えっ、何で小鹿田が混じってるんだって? よ〜く見なはれ、飛び鉋が違うでしょう。 やだなぁ、もう。・・・・ なんて実は私も最初は小鹿田だと思ったんです。 でもなんか雰囲気が違うなぁ、と出品者の名前を見たら・・・・、えー! 沖縄だったんですね。 何十年も前のことだからお前の勘違いじゃないかって? 実は自分でも不安になって今ひっくり返して土を見ました。やっぱり沖縄ですって。飛び鉋がえらい荒いですが、でもこれはこれで良い味を出していると思います。30年ぐらい前の民芸館展の入選作、沖縄の新作陶芸?です。全面に上薬がかかっているので焼くときに一番上だったのか、 それとも焼くときに鞘に入っていて全部こうだったのかまでは覚えていません。1枚だけしか買っていないし。なんか一番上の一枚だけもらったような気も。
こちらも同じ頃ですね。両方同じ方だったのか、別の方だったのか、名前も定かでは。 島袋さんとおっしゃったと思いますが、う〜ん、退蔵? 常栄? 島袋常栄さんとかそれに近いお名前の陶工の方っていらっしゃいました? ん、1976年に国画会展で島袋常秀さんて方が新人賞を取ってられますね。この方かな? と思ったら大嶺実清さんのようです。言われてみればそんなお名前だったような気もします。 検索サイトから「島袋常秀」で検索されてここを見にこられた方が沢山いらっしゃるのですが、すいません、すいません、そのうち島袋常秀さんのページも作っておきますから許してください。m(_ _)m
でも1個しか持っていないなぁ。沖縄料理屋さんのお皿も出しちゃおか。(笑)
松田米司さんの直接の師匠らしいですね。私は自分が持っているものしか知らないのですが。えっ? 沖縄県立芸術大学の元学長? しかし大嶺実清さんの焼き物の画像はインターネット上にはほとんど出ていないですねぇ。買ってくるったって売ってるのを見たことないし、困りましたねぇ。確認のしようがありません。民芸館展の入選記録とかWEBサイトに出していてくれれば良いのにね。
酸化だか還元だか、もしかしたら作者?の狙いを外したのかもしれません。蓋のつまみの薬の溜まったとこだけかすかに瑠璃色が残っています。これがあのドンブリマカイのようなうっすら翠だったら綺麗だったでしょうね。 でも、民芸館展に出品したんだから狙い通りなんですかね。良く解りませんが。 これ、実はお気に入りの私の常用品でいつも机の上にあります。何が入って居るのかというと、花林糖、おせんべいと言ったお菓子径ですね。佃煮とか塩辛とか黒豆なんかはこれには入れずに山下碩夫さんか石飛勝久さんの白磁の器に入れています。流石に塩辛なんか入れた日にゃ、あとは塩辛専用になってしまいますのでね。(苦笑) ちなみに私は塩辛については「オタク」です。売ってる塩辛でも、小料理屋の「自家製」塩辛でも美味いと思ったものなどありません.。私が作ったものが一番です。ちなみに私のことをオタク呼ばわりする「不逞の輩」がおるそうですが、「塩辛オタク」であることだけは潔く認めましょう。(笑)
でもこれ、良いと思いません? いや、確かに厳密に言うと高台の上のあたりの膨らみが形の良いおっ○いに比べるといまいち、なんてことも言えなくはないのですが、でも気にいってしまえばそんなことはどうでも良いのです。私はこの器から花林糖を食べるために蓋をあけるときのあの擦れる音、蓋を閉めるときの柔らかい音が好きなんです。
お次は、
ある意味私の一番の「お宝」はこの真ん中の花瓶かもしれません。荒焼き (南蛮煉)と言うことで良いのでしょうか? これしか見ていないので良く解りませんが。私の購入価格と市場価格に当時でも10倍かそれ以上の差があったのです。まあそんなもんはこれぐらいですがね。 それだけでなくて私はこの素朴な味わいが好きなのですが。実際、どんな花を刺したって似合います。こんな枯れ草でもね。 見つけたのは確か新潟あたりの古道具屋みたいな寂れた骨董屋。あれも暗くなってからだと思います。 最初は備前かな?と思って手に取ったらどうも土が違う。おやじに聞いたら「備前あたりじゃない?」ってなんか気のない、どうでもいいやって感じの返事。