鎌倉の秋2006.1105  龍隠庵からの円覚寺 

龍隠庵への小径

ここは選仏場と居士林の間の小径です。正面はナナカマドだったかな? 所々色づいて秋の風情です、

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そこを左に進むと龍隠庵なのですが、おや、今日は『河上知明「灯りとひびき」展』なんてやってるみたいです。ちょっと行ってみましょう。

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 これは龍隠庵への小径から選仏場を振り返ったところ。茅葺きの屋根は良いですねぇ。

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実は先月のこの写真は龍隠庵への小径だったのです。これも振り返ったところですが。

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実は龍隠庵は奥まっているので、入ってはいけないのかと思い、途中の階段から写真を撮るだけで引き返していて

松嶺院を出て選仏場の脇をお隣へ。ここから選仏場の藁葺き屋根。そして三門の屋根を見る光景は私は好きです。普段はここまでは上がれないかもしれませんが、何故か私が来るときには結界が解かれています。

なんて書いていたんですが、いつも結界は張られていなかったのかもしれません。

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いや、怒られるかもと思って龍隠庵の名前は出さなかったのですが。フキフキ "A^^;

龍隠庵の歴史

さて、この龍隠庵ですが、「鎌倉の寺小辞典」によると、1419年(応永26)頃、円覚寺102世大雅省音の塔頭として長尾忠政の庇護のもとに開創されたそうです。

長尾氏と言うのは上杉謙信の出た一族で上杉謙信と言うと越後なのですが、元々は平安時代の後三年の役にも登場した鎌倉権五郎景政の一族で、大庭氏、梶原氏とともに坂東八平氏の一つです。鎌倉で相模国鎌倉郡長尾郷を領したことから長尾を名乗りました。鎌倉時代には不遇だったのですが、室町時代には関東管領上杉氏に仕えて歴史の表舞台に登場します。
長尾忠政は上野国惣社長尾氏の当主で武蔵守護代をつとめ山内上杉家の執事職も兼帯しました。執事職は家宰とも称されて家臣の最高位、要するに家老みたいなものです。自身が大名みたいなものですから江戸時代の家老よりもずっと独立性は高いです。そういう実力者ですからスポンサーになれたのでしょう。
当初は龍隠軒と称して円覚寺・宝珠院内のにあったそうですが、宝珠院が衰退して龍隠軒のみが残ったそうです。禅興寺が廃れて廃寺になり、その禅興寺の塔頭で関東管領上杉氏が大旦那であった明月院のみが残ったようなものですね。

長尾忠政から3代目? あるいは4代目かの子孫長尾顕忠は山内上杉顕定に仕えていましたが、永正6年(1509)に亡くなり、同年、妻の幸春尼が亡き夫の菩提を弔うために本領のうちから土地を寄進し、円覚寺に塔頭・龍隠軒を建立(再建)したとあります。(これは長尾氏側の資料)

越後長尾氏は長尾忠政よりも前に分かれた一族ですが、その越後の長尾景虎が関東に進出し、小田原の後北条氏と戦ったときに鎌倉に来て、そこで上杉氏から家督を譲られたんだったと思います。長尾顕忠の子と孫は上杉謙信(長尾景虎)の家臣になっています。

それはともかく、その後龍隠庵の場所は度々移転し、現在の住職のときに此処にうつったとか。

龍隠庵のお庭

先に書いた通りこちらには入ってはいけないのかと思い、途中の階段から写真を撮るだけで引き返していて、ここまで上がったことは無かったのですが、この雰囲気はいつも入って良かったんでしょうか?

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お庭にはポットにお茶の用意までありました。早速頂くことに。

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階段の途中からの景色も良かったのですが、こちらのお庭から見る円覚寺の景色はなかなかです。

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龍隠庵からの景色

 もうちょっと近寄ってみましょう。

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選仏場の茅葺き屋根とその向こうは仏殿ですね。

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右には三門の銅葺きの屋根が見えます。

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手前が松嶺院ですね。先月お邪魔させて頂きました。


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でもまだ続きます