寝殿造 6.2.2 西園寺家今出川殿 2016.11.9 |
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今出川殿今出川殿は西園寺公経の屋敷で、初見は『明月記』嘉禄2年(1226)10月16日条であり、「夜前移徒其東隣新亭云々」とあるので、この日前項の一条東殿から東隣の今出川殿に移っている。四至は一条東殿の東隣と記され、ばれているところから東は今出川、南は一条大路をその境界としていた。北は武者小路を以て限られたと思われる(p.233)。 第一期一期の今出川殿は、嘉禄2年(1226)10月から嘉禎元年(1235)8月17日の焼失まで僅かに10年で詳細は判らない。貞永元年(1232)9月に今出川殿寝殿で仏事が行なわれこのときこう書かれるので、寝殿の規模はさほど大きいものではなかったようである。
九条教実はその屋敷が先に見たように貞永元年(1232)9月以降一条室町殿が後堀河天皇の中宮と乳飲み子の東宮(後の四条天皇)の御所となっていたために、天福元年(1233)4月の臨時除目により、今出川殿を借り、吉書の儀式を行なっている。その記録に、寝殿・西北廊・二棟代・中門廊が記録にみえる。そこにあるように二棟廊がなくてその代替屋だった。梁行が最大五間の対屋に対して対代というのは判るが、梁間二間の二棟廊に対して二棟代ということは、複廊ではなくて梁間一間の単廊だったということか。詳細は不明ながら、当時の今出川殿はかなり貧弱なものであったと云える。 教実は一条西殿も所有していたが、天福元年(1233)にその一条西殿が焼失して以降、ここに住むことが多く、2年後の嘉禎元年(1335)にここで死んでいる。その数ヶ月後にこの第一期今出川殿は焼失する。 なお、この第一期から「今出川北亭」「後殿」または「後御所」と呼ばれている北屋とそれに相対する南屋で構成されていたらしい。定家の『明月記』天福元年(1233)の記事に「禅門日来披座今出川北亭」とある。北屋は私的居住の施設で、南屋の晴の儀式の場になっていると想像される。教実は住まいには北屋を借りていたのだと思う。しかしこの頃の詳細は判らない。 第二期嘉禎元年(1235)8月17日の焼失後の再建が第二期である。以降乾元元年(1302)まで60年のあいだ火事にはあったという記録はない。 西園寺公経はこの今出川殿の他に北山殿、吉田泉殿、吹田山荘も所有していたが、今出川殿は公経の子弟によって相伝され、北山殿とならんで西園寺家の重要な邸宅であった。公経の子の実氏は冷泉富小路殿を本所とし、晩年は常盤井殿に隠居し、今出川殿は寛元元年(1243)に実氏の娘・後嵯峨天皇后・大宮院の御産御所に使用されたのを初例として、後深草天皇后・東二条院も里御所または産御所として頻繁に使用している。また実氏の孫の実兼の代にはその娘伏見天皇后・永福門院や亀山天皇妃・昭訓門院が里御所や産御所に使用しており、持明院統や大覚寺統の両統の院もよく御幸している。 鎌倉時代の後半においては、今出川殿は西園寺家の本所御所であると同時に女院里御所として、当時の公家住宅のなかでも摂家の邸よりも重要な性格をおびていたもいえる。 配置御産御所に使われるときには御産御祈が行われる。簡単に言うと安産祈願の祈祷だが、そのときどきの行事に伴って施設名が現れる。それらを概括すると、寝殿・二棟廊・東向御堂・持仏堂・北小御堂の六ケ所になる。このうち、東向御堂と持仏堂は同じ建物だろう。同一史料中に二つ同時には書かれていない。 次に、これらの施設の配列と個々の内容をしらべてみよう。先ず、正応二年(1289) 10月18日、実兼の任内大臣大饗が今出川殿で行なわれているが、当日奉行の任にあたった藤原兼仲はその日記で、