でも違うと思うけどな〜、備前にこんなのも有ったのかな〜、と答えが見つからなかったので買っておいたのです。お値段? まあそういう乗りで買えるようなお値段、正直に言うと千円ぐらいです。ちなみにそのいかにも流行っていない骨董屋さんで伊万里の蕎猪口が一山いくらみたいな5個で500円だったのか1000円だったかってお値段で。絵付けや上薬の面白いものを選んで買ってかえったんですが、東京に帰ってからそれを並べて友人と見ていたら、「おい、これ初期伊万里じゃな〜か? ほらこの高台!」 (蕎猪口も高台って言ったっけ?まああそこんとこ) ちょうどその頃が田舎の骨董屋で面白いものを見つけられた最後の頃だったんでしょうね。そのほんの2〜3年後にはろくなものは無いし、ろくなものでもないのに青山あたりの骨董屋よりも高いって具合です。
話を戻して、事件はその翌年に起こったのでありました。 長崎の、新潟のあの店よりは高級っぽい骨董屋さんに同じものが! 「おっ、親爺さん、これってどこの?」 「釘絵を見てみろよ、沖縄に決まってるじゃね〜か」
ううっ、言われてみれば・・・、不覚! と言う以前に沖縄にこんなもんがあったなんてしらなんだ。(;^_^A
アセアセ… んでお値段を聞いてみたら15,000円でした。大勝利ー! えっ、お前のお宝ってその程度のものなのかって? うげっ!
ならばこれならどうだ!
これを持っていて譲ってくれたのは地方の業者さんですが、本人は「金城敏男さんのものと言うことで仕入れたんだけど、おやじの次郎さんじゃないか」なんて言ってました。どうなんですかね? 金城次郎さんの大皿なんかの魚とは違う気がするし(あとで)、でも小物ではこんなのもあるし、金城敏男さんのものにも似たのがあるし。素直に息子さんのものと思った方が無難なような。 元の壺屋は確か町中で、煙害みたいな感じで登り窯が焚けなくくなったとか。金城窯が読谷に移ったのが今調べたら72年。私が壺屋を集めだしたのがそれより2〜3年あとですから多分前のページまでにお見せしたのが元の壺屋の登り窯、この花瓶は金城窯が読谷に移った後のものだと思います。
でも、20年以上前だと思いますが、新宿の京王デパートで金城次郎展をやったその残りが陳列されていた中に、同じ形の花瓶が。でもその魚たるや痩せ細ってあと5分で死ぬんじゃないかって力の無い代物。それが30万円だったので憤慨して「これが30万なら俺のは50万だ!」 なんて思ったのですが、まあ展示会で真っ先に売れたやつではなくて、売れなかったやつですからね。買い手が付かなかった値段と比較してもしょうもないことです。
私が手に入れたときのお値段ですか? 実はその人にお土産にインドの木版画の曼陀羅を持って行ったのですが、えらい感激されてそのお返しに、タダとはいきませんでしたがえらい安く分けてもらったんです。 もうひとつえらい安かった理由が有ってね。実は底から微かに水漏れするんです。だから普通のお客さんに高値で売る訳にはいかなかったんでしょうね。私の方はともかくこの釘絵が気に入ったんでそんなことどうでも良いし、最初はお米のとぎ汁とかゆるゆるお粥でやってみたんですがダメだったんでボンドで強引に水漏れをとめちゃいました。(笑)
ただ、私はここに描かれた魚と海老がとても好きです。 上手かと言えばそんなことなくてまるで小学生のような「へたくそ」な絵です。でも美大の学生だってこんなに勢いのある魚の絵は描けないと思います。最近ネット上で金城次郎さんの「作品」を見て廻っていたんですが、やっぱり大作の金城次郎さんの魚はもっと固くて、色々見て廻ってもやっぱおれんとこにあるのが一番元気で良いな〜などと。(笑) まあ、目に馴染んでいるのと身びいきでそう思うのかもしれませんが。でも、30年ぐらい見続けているんだけど、飽きないですね。
ただしこれにも難点が。いや、水漏れはもう止めちゃったから難点ではないですが。 花を生けるにはやっやり先の3つ並んだ真ん中の、「変な備前」こと「骨董屋の壺屋」ですね。この魚たち、元気が良すぎて花と喧嘩しちゃいます。(笑)
追記
