寝殿造 6.1 鎌倉時代の寝殿造・概観 2016.11.11 |
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以下7章「鎌倉・室町時代の寝殿造」は川上貢の著書『日本中世住宅の研究』(1967)、がベースである。『門葉記』の原図というのもそちらからである。ただし引用のページ数は同新訂版(2002)を用いた。 内裏・院御所鎌倉時代の寝殿造については川上貢の『日本中世住宅の研究』 が第一にあげられる。以下は同書(川上貢2002)の「結論・一、中世住宅の概観」から鎌倉時代についての要約である。 敷地と門洛中の院御所では敷地は方一町が標準である。 建物の構成はほぼ一定し、敷地の四面は築地でかこい、門を立てたが、晴面を敷地の東西何れか一方に設定し、その面の南に四脚門、北に棟門を配する。四脚門が正門であることは何れの御所でも一定していた。その四脚門が単に「南門」と書かれることもある。書いた者も他の者も、その時代の人間なら何処に門があるかを知っているから例えば二条高倉殿の南門と云えばそれで通じる。 正門が東西どちらかに決まっていた鎌倉時代の南門には注意が必要である。 寝殿寝殿が御所の正殿で、その桁行間数は七間(五間四面)が標準であり、常盤井殿にみる五間寝殿(三間四面)は唯一の例外に属している。寝殿の東西に配される建物は西門と東門のどちらかを晴面とし、晴面には寝殿に近い方から二棟廊・透渡殿、対代・中門廊・中門・殿上・車宿・随身所・念講堂、また裏面では渡殿・中門廊・中門・泉殿・釣殿がそれぞれ寝殿の左右と南面にかけて設けられる。 二棟廊二棟廊は寝殿の晴面北方にあり、母屋・庇の他に南面に弘庇が設けられ、多くは常御所または東宮御所にあてられる。鎌倉時代には二棟御所と呼ばれることが多 い。二棟廊は寝殿についで公私両面で不可欠のものとなり、東西の対(代廊)が省略される傾向にあるに対し、逆に重要度を増す。 常御所常御所は基本的にはスペースの呼び名である。二棟廊か、寝殿の北面(冷泉富小路殿・持明院殿)に設けられる。ただし、二条高倉殿が弘安六年(1283)に新造(第二期)されたときには、皇居に使用することを予め前提としていたため、寝殿から常御所を分離して、建物として建て、寝殿を紫震殿(南殿)、常御所を清涼殿(中殿)にあてた。 中門廊中門廊は晴面では中門を中にはさんで南廊と北廊に分れ、南廊を念講堂にあてる慣例がみられる。なお、この念講堂は御所が内裏に使用されたときには内侍所に用いられる。中門南廊の南端は車宿・随身所につづき、中門北廊(中門廊)は対代または二棟廊に連結し、その外面に侍廊がある。ただ内裏、院御所、摂関家等では殿上または蔵人所と呼ぶ。蔵人所と車宿・随身所は中門廊の外方、築地の内で北と南に相対している。東西両側に中門・中門廊が設けるのは、鎌倉時代においては院御所にのみにみられる特色である。 北対と雑舎寝殿北方はなかなか史料に現れないが、二条高倉殿では、一対・二対・十間対・北対・釜殿などが記される。対屋は東西に妻をもっ卯酉屋で、十間対の如く、屋内を一間毎に仕切り、十開の桁行をもっ長屋を構成し、一対・二対の呼称にみるように対屋二棟が妻を接して東西行に並び、晴面側の対屋の妻が、晴面の北門に直面する位置におかれることが多い。これらの対屋は御所伺候の男や女官の居所にあてられた。 摂関家等一方の摂関家はこの時期五摂家に分かれるが、九条家の一条室町殿、西園寺家の今出川殿、近衛家の近衛殿 の三邸の建物規模を鎌倉時代中期頃の姿にみると、敷地は何れも方一町で、近衛殿は西礼、一条・今出川両殿は東礼に建物が組み立てられる。 鎌倉時代の概観内裏・院御所・上層公卿邸宅・寺院住房の諸例を通じて鎌倉時代住宅を概観すると、平安時代中・末期の寝殿造の傾向がほぼ踏襲されて、建物の構成はそれこそ「如法一町家」で、ほとんど単一な標準形式と言える。個々の姿はたんに規模の大小と棟数の多少の組み合わせにすぎない。 なお鎌倉時代のあいだに東西の対(対代・対代廊)は次第に二棟廊に吸収されて消滅し、透渡殿も省略され、中門廊が二棟廊に直接するようになる。ただ、それは時代による変化というより、屋敷の主の財力にも縮小によるのかもしれない。平安時代の寝殿造で脚光を浴びたのは、国家の富を集中させた摂関家や院の、大規模な儀式の行われた寝殿造であって、平均的な像、あるいは下位の像はそもそも明らかではない。 