と記していて、今出川殿は北屋と南屋に大きく二分されていたこと、そして堂は南屋の北に所在したこと、敷地東面の今出川通に面して惣門、そして北門が設けられていたこと、そして北門は北屋に近く位置したことになる。第二期でも第一期の南北両屋の構成が踏襲されている。そして両屋は惣門を唯一の正門として一つの郭内に配置され、廊で連結されていたことが判る。
若干長くなるが、解説しておこう。
これで、寝殿、二棟廊、中門廊の位置関係が判る。ちなみに、大饗には前半の公式ディナーパーティと後半の二次会のようなくだけた宴席があるが、その模様替えのときに、
とあり、二棟廊の座にいた上官等は中門廊に、寝殿東庇の座にいた弁少納言は二棟廊南弘庇に順送りに後退していて、二棟廊と中門廊が直結していたこ、二棟廊に南弘庇があったことが判る。 第一期に相当する貞永元年(1232)9月の今出川殿寝殿では「二棟代」とあったが、第二期ではきちんとした二棟廊である。先の8番目の繰り返しになるが、南に弘庇が付いている。これ は鎌倉時代後期からの特徴のひとつである。また、その二棟廊は寝殿の北東で接続しているようである。これは室町時代の二棟廊とは違う。透渡廊は無いが、それが あった頃の二棟廊の位置と変わってはいない。これはけっこう重要なポイントである。 しかし、北殿や侍廊、車宿などは全く解らない。この寝殿、二棟廊、中門廊の北に廊でつながった東向御堂があるが、その前、つまり東に池があったらしい。しかしそれほど大きくは無いだろう。方一町に北殿、南殿があるのだから南庭に池は無かったと思われる。そういう遊びは、やったとしたら北山殿でやっただろう。 寝殿『門葉記』乾元2年(1303)指図寝殿の規模を知る史料は、『門葉記』乾元2年(1303)閏4月の御産御祈修法の指図をがある。そこには東西行七間に南北行五間の大きさの寝殿が描かれている。ここでは室礼の指図からどの程度の情報が読み取れるのかをついでに見ていく。 川上 貢『日本中世住宅の研究』より 南面各柱間に格子、西面南端柱間に妻戸、その北二ケ間に格子があるので、南と西の両面は寝殿の限界を示している。つまり東にはまだ何かあるかもしれないが解らない。記事にはこうある。
解説というより、解ったことと判らないことの整理だが、こう読める。
これと指図を対比しても祈祷僧の居た場所以外はよく判らない。指図の柱を見ると、母屋は四間に見える。あるいは母屋の西一間は塗籠なのか。そうだとして、母屋西壁と、その中央の柱が書かれていない。が、御産御祈修法で僧に関係するのは南庇七間と塗籠を除いた母屋に東庇で、西庇と北側は祈祷僧 の入る場ではないから記述が省略されているのかもしれない。また母屋の中に記者が入っていないなら、記述の中心は南庇と東庇だけで、母屋の室礼は担当外、 西に両院の座があること、几帳があることは判っても正確には知り得ず、間違っているのかもしれない。 間取りの検討上記の指図を平面図にするとこうなる。平安時代の五間四面孫庇付ならオレンジの部分が母屋で、黄色が庇、薄いグリーンが孫庇である。 実は赤い部分の柱が省略されていて、本当は五間四面北孫庇付きの古典的、典型的な寝殿だったとするならこうなる。 それとも塗籠が無くてこうだったのか。しかし紫宸殿じゃあるまいし、塗籠の無い五間の母屋などわざわざ作るだろうか。正月大饗? この時代は臨時客だろう、母屋は使わない。大饗は任大將、任大臣大饗ぐらいだろう。やはり母屋は使わない。 すると、北庇と北孫廂を一体化して、室町時代に良く見るような新義、つまり伝統的ではない細かい間取りにしたのだろうか。庇と孫庇の間の不要な柱を取り払って。小屋組(屋根を支える架橋の構造)は新しい段階の技術を採用したと。この時期なら不可能ではない。 