銭洗弁天お帰り編.1 銭洗い弁天から源氏山へ

銭洗い弁天のトンネル出口から坂を登り、道成に右に行くと「この付近で見かける野鳥」の説明図の処を車道を離れ右へ曲がるとすぐに化粧坂があります。

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初めての方は途中まで下りて、ちょうど下の写真の突き当たりぐらいで下界?が見えますので納得したらまた引き返してくるのも良いでしょう。


化粧坂を左に見ながら、右を見るとほんの10mですが急な坂が。その上が所謂「源氏山公園」ですね。頼朝の銅像のあるところです。日当たりが良いので皆さん芝生の上でお弁当を広げています。上の画像は振り返って見たところ。

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更に進むとちょっと坂を下り、またちょっと登ったところにトイレがあるのですが、そこを右に曲がります。真っ直ぐ行っても良いのですが、それでは本当の源氏山には行けません。
真っ直ぐ行く方はこちらにジャンプしてください。

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その小径の突き当たり、Uターンカーブの処に、緩やかな階段の山道がはじまります。

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それを登った先が源氏山の頂上? です。たいした高さではないですがね。
先の地図では「13 源氏山」とあるところ。

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源氏山は他に白旗山とか旗立山と呼ばれてますが今はそんな話を知っているのは歴史好きな人だけでしょう。その謂われは「後三年の役」のときに八幡太郎義家が山頂に白旗を立てて戦勝を祈ったという説、白旗を立てて相模の武士の結集の目印にしたと言う説、はては後三年の役ではなくて義家の父、頼義の「前九年の役」だとか諸説さまざま。
まあ後世に作られた伝承でしょう。平安時代の文献にはそんな話はどこにもありません。

ただし、鎌倉を出撃拠点としたとしたと言うこと自体には根拠があります。この鎌倉近辺は鉄の産地で、武器弾薬(って矢だけど)の生産地だったと見られています。鎌倉の「鎌」は「鉄」の意味かと。またこの地は将門を亡ぼした平貞盛の孫で、平氏嫡流とも言える維時の拠点であり、その子平直方が相模守となった源頼義に娘を嫁がせ、義家が生まれたときにこの鎌倉の領地を源頼義に譲っています。と言っても源頼義もその子義家も河内を本拠地として京に勤務していた軍事貴族ですのでここに住んだ訳ではないのですが。


わざと紅葉を植えるなどしていない比較的自然なエリアである意味落ち着けるところですね。

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その奥に行くと下りの階段があります。このコースは逆はお薦めしません。
こっちの階段は下るには良いですが、登るのはなかなか大変。

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