寝殿造 7.3.3b   常盤井殿・第4期      2016.11.21 

第四期

正安2年(1300)焼失後は嘉元元年(1303)に再建されたのが最後の御所である。その四期には後伏見院の仙洞になっている。後伏見院がここを退去したのは元弘の乱(1333)での鎌倉幕府滅亡によってである。

東透渡殿

東透渡殿は『実躬卿記』嘉元3年(1305)5月17日条に、

参常盤井殿、依召参常御所南面御縁、任禅法眼〔略〕参入被召、東ノ透渡殿杉障子北裏ニ可被書牛馬之似絵、件仁当時堪能也、予、為雄卿経意祗候御前之書之、又為採色被召絵師幸増法眼者也。

とあり、透渡殿には杉障子がたてられて、そしてその障子には10枚の牛馬の絵が画かれた。この杉障子はひとつの柱間に東西二枚たてられているので、杉障子がたてられた柱間だけでも五間ある。この透渡殿の先は東中門廊と思われる。元弘二年(1331)の記事中にもこうある。

仍先有院御方推参、頼教宗兼朝臣以下乱舞等如例、於東透渡殿有此事


泉亭

もうひとつは泉亭である。『実躬卿記』正安4年(1302)7月4日条に、

晴、参仙洞今日可有御幸常盤井泉殿、権大納言〔実泰〕儲供御云々。可参会之有催無間先参御所也、午刻法皇御幸即為車寄、即参泉亭、頃之上皇御幸、又遊義門院臨幸。(中略)抑作風流船浮泉是口納食物之類者也

として、同様に泉亭が設けられており、そして泉に食物を載せた風流船を浮かべて遊興の会が同所で催されたことが知られる。弘安5年11月26日に焼失した第二期・常盤井殿にも「泉屋」や見え、先の透渡殿は東中門廊に連絡する他に、泉亭への連絡でもあったかもしれない。その位置は、寝殿東方、東中門廊 北の位置、つまり第二期の仁和寺蔵弘安元年(1279)12月16日の行幸の指図に「御所在之」と記されているあたりと推定するのが適切であるように思う。

寝殿の指図

嘉元元年(1303)に再建された四期、つまり最後段階の御所である。この時期に関する史料は四つある。

  1. まず延慶4年(1311)2月23日の伏見院の後宮広義門院の御産記録が『公衡公記』「御産愚記」に。
  2. 同じく『公衡公記』「御産愚記」延慶4年(1311)4月14日に姫宮の生誕50日の上皇との対面の指図。
  3. 『門葉記』文保3年(1319)3月29日の指図。寝殿内に仏事道場を室礼たときのもので、寝殿・西二棟廊・公卿座そして中門廊がえがかれているが、指図の関心の中心は寝殿の仏事室礼だろう。
  4. もうひとつは『花園天皇宸記』であり、正慶元年(1332)11月12日条に広義門院後伏見院后)公卿淵酔事で、公卿座がその儀場に使用され、その指図がある。こちらの関心の中心は西公卿座と二棟廊である。


図@、『公衡公記』延慶4年(1311)4月14日

順番が逆になるがご容赦頂きたい。私が見た順である。『公衡公記』「御産愚記第四」延慶4年(1311)4月14日条、後伏見院に姫宮が生まれて50日目の父後伏見院との対面の儀式の室礼の指図である。川上貢新訂、p.81でこの指図を見てびっくりした。寝殿の母屋を二分する並戸がある。寝殿が存在せず三間四面卯酉屋がその代役を務めていた近衛殿ではない。ここはこのとき後伏見院の院御所である。母屋を分かつ並戸があるということは三間四面で孫庇のない小さな寝殿だったのかと。

寝殿造・常磐井殿


図A、『公衡公記』延慶4年(1311)2月23日

その姫宮の産所の室礼の指図が同じ『公衡公記』「御産愚記第四」延慶4年(1311)2月23日条にあるが、図書館でこれを見つけてさらに度肝を抜かれた。母屋を分かつ並戸があるのに、その北は梁間三間、つまり分かった母屋の北の北庇は、孫庇を吸収して梁間二間あるのである。川上貢先生の博論の主張は間違いじゃないか、と突っ込みを入れたくなるが、こういうのを「弘法も筆の誤り」というのだろう。だいたい私も先生の新訂版・補論の追記で知ったので偉そうなことは云えない。それに並戸は母屋を分割しりということよりも、日常生活空間、つまりケ(褻)の空間とハレの空間を仕切ることこそ本質という川上貢の主張は、この図を見たあとでも正しいと思う。しかしこの指図にはこれまではっきりしなかった情報がテンコ盛りである。

寝殿造・常磐井殿


図B、『門葉記』文保3年(1319)3月29日の指図

その間に建て替えなどの記録は無いにもかかわらず、指図の間取りは一致しない。前者の指図の関心は寝殿の仏事室礼で、中門や西公卿座と二棟廊は寝殿のおおよその位置関係を示すに過ぎないと見なし、寝殿以外はそちらの情報を採用するとこのような平面図になる。