この平面図は1967年の『日本中世住宅の研究』p.350 の図を元に私が想像で色分けしたものである。 色々と妄想を膨らませても、どれも根拠が無いので、以下は川上貢に従っておこう。 川上貢は『日本中世住宅の研究』で、先の指図から、東一間は東庇、その西五ケ間が母屋で、南面一間が南庇であることがわかるという。母屋は几帳、法皇(亀山院) ・院(後宇多院)の御座そして験者の各座が設けられている五間に二間の大ききであったようで、南より四番目の柱列は、各柱間に建具がならぶ並戸からなる棟分柱列が母屋と北庇を仕切っている。つまり五間に二間の母屋そして四面に庇がついたいわゆる五間四面屋で、北は又庇を合わせて奥行二間に広げたものと見倣されるとする。また『勘仲記』正応2年(1289)10月18日条の内大臣大饗の記事に「於東面妻戸前弘廂」と、東弘庇があったことが記されている。14年の開きはあるが、その間に火災の記録は無いので、実は乾元2年(1303)のこの御産祈祷のときも、東弘庇は指図には現れないが、あったはずである。 『公衝公記』の図川上貢の1967年の『日本中世住宅の研究』と、2002年の新訂版では、文章が同じでも挿絵の図や指図の写真が一部変わっている。この今出川殿の平面図もそうだ。2002年の新訂版では『公衝公記』の今出川殿寝殿図に差し替えられている。 ところが文章は同じなのでこれが『公衝公記』の何年何月の条なのかが解らない。従って別の時点であり、その間に間取りが変わったということもありえる。もしも同じ時点だとしたら、描かれている範囲も広いので、こちらは精度は高いだろう。『門葉記』乾元2年(1303)閏4月の御産御祈修法の指図に「御産所」とある位置は塗籠や障子帳ではない。「産所」は穢れの場だから障子帳の外に設ける。 例えば『餓鬼草子』第二段「伺嬰児便餓鬼」に出産の場面があり、畳みの縁から介添え人の着物に至るまで白一色で、襖障子の外に祈祷僧が居る。『法然上人絵伝』でも、障子帳は描かれていないが、出産場所は障子帳や塗籠の中ではない。 しかし『門葉記』乾元2年(1303)指図では「御産所」と書かれた南北二間、東西一間の東側中央に柱が描かれている。しかし『公衝公記』の図では柱はそこではなく一間更に東にあり、一間四方の障子帳かと思われる間取りの柱として使われている。間仕切りが変更されることはあっても、構造材である柱が動くことはなかろう。構造材とシテの柱ではなく、方立のようなパーティションの部材である可能性もあるが、そこは室礼の範囲外である祈祷僧側の『門葉記』指図の守備範囲外、つまり『門葉記』指図の関心外故の不正確さである可能性が高い。「指図」はあくまで儀式の場の室礼の指図なので、日常の間取りを正確に写し取ったものではなく、またそこから平面図を読み取ろうとしても、元々の情報が断片的なので、どうしてもズレは出てしまうという良い事例だ。 なお、この屋敷は東礼なのだから東庇の東面二間は蔀だろうとは思うが、『公衝公記』の図に書いてないのだからしょうが無い。 全体図全体図と云っても私は太田静六ではないのだからこの図は決して信用しないで欲しい。書いた本人も信用していないのだから、用は東礼の寝殿造で東に正門があるが、それと北門が総門の内であること。南殿が正殿だが、北殿があり、北中門があること。東向御堂と北向御堂があり、東向御堂の前には池があるらしい。侍廊、車宿、随身所は必ず有り、表には出ないが雑舎は必ずある。それが方一町の中に収まるか、というだけの図である。 なんとか収まるようである。なお、東向御堂と北向御堂は同じ建築物ではないが、同じ位置に建て替えたと見なしている。 初稿 2016.10.04 |
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