地頭の進出により、国衙領や荘園からの収入は以前より減少し、更に摂関家は五つに、天皇家は二つに分かれたことだけでも、それぞれの「家」の収入は半分以下である。 寝殿は並戸や仕切障子による間仕切が発展して、並戸以南の母屋・庇と、並戸以北の北庇・北又庇に二分される。前者は公家行事の晴の用に、後者は私生活の用に、ハレとケの空間の分化が明確化してきている。そして二棟御所・弘御所・小御所・常御所のように何々御所と呼ばれ、用が空間にむすびついて専用空間の分化が著しく進行していく。 と、ここまでが川上貢『日本中世住宅の研究』 ベースの要約だが、もうひとつ付け加えておく。 平井聖の寝殿造から主殿造へ平井聖は『日本住宅の歴史』 pp.89-90 にこう書く。 寝殿造の住宅が非対称になったのは、中世に入ってからではない。平安時代のなかばになって、寝殴造の住宅が貴族階級の日記に具体的にその姿をあらわ すようになったときには、すでに非対称であった。法住寺殿も、対屋は西と北にあったが東にはなく、東は東西に棟をむけた小寝殿であった。東三条殿は西の対屋を欠いていた。そのころの貴族たちが理想とした寝殿造の標準型は、南北の中軸線に対し、建物が対称に配置されるというものだった。 これは彼らが内裏をその目で知っており、それが規範だったからだと思うが。 しかし必要のない部分が省略されて非対称になる。最も単純で必要条件だけを備えた形が、短い中門廊を一方の端から突出した主屋姿だった。最後まで残った中門廊は、どのような機能を備えていたのであろうか。 ただしそれは日常の用法ではないが。 普段、・寝殿造の住宅を訪れた人は、中門廊の中門付近から上った。牛車で乗りつける場合には、中門廊の外側にある門から直接乗り降りしている。徒歩 の場合も中門廊の中門側の妻から上る人、中門廊に設けられた板扉から上る人など、身分・目的によって入口はちがっていたが、中門廊はそれらの人びとの昇降 の場として重要な役割を果たしていた。従って寝殿とその周辺をいかに簡略につくっても、中門廊の出入口としての機能を果たす部分だけは省略することができ なかった。中門がなくなっても短い必要最少限の中門廊が残ったのである。 寝殿造の渡殿や廊は、建物と建物をつなぐ通路であった。普通その先に何もない廊や渡廊はなかった。中世はじめの小規模な寝殿に附属する短い中門廊は、先に 建物があるわけではなく、その点では廊の名にふさわしくない。かつての中門廊の一部が残ったために、その名が踏裟されただけのことで、廊としての機能を 失っていた。現代の名称でいえば、玄関に相当する出入口であった。 この傾向は、上層階級の住宅でも鎌倉時代に入ると、顕著にあらわれてくる。摂関家のような最もととのった公家住宅でも、もはや表側にも対屋を配することは なくなり、かつて寝殿と対屋をむすんでいた透廊〔透渡殿)と二棟廊が直接家司などがつめる殿上につながり、透廊から中門廊が南へのびる形式をとることに なった。 この形式は、中世以後における寝殿造の系統の住宅の中で、最もととのったもので、さらに室町将軍の屋敷にうけつがれる。そして、鎌倉時代の初期に
地方武士の家の主屋であった短い中門廊を突出した形式は、室町時代になると武家住宅だけでなく、広く寺院の住房などにも用いられるようになる。 それと同時に、この短く突出した一中門廊の名称は、いつのまにか中門と呼ばれるようになる。この部分が廊としての機能を失ったために、その名から廊の字が とれ、残された出入口の機能をあらわす中門の名が使われることになったのであろう。その例は、『明月記』の記述にあらわれる。中門廊に昇ることを、そこで は中門に昇ると記している。 『門葉記』は、青蓮院門跡に関する仏事の記録を平安時代から江戸時代まで、永い間継続的に記しているが、その中では『明月記』 と同じ13世紀の前半に、すでに中門と呼ぴはじめている。その後、14世紀から15世紀のはじめまで両者の混乱がみられるが、15世紀前半の伏見宮の日記 『看聞御記』では、ほとんど中門の名称が使われていて、すでに名称が変ったことが認められる。 移行の時期には個人差があるが、中門の名が広く用いられるよ うになった15世紀には、この短い中門廊の形式が定着し、その出入口の機能が中世住宅において重要な意味をもつに至ったことが認められる。そして、この中門は中世住宅を特徴,つける一つの大きな要素となった。 初稿 2015/10/28 |
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