寝殿造・常磐井殿

図C、『花園天皇宸記』、正慶元年(1332)11月12日条

花園天皇宸記』にある正慶元年(1332)11月12日の広義門院後伏見院后)公卿淵酔事の図である。一時期ここに住んだ花園天皇が書いたもの。

寝殿造・常磐井殿

なお同記正慶2年(1333)11月2日条に「経二棟並寝殿南面〔庇御簾垂之〕、入御同北面、即入御女院御方、漸及晩頭之間、采女参候之由申之、仍於寝殿東面〔仮為台盤所〕召采女、有御間答、関白候妻戸外〔透渡殿也〕、采女候簀子」とあり、寝殿北面に女院の常御所が、東面に台盤所が設けられていたことがわかる。


図D、信用出来る指図を重ねると

『門葉記』の指図の記者の関心は寝殿の道場に集中しているようで、中門廊から寝殿まではおおよその経路を示したに過ぎないように見える。良い例が三期のこの『門葉記』指図この推定図を見比べて欲しい。また『門葉記』の本文とも一致しないようである。『花園天皇宸記』にある正慶元年(1332)の広義門院・公卿淵酔事の図は一時期ここに住んだ花園天皇が書いたものであるにも関わらず、間数が一致しない。それが本当なら、記録に残らない被災・再建があったのではないかと思うぐらいである。それに対して『公衡公記』延慶4年(1311)の「延慶御産愚記」の記述と指図は実に詳細であり、西園寺公衡はこのとき姫宮を出産した広義門院の父で、左大臣としてこの院御所に執務室(直廬)を持ち、産所等の室礼を指揮しているので信頼性は高いと思う。その二つの指図は矛盾なく重なる。その間50日なので建て替えなどあり得ない。そこでその二つの指図を重ねた図によって第三期との比較をしてみよう。

寝殿造・常磐井殿

それにしても、この寝殿は結局桁行・梁行とも五間の真四角ということになる。まるで室町時代の寝殿だ。いったい屋根の小屋組はどうなっているんだろう。といっても、母屋庇の普通の構造に孫庇が増えただけではあるのだが。

三期と違うところ

  1. まず寝殿であるが、図Bの『門葉記』指図の道場は三期の正応4年(1291)3月18日の指図と同じく、寝殿の西から五間、南から三間を用いている。 ところが正応4年(1291)のときは御聴聞所が道場の東にあったが、四期の『門葉記』指図Bのでは北である。更に南階の位置と南庇の東西両妻戸からすると寝殿の桁行は七間から五間に変わっている。『門葉記』の指図から得られるのはその確認だけである。
    三期では北庇に孫庇が付いているかどうかは解らなかった。ただ、先の「休廬」の室礼のシュミレーションでの感じでは、孫庇無しの北庇梁行一間では常御所を設えるのは難しいだろうと思う。常御所が母屋にあった時代とか、藤原定家のように中下級の公卿ならともかく、ここは院御所である。その点が『公衡公記』2月の指図Aで北庇が梁行二間であることがはっきりした。
  2. 二棟廊とその弘庇の寝殿への取り付きが三期より一間北にずれている。
  3. 中門や車宿、おそらく殿上と書かれた侍廊も焼失前と同じ位置に建てるだろう。ただ西対代は指図等から見ると弘庇も加えて梁間二間しか描かれていない。三期の推定図では弘庇を加えると梁間三間あった。
  4. 二棟廊はおそらく公卿座の西壁の位置まで伸びていただろう。准母・広義門院公卿淵酔事、つまり広義門院主催のディナーパーティのようなものだが、指図Cの公卿座の北に女院の帳があることなどから川上貢もそう推測する。ただし、次ぎの点にも絡むのだが、そのとき広義門院が居たのが二棟廊西端だったかどうかは『公衡公記』4月の指図@からは疑問である。
  5. 公卿座は東西一間、南北三間で、その東と南に弘庇が付く。広義門院公卿淵酔事では公卿座南北三間では席が足りないので、南の弘庇まで席を伸ばしている。『公衡公記』延慶4年4月の指図でも南は弘庇である。それは符合する。しかし『公衡公記』延慶4年4月の指図では二棟廊との間にあと一間ある。その一間と公卿座の間は妻戸である。広義門院公卿淵酔事の指図Cのときに広義門院の座だったのはこの一間だったのではないだろうか。『花園天皇宸記』と『公衡公記』の指図ではやはり『公衡公記』を取りたい。
  6. 中門廊の長さについては『公衡公記』の指図@でに柱が書かれていないが、火災にあっても正門の位置と侍廊、車宿などの位置は変わらないと想定する と、『花園天皇宸記』の指図Cと同じ二間となる。弘庇分を加えると三間だが。殿上(侍廊)の位置は北中門廊の南端から少なくとも四間以上離れていないと朝観行幸に支障が出るだろう。院御所なのだから。


