寝殿造 7.4.3    足利義持の三条坊門殿     2016.11.28

足利義持 

足利義持は9歳で義満のあとの征夷大将軍となったが、当然のことながら実権は義満がもっていた。足利義持が実際に四代将軍として活動を始めるのは応永15年(1408)に義満が死んで以降である。その弟で六代将軍となった義教の方が目立つために一般には印象が薄いが、真偽のほどはともかく、皇位簒奪まで噂された義満の路線を修正し、義満が明との間に開いた交易のための冊封関係も消滅させている。

応永17年(1410年)11月には南朝最後の天皇だった後亀山上皇が吉野へ出奔を契機に雌伏していた各地の南朝系の勢力が蜂起するなど、南北朝時代の余韻はまだ残っていた。その余韻は応仁の乱の頃までくすぶり続ける。

上杉禅秀の乱では鎌倉公方の持氏を助けて上杉禅秀を打つが、その後の鎌倉公方持氏の対応から険悪となり、持氏が起請文を差し出してやっと収まるという一コマもあった。この火だねはその後もくすぶり続け、義持の死後、永享の乱享徳の乱となり関東地方における戦国時代の遠因となった。京では父義満に溺愛されていたとも噂される弟足利義嗣を殺害させるなどする一方で、守護大名の調整役として機敏に立ち回り、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。しかし応永30年(1423)に将軍職を譲った子の足利義量は19歳(満17歳)で早死にし、応永35年(1428)に後継を決めないまま死去。次ぎの将軍は重臣が籤で決めるという事態となった。ざっとまとめると、義持はこういう時代の将軍である。

三条坊門殿

応永15年(1408)に義満が死んでからは、一時期北山殿を御所としたが、翌16年(1409)、かつて義詮義満が住んでいた三条坊門の旧御所地に新邸を造立している。

  • 場所は三条坊門南、姉小路北、万里小路東、富小路西の方一町。
    西面の万里小路を晴とした西礼の屋敷である。

判明している殿舎の構成は以下の通り。

  • 寝殿、西中門、西中門廊、公卿座、殿上、随身所、車宿、
  • 小御所、泉殿、会所、九間対屋、台所、七間厩、
  • 観音殿、持仏堂、
  • 四脚門、唐門、上土門

指図は『永享二年普広院殿拝賀記』に、拝賀当日の御所出立の行列次第を示したものがひとつあるだけで、寝殿の平面や、屋敷内の殿舎の配置は図に出来ない。しかし方一町の敷地に主要殿舎として寝殿、小御所、観音殿に会所が二つも入っている。おそらく池はあっても舟を浮かべるような池ではあるまい。会所も比較的こじんまりしていたのではないだろうか。会所に庭も付いているのだから。

なお、この御所は義教にひきつがれたが、永享3年(1431)に義教は室町殿地(上御所)に新邸を造立し、この御所の施設は壊され分散してしまった。そこで義持がつくった三条坊門殿の存続期間は応永16年(1408)より永享3年(1431)までの20年強である。

寝殿

応永18年11月28日の義持任内大臣拝賀の記録『室町殿内大臣右大将拝賀次第』に寝殿の装束がみられる。

其儀南庇五ヶ間、西四ヶ間丼広庇中門廊敷満弘筵、母屋東北懸御簾垂之、西南間御簾巻之、副東北御簾、立亘和絵(大脱ヵ)四尺屏風、西第四間副奥敷高麗帖、為主人御座〔無対座〕、同西三ケ間副端敷同帖、同東第一間為打出間、立几帳出衣、中門廊副西壁敷紫端帖二枚、為諸大夫座、常公卿座御簾垂之、御車宿随身所前引幔(下略)

寝殿の西四ヶ間が公卿座らしい。応永19年9月27日に後小松院がここに行幸になったときの装束では以下の通りで南庇は五ヶ間であるので三間四面の寝殿と思われる。

寝殿五ヶ間廟御簾悉垂之、母屋御簾悉上之、敷繧繝畳二帖於母屋〔階間頗寄端〕、耕一明朗公卿座御簾上之、(下略)

義満の北山殿よりは小さい。屋内の間取や建異については不明。

ただ、義持の死のあとだが、『建内記』に永享元年(1429)3月9日の義教元服儀式、同月15日に将軍宣下の宣旨御覧の儀式、3月30日に、義教の権大納言昇進の祝儀が載る。その中に「御髪所」と号する寝殿艮(ごん、うしとら:北東)隅の座敷や良く出てくる。義教の元服はそこでおこなわれた。将軍宣下の宣旨御覧の儀式、権大納言昇進の除書の御覧の儀式もそこである。宮中から届けられた除書は、中門廊から寝殿南簀子を経由して、寝殿東面南第一間の妻戸を入り御髪所へ持参されている。よく判らないが出居のようなものか。しかし西礼の屋敷なので寝殿のもっとも私的な場所ということになるが。

