも司会の先生が「〆のお言葉を」の意味で「最後のお言葉を」と云ったんで「まだまだ生きるつもりですが」と会場の笑いをとっていました。

南大門の正面です。大通り越えに。

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歩道橋を越えて接近。

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重厚ですねぇ。この門、古くからここにあった訳ではなくて明治33年に桃山時代の慶長6年(1601)に建てられた蓮華王院の西門をここに移築したものだとか。

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一部に禅宗様も取り入れていますが基調は和様。と云っても私には「禅宗様はあまり顕著ではない」としか判りません。

向こうに見えるのは金堂。建長8年(1603)に建てられたものです。

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金堂

何かイベントの準備でしょうか?

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荘厳ですねぇ〜。でも私はあんまり好きじゃありません。

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講堂の妻から見た金堂の裏面です。こっちから見ると良い感じなんですが、なんで私は正面が気にくわないんでしょうね? あの偉そうな階隠?

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講堂

私が好きなのはこちらの講堂。
室町時代の延徳3年(1491)に建てられ(ただし立柱)、桃山時代の慶長3年(1598)に修理されています。但し基壇は平安時代の承和6年(839)以前の創建当時のものとか。

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こちらは五重塔の帰りに撮った東側からのアングルです。

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室町時代の土一揆で炎上した後の再建ですが、室町以前の古態を留めています。延徳3年(1491)の再建は炎上以前の様式に則って建てたんでしょうね。 雰囲気は平安前期を彷彿とさせます。

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これも五重塔の帰りに撮った写真ですが、三手先ですね。

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講堂の裏。何か平安時代に見えますね。法隆寺の講堂に似てるのかなぁ、と思って今見比べてみたんですが、似てないですね。何で平安時代の雰囲気を感じるんだろう?

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憲静と東寺

ところで、私がこのページのタイトルを「大勧進憲静の東寺」とした理由ですが。
東寺再建のため棟別銭徴収を「五畿内諸國司」に命じる弘安5年(1282)9月10日付けの太政官符が『鎌倉遺文』に残っています。タイトル(事書)に曰く

應令沙門憲靜、不論神社佛寺権門勢家領、勧進家家棟別銭貨拾文宛、用東寺塔婆諸堂造営料事

国衙領であろうが荘園であろうが、御家人であろうが非御家人の所領であろうが一律に棟別十文の徴収を命ずるこの太政官符は憲静の、幕府を通した朝廷への申請とされます。この太政官符に引かれる憲靜の解状は判読不能な部分も多いのですが、全体を要約すると教王護国寺つまり東寺の由来の後に、元寇で大騒動になったのは国家鎮護の密教寺院である東寺の衰退により護国の法力が弱まっている為であり、東寺の伽藍を再建して異國降伏之秘法を行い、本朝の滅亡、仏法の滅亡を防がなければならないと主張しています。元寇の後だからこの大義名分には幕府も朝廷も賛同せざるをえないでしょう。

冒頭に書いた通りこの東寺の大勧進・憲静は北京律の泉涌寺六世長老です。中世史の研究者は一度は律宗にはまるんだそうですが、私は律宗でも北京律つまり泉涌寺系と関東、鎌倉幕府との繋がり、というか取り入り方の勉強をしています。建築史に関係無いだろうって?
それがね〜、廻り廻って関係してくるんですよ。

ここは空海所縁の寺で一貫して真言宗の牙城だろう、なんで律宗が出てくるんだって?
そこが律宗の面白い処です。律宗ってのは今の宗派の概念から外れるんですよ。あるいは宗派じゃ無いんですよね。律宗の共通項は戒律を重んじるということだけで、泉涌寺というのは本質的には鎌倉時代、中国では宋の時代の中国式仏教なんですよ。鎌倉幕府は憲静を密教僧としか思っていないと思いますよ。

ともかくそういう訳で東寺は一度見ておかなければと思った訳に御座います。