2022.08.20-21 鎌倉市遺跡調査研究発表会 |
20日いよいよ本番、第30回鎌倉市遺跡調査・研究発表会です。実は私、今年から鎌倉考古学研究所の賛助会員なんです。賛助会員って凄くない? 普通は会員は個人会員で、賛助会員って法人会員がのことなんじゃないの? その賛助会員なんですよ♪ でも鎌倉考古学研究所では賛助会員より正会員の方が格上らしいのですが。まあ私は『かまくら考古』が手に入ってこういう発表会に参加出来れば良いので。 会場は鎌倉生涯学習センターホール。『中世都市鎌倉を掘る』という本があるのですが、それもここで開かれたシンポジウム「中世都市の成立と展開」で発表された原稿がベースです。なので名前は知っていたのですが来たことは無い。緊張しますね、初潜入です。 開場は午後一時かと思ったら一時半だったらしくまだ開いてない。実は若宮大路御所に関する論文の抜き刷りも受付に置いてもらう爲にいの一番に入場する必要があったんです。だってここに集まる人達って、中世鎌倉地理史の担い手な皆さんでしょ。そういう方々って文学部系学会の機関誌には目を通しても、工学部系な建築史学会の機関誌の論文なんて見ないでしょう。でも抜き刷り50部は重かった〜。フキフキ "A^^; 同時開催の遺跡調査速報展開場は30分後だったので先に速報展を。 写真なんか出して良いのかって? これをご覧下さい。撮影可です。 なので遠慮なく。 若宮大路周辺遺跡(雪ノ下)若宮大路周辺遺跡は今回の発表の中で2つあります。ひとつはこの雪ノ下。そして大町です。 「かつては鎌倉の若宮大路を京都の朱雀大路にたとえ、京都の条坊制(方格地割)が鑓倉にも導入されていたとの説がありましたが、近年の発掘調査の成果から否定されつつあります。本地点の調査成果も、近年の説を支持する発見であると言えます」 とありますが、大三輪龍彦の「地割制試論」のことでしょう。私も大三輪龍彦の「地割制試論」や、それを下敷きにした宇キ宮御所説は当時の京用語の「辻子(ずし)」を理解していないという点で誤りだと思っており、この記述に異論はありません。ただ大三輪龍彦氏が「地割制試論」を発表した時点以降、京の都市史研究は進んでおり、発掘調査での実証を待たなくともあれがトンデモなことは今では明らかではないかと思います。勿論発掘調査での実証が積み重なるほど私は「ほ〜らね♪」と云えるので嬉しいですが。 大三輪龍彦氏は都市史の方ではないので、こんな言い方は酷かもしれませんが、氏は条坊制を理解していないと私は思います。ただ大三輪龍彦氏だけが悪い訳ではなく、その傾向は私にとってはバイブルの様な黒柳光寿大先生の『鎌倉市史・総説編』から有ります。 北条時房・顕時邸跡「北条時房・顕時邸跡」と言うのも発掘調査の区画名です。北条時房邸は宝戒寺の位置だし、金沢顕時邸をこことするのは貫先生が「妄想を逞しうして」仮置きしただけで確たる根拠は無いでしょう。私は金沢顕時邸は所謂赤橋亭だと考えており、この区画名は早く変えて欲しいと思います。 「北条時房・顕時邸跡」と言う区画名に引きずられてか「武家屋敷」という言葉が頻出されます。 若宮大路の西側は湿地だったろうと発掘調査の側からも云われていますが、私は地形の点からこのあたりは住宅地としては二流三流だったはずだと思っています。巨福呂坂東側や鶴岡八幡宮寺二十五坊の東谷、北谷、西谷、南谷などの谷戸を作り出した水の流れが、旧神奈川県立近代美術館の北側あたりを要とした扇状地形で、その扇の何処かを時々場所を変えながら川が流れていたはずだと。昭和の言葉ですが山の手ではありません。下町です。なにが悲しうて北条時房や顕時がそんなとこに住まなければならないんだろうと思いません? そんなに冷遇されていたんでしょうか。一戸主(京の条坊制用語で約150坪の敷地)を二人で分け合って住むような下級の御家人なら住んだかもしれませんが、それも「武家屋敷」と呼ぶんでしょうか。