この当時はまだ寝殿がその屋敷の主人の住まいだったように見える。また、寝殿は公家的行事における儀場として重要な空間的役割をもっていたが、その他の用法としては、院の公式な御幸のときに寝殿をその接待座敷に装束している。次ぎに伏見宮の訪問が出てくるが、そちらは私的な訪問だったのだろう。

『兼宣公記』 応永19年(1412)9月27日条、後小松院御幸始の記事によると、牛車に乗ったまま西中門を入り、寝殿南階に車をよせ、南階より昇殿入御している。寝殿の主人である将軍も、拝賀などの儀式的行事の場合には中門廊でなく、寝殿の南階より下りたりするのは平安時代と変わらない。

会所

その御覧ののち祝宴が同所であり、次に将軍と参賀の訪間者との対面が会所で行なわれる。管領以下の武家大名との対面は会所の北面であり、前関白、摂政以下の公卿衆との対面は会所南面で行なわれ、参列者により対面座敷が異なっている。

次の室町殿での話だが、永享3年(1431)12月11日に室町殿へ移徒があり、常御在所にて諸大名と昵懇の公卿衆と参賀の対面があり、翌日も御髪所で御祝、常御在所で諸大名と盃事が行なわれている。常御在所は常御所、常居所のようなものか。室町殿の会所の造立はおそく、翌年2月に立柱上棟していて、それまでは常御在所が会所の代わりをしていた。このあたりは平安時代とはだいぶ違っていて良く判らない。逆に云うと、対面と祝宴、盃事が増えているような気がする。それが会所成立の理由だろう。

西礼の三条坊門殿では会所は寝殿の東方に所在していて奥向の性格ということになる。三条坊門殿には会所は二ケ所あり、二つ目は永享元年(1429)に新造され、11月13日に移徒が行なわれている。もう一つはそれ以前からあり、新造会所は奥御会所、以前からの会所は東御会所、または端御会所と呼ばれている。

『看間日記』永享3年(1431)2月7日条に、後花園天皇の父・伏見殿貞成親王がこの御所を訪れたときの記録がある。このときは義持は既に亡く、弟の義教が将軍でこの屋敷の主だった。

自中門沓脱昇、公卿座着座、勧修寺参之由申入、御宮筥折紙持参、中納言帰参、御会所へ可参之由申相伴参〔三位行資中門留候〕。会所広庇ニ室町殿被待儲、気色之後予入内、端方着座、主人猶奥へと被申。(中略)勧修寺広庇に祗候、御会所己下山水等可有御一覧之由伺申。(中略)奥御会所〔此所儲一献〕、常御方観音殿御厩〔馬三匹立、近習遁世物済々候〕、所々見廻、凡会所〔奥端両所〕以下荘厳置物宝物等驚目、山水殊勝非言語所覃、極楽世界荘厳も如此歟。(中略)奥御会所ニ参、於此所可有一献也。

まず、会所は奥向の場所で、取次がなければ通ることが許されない施設であった。また伏見殿の場合でも、その随臣の立入をみとめられなかった。公卿座にも入らず中門廊に留まっている。三位の公卿なのだが。なおここで「中門」というのは中門廊のことである。時の天皇の父なのだが、伏見宮は義持や義教に何度も助けられており、その子が天皇になれたのも義教のおかげである。

上記引用では省略されているが、このとき寝殿を通って会所へ入っており、会所が寝殿の東側にあったことがここでも裏付けされる。観音殿とともに「御厩」も見物している。「会所〔奥端両所〕」とあるので新旧両方の会所を見物したということだろう。「山水」は山水画ではなく庭のたたずまいだろう。相当に趣向を凝らし、また「荘厳置物宝物」で座敷が飾られていたようである。鎌倉時代の弘御所でも多少そうした傾向が見られたが、おそらく義満以来の明とこ交易で入手した青磁や絵画(掛け軸)が並べられていたようである。なおこの当時の並べ方は後のお茶室とは異なり、まるでギャラリーの展示のような並べ方だったらしい。この当時としては贅の限りを尽くしていたのだろうが、後の聚楽第や二条城大広間と比べれば、だいぶ質素に見えるだろう。

