寝殿造 2.2.1 寝殿造の内郭と二棟廊 2016.8.24 |
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催馬楽「此殿」
正月大饗など、摂関家が寝殿でひらく宴の後半、いわば二次会で、寝殿南の簀子縁に場を移して酒宴が続くが、おそらくそういうときに客人(まろうど)がその屋敷と主人を褒めて唄うのだろう。いくつもの建物がセットで、その中心に寝殿が位置することがこの唄からも見てとれる。寝殿造で寝殿は中心ではあるが一部である。 内郭と外郭以下堀河殿の復元図を思い浮かべながら読んで欲しい。 内郭と外郭に関してはもうひとつ考慮しておくことがある。奈良時代の大寺院の伽藍である。 廻廊が現存するのは法隆寺の西伽藍、東伽藍。復元では薬師寺がある。 神社では春日大社が古体をとどめているし、発掘調査等からの配置復元図なら『古寺建築入門』に12の伽藍配置図がある。それらはひとつとして同じ配置は無いが、共通してあるのが、廻廊による内郭と外郭の区切りである。それらは中国の随や唐の時代の宮殿建築の流れだろう。屋敷の主が皇帝か仏かという違いはあるが、主人のエリアと従者のエリアの結界が廻廊である。古代の大寺院において、僧は例え大僧正と云えども仏の従者である。内裏も平安前期までは天皇の私的な空間であった。公的な空間は大極殿の前に広がる朝堂である。 寝殿造に話しを戻せば、中心となる寝殿とその両脇の対屋、そこから突き出す左右の廊がコの字形になって寝殿の南庭を囲んでいる。その範囲が屋敷の主人と家族の世界。その外側が従者・使用人の世界である。寝殿造の典型は本当に左右対称であったのかという問題はまた改めて検討するが、稲垣栄三の云う、「寝殿造における左右対称というのは、東西対の存在のみをいうのでなく、東西にある中門廊・透廊が南庭をとり囲むことではじめて完結する(稲垣栄三著作集3 pp.27-28)」という略左右対称は満たしている。 もちろん内裏の場合はかなりがっちりと内郭をガードしているのに、寝殿造では視覚的なエリア分けに近い。西の中門廊の外側は壁だが、東は透廊である。東三条殿の場合は逆に西が透廊だったりする。しかしそれは、奈良時代の存在した大伽藍が必ずしも同じ配置ではなったことと同じと理解すれば良いのではではないだろうか。 内郭内郭の内、寝殿については既に説明済み、東西の対、北の対については次のページで説明することにして、ここでは先に二棟廊と中門廊を中心に説明する。対(つい)は時代が下るにつれて最上級の寝殿造からも消滅してゆくが、二棟廊と中門廊は最後まで残るからである。 寝殿左右の廊内裏の回廊寝殿から東西に渡廊が出ている。その先は対屋と呼ばれるものである。 透渡廊堀河殿の復元図にも北東西に梁間二間の廊がある。南は梁間一間の廊で透渡廊(すきわたどの)と書かれている。桁方向の柱間には蔀はなく、柱だけということだ。『年中行事絵巻』のこの絵で、寝殿の西に描かれているのがその透渡廊である。内裏とは異なり土間ではなく床がある。 二棟廊ところで堀河殿の寝殿の北側東西に伸びる梁間二間の廊は、西が西北渡廊とそのまんまな呼ばれ方だが、東は二棟渡廊と書かれている。近世民家建築の様式に二棟造があるが、二棟廊はそれとはなんの関係もない。 平城京でも平安京でも、内裏の内郭を囲っていたのは築地回廊であった。既に触れたように築地回廊とは、築地塀を中心に両脇に屋根を張り出すものである。寝殿造の二棟渡廊は築地回廊の場合の築地が柱に変わったものである。なので屋根の組み方は築地回廊であった当時の組み方を踏襲している。二棟廊と云うのは室内から見上げた屋根を姿からで、屋根を支える仕組みが棟二つに見えるからで、下から見える二つの棟と、その上にある棟を合わせて三棟造(みつむねづくり)とも云われる。 門としては法隆寺東大門に東大寺転害門。再建では唐招提寺の南大門に薬師寺の中門 もそうである。複廊としては春日大社の回廊に見られる。再建では薬師寺の二棟廻廊、特に大講堂の脇の部分(下の画像)がまさにそれにあたる。 寝殿造の建物は、寝殿と対を除いてほとんどは梁間二間の建物だが、その全てがこの形であったとは思えない。寝殿北側東西の廊、すくなくとも二棟渡廊、二棟廊と呼ばれた棟は内裏を習ってこのような屋根組にしたのだろう。 二棟廊の柱間寸法を示す史料はないが、およそ一丈(3m)ぐらいだろう。四隅に丸柱という一マスが京間の4畳半強と思っていれば良い。堀河殿の二棟渡廊は二間×四間だから、72u、40畳強のスペースとなる。 この位置の廊は、寝殿のすぐ脇ということもあって、東三条殿のように四間四面庇に東孫庇、南弘庇までついた完備した東対がある場合でも、寝殿に次ぐ位置づけで、主人の出居、簡単に言うと居間とか執務室にも使われる重要なスペースである。後白河天皇が東三条殿を里内裏としたときには、堀河殿で二棟渡廊と呼ばれた位置の東北渡廊(あるいは御車寄廊)を常御所としている。そして鎌倉時代以降には大臣。親王の屋敷の場合には公卿座とも云われるようになる。 なお、東三条殿ではこの位置の廊を二棟廊とは呼ばず、別の東二棟廊が東対の更に東、東侍所廊の北に平行に並ぶ。しかしそれはここで述べている二棟廊とは全くの別物である。そちらは内郭、つまり主人のスペースではなく、外郭、従者のエリアで、使われ方としても侍所に近い。 初稿 2015.10.20 |
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