銭洗弁天お帰り編.4 御成小学校 |
その小径で御成小学校(地図はこちら)沿いにT字路へ出たら左を見てください。昭和8年の古い校舎です。 鎌倉御用邸御成小学校のサイトによると・・・ 学校は鎌倉市役所に隣接し、御成山を背に緑豊かな自然に恵まれ、落ち着いた環境の中にあります。校地は、鎌倉御用邸跡地で約33,000平方メートルの広さがあり、 えっ! 鎌倉御用邸と言うのは知らなかった! こちらが御成門。御成門と言うのは御用邸だった頃の正門だったのでしょう。私は「御成」は鎌倉時代からの名前かと思っていました。違うのね。御成門の門札は高浜虚子の書をもとに彫ったものだそうです。 そして奈良・平安初期の郡衙跡更に御成小学校のサイトによると・・・ 校庭からは、室町・鎌倉期ばかりでなく古代遺跡も発掘されています。 古代遺跡と言うのは奈良時代から平安初期にかけての郡衙(ぐんが:今小路西遺跡)ですね。大がかりな柱穴群が発掘され、天平時代の付札木簡も出土しています。 郡衙と言うのは今で言う市役所とか、市の税務署ですね。税務署と言う意味では古くは「評衛」とも言います。律令制と言うと男はこんだけ、女はこんだけ田畑を与えるぞ、なんて全国一律な古代共産主義?みたいなイメージが強いですが、まあ、建前みたいなもので実際には各地に豪族が居て、それら豪族を世襲制の郡司として遇していました。郡衙は豪族=郡司の館を転用したりしていましたから、この地にもそうした豪族が居たのであろうとも。 奈良時代平安時代の鎌倉郡は現在の鎌倉市より大きく、栄区や戸塚区あたりまでを含んでいました。その租と調がここに集められ、そこから県庁に相当する国衙(くにが:国府とも)に送られます。そのときの荷札(木簡)が別の場所から発掘されたことから、当時の国府はこのへんだったのでは? なんて議論がまき起こったりと神奈川県の古代史の中でもなにかと有名なところです。 |