建築史・京都編 二条城の遠侍から白書院 2018.04.22 |
二条城はですねぇ、難しいんですよ。シビアな問題を抱えているので。なので極力サクッと流そうかと。まずは東大手門です。江戸城で良く見る見慣れた姿ですね。 門を入ると右に番所が。 正面十間(19.6m)、奥行三間(6.06m)の細長い建物です。 丈に直すと桁行6.5丈、梁行2丈。う〜ん、平安時代の摂関家や院御所などの侍廊は大体あれぐらいの大きさということですか。 正面に築地塀がありますが、高いですね。普通の城なら石垣の上の塀と同じぐらいになるのではないでしょうか。その築地塀を左に行き、右に曲がるとデッカイ唐門があります。と云っても実感が湧かないでしょうからこちらの案内図を御覧下さい。右下の赤い矢印が動線になります。 建築史の世界で私が尊敬するある先生が、前日の懇親会で、このクネクネ曲がって南向きの唐門から入るのは鎌倉時代以来東国では正門を南に設けた伝統なのではないかと仰っていましたが(あっ、ビール片手のプライベートな会話です)、私は動線がクネクネ曲がるのは二条城は一応城だからじゃないかと思うんですけどね〜、う〜ん。 この写真で築地の高さは人の背丈の3倍近く有りそうですね。私が奈良で見た筑地塀はこんなに高くはありません。この二条城の画像で通常の土塀との高さの違いを実感出来るのはこれでしょうか。 普通の唐門とは違いますね。構造としては四脚門の前後に唐破風を付けたものです。私は近世建築には詳しくないので他にも例があるのかどうかは知りません。 いや〜、図録を買い忘れちゃったんですよ。まあ売ってたのかどうかも知らないんですが。 その唐門を潜ると、いかにも二条城らしい写真で見慣れた大きな建物が。 金ピカな偉そうな部分が車寄せです。車って牛車のことですけど。 振り返ってもキンキンキラキラ。 しかし外人ばっか。本当にここ日本? フキフキ "A^^; 個人的にはあまり好きじゃないんですけどね。
その左の建物が式台。 式台は二条城サイトには「参上した大名が老中職とあいさつを交わしたところ」と。 そして上の写真では左端。この下の写真の建物が「大広間」です。大広間というのは宴会場のことではありません。実はこれが主殿なんです。遠侍より少し小さいですが、諸大名が徳川将軍にハハーッとするところです。大政奉還も舞台はここ。二条城というと「書院造」の代表例ではあるんですが、これらが建てられた頃には「書院」とは云われていません。「広間」です。二条城の広間は最大級なので「大広間」と云われますが。「書院」と云う呼び方が増えるのは江戸中期ぐらいからです。
東山殿の東求堂(とうぐどう)ぐらいの位置づけじゃないですかね。あれも書院(中世の書斎)風の内輪の会所みたいですから。義政の東山殿の会所がここでは「大広間」とすれば辻褄は合いません? その更に北に白書院。 将軍がここに来たときの休息所、寝所です。ところがこれも「白書院」とは幕末頃からの呼び方で、それ以前は「御座之間」などと呼ばれていました。
「大広間」「黒書院」「白書院」と段々小さくなりますが、平面図にするとこの三つの間取りはほぼ同じ構成です。内部は撮影禁止のため室内は画像ではお見せ出来ませんが、「大広間」「黒書院」とこの「白書院」で内装がガラリと変わります。内装と云っても主に襖絵ですが。 最初の「遠侍」から「式台」「大広間」「黒書院」までは豪華絢爛な金地濃彩。それに対して将軍の居間である「白書院」は水墨山水画です。つまり豪華絢爛・ 金地濃彩は諸大名を威圧する為のものなんですね。居間ではその必要はありません。考えてもみて下さい。居間に豪華絢爛・金地濃彩では気が休まりません。 えっ、迷子になりそう? ではもう一度案内板を。いや、これの方が判りやすいかな? 正確さではウィキペディアのこれが一番なのですが。ん? ちょっと違う処があるぞ! 本丸の西の橋周辺。 ということで二条城・二の丸御殿を終わり、お次はその外周です。 こちらは門の裏側。二条城では本丸も後付けの外周です。
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