ところで「金城次郎さんの大皿なんかの魚とは違う気がするし(あとで)」と、書いた件ですが、正直に言って、有名な作品物の金城次郎さんの魚はあまり好きではありません。確かに印象は強いのですが、なにかほのぼの感が感じられない。でけ損ない小皿の魚の方が私には元気な気がする。 (でもこれはすばらしい) もうひとつ、現在の我々が思う沖縄は壺屋のイメージは実は金城次郎氏に始まる様式です。 筑紫哲也氏が
いま那覇・国際通りのお土産屋さんには陶器に描かれた魚たちが泳ぎ回っている。かつてはなかった光景だ。すべては「次郎さんの魚」の亜流、と言ってまずければ子どもたちだ。残念ながら、元祖を凌ぐ奔放、闊達な魚はまだ現れていないようだが……。
と書いたのはそのことが念頭にあったのではないでしょうか? 流石はその道のプロ、いや焼き物のプロではもちろんなくて、取材のプロと言う意味ですが、この文章は唸りました。「陶器に描かれた魚たちが泳ぎ回っている。かつてはなかった光景だ。」と言う部分です。このサイトでも新垣栄三郎窯のものを少しだけ紹介しましたが、ああした絵付けの方がどちらかと言えば旧来の沖縄の壺屋のようです。では金城次郎さんの大皿の魚はいったいどこから来たのか。
先日、あれこれやきものの画像を撮りに実家に戻ったらお袋が李朝のやきもの関係の本や雑誌の特集号を部屋に集めていてくれました。その中に「韓国伝統紋様」と言う本があってパラパラとめくっていたら陶器のところになにやら見慣れた魚が。
金城次郎さんが有名になったのは戦後、柳宗悦らが紹介したからでしょう。濱田庄司や、河井寛次郎が何度も沖縄を訪れて「指導」をしています。そして柳宗悦の「民芸」は浅川伯教がロダン見たさに初めて柳宗悦の家に訪れたときにお土産にした李朝の白磁から始まっていたと思います。柳宗悦らにとっての初期の「民芸」は李朝の白磁だったと言っても言いすぎでは無いかもしれません。 この図柄は粉青沙器つまり粉粧灰青砂器(ふんしょうかいせいさき)ので日本では「三島」とも呼ばれているものです。秀吉の朝鮮侵略による朝鮮国土の疲弊、各大名による多くの陶工の拉致によって消滅しました。つまり所謂「李朝の白磁」よりも前の時代のものですが、濱田庄司や、河井寛次郎も戦前にそれらを沢山見ていて、そして持っていたのではないでしょうか。
ここからはこの図柄からの私の想像にすぎませんが、東京から来た偉い先生様濱田庄司が、何の気なしに活きの良い魚を書いていた陶工金城次郎さんに教えたのが李朝のこの図柄で、「偉い先生」の教えに従って、本当に生活雑器であったのかちょっと信じがたいあの大皿作品を作り、教えに忠実にあの魚を描いて(彫って)いたとしたら・・・。
どうなんでしょうね? そういうのって。 自然保護の世界では絶対にやってはいけないことなんですが。もちろんそうであったとしても自然界と人間社会は違いますし、陶工にしてもそのほかの職人さんにしても、伝統工芸を守ることが仕事ではなくて売れるものを作り家族の生活を守るることがまず第一の仕事です。でも「民芸」の旗の元、そういう「指導」をして(いや、指導をして良いものが出来ること自体は良いことだと思いますが)出来上がったものを「これが民芸じゃ!」と言うのは本当にそうだろうか? と思います。 「民芸」でなくとも良いものは良いのですから良ければそれでよいのですが、ただ「そもそも民芸って何だったのか」と言うことを曖昧にしては私はまずいと思います。
それにしても筑紫哲也氏の「すべては「次郎さんの魚」の亜流、と言ってまずければ子どもたちだ。残念ながら、元祖を凌ぐ奔放、闊達な魚はまだ現れていないようだが……。」って、
辛辣だよなぁ。
"A^^;
と言うことで壺屋はおしまい。
とか言いながら(笑) でも壺屋じゃ無いから良いでしょ。李朝より古い中国の民窯の幼稚でほほえましい絵柄は本当に子供達の仕事だったらしいですが、粉粧灰青砂器も含めた李朝の見るからに子供の落書きのような模様は熟練した陶工の手によるものらしいです。上の図柄じゃなくてほんとに幼稚園児の落書きみたいなのが有るんですが。
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