平安時代には臣下の屋敷を里内裏に使うことはしょっちゅうだったが、方違えとか、花山院のように密密に女の元へ通うのは別にして、上位の者が下位のものの屋敷を訪れることはあまり無い。しかし室町時代になると、形式上の上位が実質的には上位でなくなったためか、よくそういうことがある。鎌倉時代と異なり、京に屋敷を構えた室町将軍が、天皇や上皇を招待することが、自身を権威づけるセレモニーになっていたのかもしれない。


公卿座・殿上(侍廊)

『満済准后日記』正長元年(1428)1月21日の記事に、「中壇壇所公卿座云々。殿上東半分相兼云々」とあって公卿座と殿上(侍廊)は造合をはさんで東西行に繋がり、公卿座は殿上(侍廊)の東方に位置している。公卿座は南面に広庇をもつ二棟廊で、寝殿の西面に接続し、西端南面に中門廊、西に造合を介して殿上廊に繋がっていたと川上貢は書く(p.356)。その理由は分からないが引用していない部分に書かれていたのだろう。

この公卿座は室町殿に伺候する僧俗の訪間客の控室で、将軍との対面を奥へ取次いでもらったり、儀式の時間待ちをするのに使用されている。同記の正長2年(1429)3月11日条に、室町殿(義教)の元服参賀についてこうある。

僧俗着公卿座也。北頬南面東上聖護院准后着。其次予。・・・(中略)・・・、次第着座。花頂僧正。随心院僧正。竹内僧正。以上三人不着座。中門廊ニ停(佇)立。公卿座南頬東上北面ニ二条摂政。一条右大臣。近衛内大臣以上三人着座。九条前関白。三条前右大臣。久我大将以下殿上ノ造合ニ徘徊。九条前関白ハ中門廊ニ停立也。当時位次摂政の上首也。尤可着公卿座処。摂政早参シテ被坐上間。九条前関白着座無之歟。

「北頬南面」とか「南頬東上北面」とは、二棟廊の北の区画の南側とか、南の区画の北側の意味だろうか。二棟廊の中央に寝殿側を向いて立っているイメージで、「頬」とは顔の頬で、二棟廊は真ん中の柱列で南北ふたつのエリアに分けられ、通常南が母屋、北が庇である。二棟廊が入母屋な訳はないので、入れ子状の母屋・庇の意味ではなく、用法での母屋・庇である。つまり母屋、「南頬」の方が上座とか? 着席した面子を見ると「二条摂政。一条右大臣。近衛内大臣以上三人」と官位はトップクラスである。しかし先に来た大臣以上の三人の座ったら「九条前関白。三条前右大臣」、つまり内大臣より偉い二人の席が無くなってしまったということは、梁行は二間でも、桁行はさほど広くは無かったということか。

参賀者の多く群集した場合に、公卿座に着することができたのは位階・格の上級者にかぎられ、それ以下の人々は殿上造合か中門廊がその座にあてられたことを示している。公卿座へは西中門の沓脱を登り西中門廊を経て、廊北の妻戸より入るのが通例であった。


殿上(侍廊)

『満済准后日記』 応永34年(1427)6月14日に殿上(侍廊)は「壇所事。中壇殿上東限布障子構之。降壇布障子ヨリ西二ヶ間構之」とあって「障子ヨリ西二ヶ間」なら障子西は最低でも三間はあり、障子東も二ヶ間はあるはずである。殿上(侍廊)は五間以上だろう。平安時代の侍廊と構造は変わっていない。

小御所

小御所は『満済准后日記』の応永31年(1424)8月23日条に、

自今日於御方御所御座所、不動小法勤仕、伴僧六口、(中略)壇所殿上、毎夜〔初度夜〕自殿上廻北築垣、東門ヨリ参堂。

とあって、足利義持の子・足利義量の居所であった。義量が 応永32年(1425)2月27日に若くして死んだあと、小御所は義持夫人(大方殿)の居所となる。その位置は『満済准后日記』正長2年(1429)正月8日条によっておおよそ推定できる。

次参大方殿、自東向〔上土門〕参入、仍自西唐門〔御台御座前〕乗車了、其路次御所北築垣外也

『看聞日記』永享7年(1435)5月6日条にこうある。三条坊門殿が解体されてゆく一コマである。

親豊参。関白被進御所ハ下御所ノ小御所〔大方殿御方〕、非寝殿云々。来月可被引渡之由有沙汰。寝殿ニ可被作之由被申云々。

小御所は関白二条持基邸に譲渡される。寝殿ではないが、寝殿に利用できうる建物だったようである。しかし室町時代の漢文にはだいぶカナが混じってくる。


初稿 2016.11.28