今の東京なら100坪の敷地の家は「豪邸」と呼ばれもしますが。 発掘そのものでは板壁建物の一部が見つかっており、その中には墨書きの絵や文字が書かれたものもあって、その現物が水に浸けて展示されていました。その意味は現在は不明なのですが、私がビックリしたのはその薄さ。いや、今なら普通の厚さなんですが、当時は木材を縦に切るノコギリなどは無く、板や柱は割って削って作っていたんです。あんな薄さに良く割れたとそっちの方に感心してしまいました。『春日権現験記絵』にある建築現場のシーンにも板を作っている処が描かれていますが、厚みが全然違います。 若宮大路周辺遺跡(大町)出ました。若宮大路周辺遺跡の二つ目、大町です。 武蔵大路周辺遺跡武蔵大路周辺遺跡と言われると若宮大路周辺遺跡ほど魑魅魍魎ではありません。武蔵大路から現亀ヶ谷切通に向かう道の西側です。 甘縄神社遺跡北条義時法華堂跡これはシンプル。間違え様がありません。あそこですね。 良く知られるこの柱の図なんですが、大中の黒点が検出された柱の位置みたいに見えるでしょう。違うんです。 大中の黒点は検出された柱の位置、黄色で蔽われた囲まれた小黒点から推測された柱の位置なんです。メッチャ怪しいじゃんと思われたそこの貴方。この推測は多分合ってると思います。 20日 研究発表会一日目1時半にさっきのドアが開き、論文の抜き刷りも無事に事務局の方にお渡しした処、コアなメンバーが30人ぐらい居るけど渡しても良いかと。その方々に届けば願ったり叶ったり、実は賛助会員になった時に10部ぐらい送っちゃおうかとも思ったのですが「勝手にゴミを送らないで下さい」と怒られて突っ返されたらどうしようと思って止めてたんです、良かった〜。お任せしますと50部をお渡ししました。で開演。 鎌倉大仏殿一日目の最後は湘南工科大学コンピュータ応用学科長澤可也教授の『鎌倉の遺跡を復元する―CG制作からみえるもの―』です。同時開催の遺跡調査速報展には出ていません。発掘の報告では無いので。 このときだったか他の建物の時だったかは定かではないのですが、最初は屋根の勾配をもっと緩く作ったら教育委員会からもっと高くして欲しいと言われたとか。 私はこの長澤先生を「CGの専門家で建築史の人じゃないでしょ、二階堂永福寺だってバーチャルリアリティでどんだけリアルに見せたところで永福寺の柱列に宇治の平等院をコピペしただけでしょう」と斜に構えていたんですが、屋根の勾配の話を聞いて見直しました。 屋根の勾配は中世までは本当に緩やかなんです。法隆寺の伝法堂でこれぐらい。それが段々急になり、寺院建築なんかの現在の屋根の勾配は確か江戸時代ぐらいから。こちらを御覧下さい。奈良時代や平安時代の寺院で現存するものも結構急傾斜ですが、屋根は一番傷むので奈良時代の建物でも屋根は何度も解体修理されていて、その痕跡から元の傾斜が判明しています。 一日目の発表会が終わりました。 私は一旦宿のニューカマクラへ戻り、新しい部屋にザックを置いてまずは西口のロンディーノへ。 そして大船の旧知のお店二軒をハシゴです。ハシゴと云ってもお酒はとのやまで一合だけですが。 21日 研究発表会二日目研究発表会二日目は朝からです。 これは3番目の発表、遺跡調査速報展にもあった「若宮大路周辺遺跡群(大町一丁目1086番)の調査」の報告です。小町大路の先、本覚寺前の夷堂橋を渡って大町四つ辻に50mぐらい向かった先の西側、滑川側の遺跡で、状態の良い建物跡が複数発見されたと。 こちらは4番目の「武蔵大路周辺遺跡(扇ガ谷)の調査」の報告のワンシーン。案内には「武蔵大路に面した遺跡。遺構はもちろんの事、希少な青磁の合子が発見された」とありますが「武蔵大路に面した」の下りは本当にそうでしょうか。後で少しづつ書き足します。
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