『公衡公記』の二つの指図を個別に

まず2月23日条分。
  • 『実躬卿記』嘉元3年(1305)5月17日条に寝殿東の東透渡殿が出てきたが、それが寝殿の北から出ているのか、南からかは分からなかった。しかし『公衡公記』の指図Aには南側であることがはっきりと示されている。指図には三間にか描かれていないが、五間以上はあることが『実躬卿記』により知られることは先述の通りである。
  • 次ぎに寝殿と二棟廊の重なる位置から、北に子午屋(南北棟)が延びているように見える。その梁行は三間以上、へたをすれば五間かもしれない。これはいったい何だろう。寝殿が三期の桁行七間から五間に減ったのは、常御所の独立とか、小御所への分散などがあったからだろうか、などとつい想像してしまう。
  • 更に寝殿北東に二間の突き出しがある。まだ2月23日条の本文を詳しくは読んでいないのだが、この位置ならおそらく、湯屋ではないかと思う。 
次ぎに4月14日条分。
  • 建具の位置が変わっているところが何カ所かある。室内の遣戸障子(襖)を室礼に応じて撤去することはこれまでも良く見てきたが、ここでは寝殿南西の両開きの妻戸まで「扉撤之」とある。リフォームではなく、たった一日の儀式のためにそれを行っている。寝殿造の建具は全てが可動パーティションだと思い知らされる記述である。
  • 二棟廊の南(母屋)の東三間に「女院台盤所」とある。女院というともう年寄りに見えるが、姫宮を生んだ後伏見上皇の女御・西園寺寧子は、延慶元年(1308年)に後伏見上皇は弟の富仁親王を猶子とした上で、花園天皇として即位させことで、寧子は花園天皇の准母とされ、院号(広義門院)の宣下を受けている。従ってこの「女院台盤所」は二十歳になるかならないかの若い広義門院の台盤所、女官の侍所で良いと思う。ただ、広義門院が常日頃寝殿に住んでいたのか、それとも出産のために寝殿に場所を移したのかは分からない。2月23日条「先以寝殿北面篤御産御座〔日遊在庇間、儲御座於母屋〔帳台前為其所〕〕」の「日遊」の読み方によるだろう。
  • 西対代が「日来公卿座」(指図@では公卿座)として南北三間に描かれ、その東側と南側が弘庇のように描かれている。それは新しい情報ではないのだが、その「公卿座」と二棟廊の西側とのあいだ、ちょうど二棟廊の南弘庇の西に当たる一間(図ではオレンジ)が挟まっており、公卿座からは妻戸で、二棟廊側には遣戸が描かれている。この一間分が後の広義門院の公卿淵酔事の指図Cとずれてくるのは先に述べた通りである。

構成

この期間に記録に表れるのは以下のものである。

  • 寝殿、二棟廊、公卿座、西中門、
    東透渡殿、東中門、泉亭

ただし、正門、北門、殿上(侍廊)、随身所、車宿は必ずある。念誦堂もおそらくあっただろう。


敷地内での配置

上に図示したのは御産の室礼もあるため寝殿の北庇の間取りが判明した珍しい例であるが、しかし寝殿造全体ではあくまでハレの部分が中心であり、この御所の全容ではない。常盤井殿は方一町の御所のはずだが、第二期から四期まで正門の位置は同じと仮定して重ね合わせると、上記指図の範囲は東透渡殿以外は南西の1/4町に収まってしまう。下の図ではグレーが上記指図に描かれた範囲である。そして黄色が東中門廊に泉亭である。東中門廊に泉亭があれば、東殿上(侍廊)もあっただろう。

後のページになるが亀山殿の弘御所でも弘御所での和歌会で、殿上人の祗候する場として「厩上」を割り当てている。

もちろん東透渡殿が南から延びるのか北側から伸びるのかも、泉殿の大きさも判らない。しかしそれを加えてもまだ南西に偏り過ぎである。北に北対や雑舎を考慮しても面積は1/2町ぐらいにしかならない。そしてこの御所には舟を浮かべられる池がある。

御所の位置は京極大路の東で、大炊御門大路の北、敷地の北には春日小路ということになるが、洛中の碁盤の目の場所から外れるので、実際の道は西に京極大路、南に大炊御門大路の延長分しか無かったのではなかろうか。そして北東は湿地か池だったとか、それ故に東の御所は泉殿・泉亭と呼ばれたとか。東中門を出ると、その先の門は、右に曲って、御所の南面・大炊御門大路に開いていたのではないか。

 寝殿造・常磐井殿

そう云えば両方とも東に鴨川がある。「常盤井」という名前からして、わき水が常に絶えないという意味である。藤原定家の寝殿が敷地の南に偏っているのは北が一尺ほど低く、梅雨時に鴨川の氾濫で被害を受けたこともあったためらしいし(『明月記』 嘉禄2年6月4日条、葛田盟児、「藤原定家一条京極邸の建築配置について」)。定家の屋敷も京極大路の東側ですぐ近くだ。

すると、その池が一番在りそうなのは北東だろう。ならば泉殿の位置もうまく収まる。敷地の北側と東側は地面が低くて、それとは逆の、地面が高く水害を受けにくい南西に建物を集中させたのではないだろうか。藤原定家の一条京極邸のようにである。あそこは南北で一尺の高低差があったという。



初稿 2016.10.15