奈良平安期の寺社   鎌倉権五郎神社

五霊社鎌倉権五郎景政

由比ヶ浜から極楽寺へ向かう道のちょうどこの「力餅家」あたりから先は奈良時代からの旧東海道だったのかもしれません。この写真の左端あたりから先が極楽寺坂切通し、それを越えると極楽寺です。そしてこの「力餅家」の前に見える石碑?には「五霊社鎌倉権五郎景政」とあり、この角を右に入ると御霊神社(鎌倉権五郎神社)があります。

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この鎌倉権五郎神社の面白いのは石段を登ると江ノ電の踏切なこと。(笑)
実際、江ノ電は民家の軒先を通過して、その家には線路を渡って玄関に入るなんてお宅が結構あったりします。なんかこれ以上ローカルな電車があるか! って感じで。

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これはその踏切から左を。あのトンネルの向こうが極楽寺の液になります。

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御霊神社の由来と歴史

そしてこちらが拝殿。

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一説には平良兼の孫、村岡五郎忠通という人の子に為道、影成、影村、影道、影正の5人があり、忠通の死後、その五家が栄えるようにと鎌倉に社を建て忠通と五家の祖先をまつり、五霊の神と言われたとか。五家とは鎌倉、梶原、村岡、長尾、大庭の五平氏とも言われます。もちろんそうも伝えられると言うだけで確かなことは解りません。特に平良兼の子孫なのかどうかは。良文流との説も強いです。

江の島・鎌倉七福神巡りの一つで、こちらは「福禄寿」。

御霊信仰

御霊神社というのは、恐ろしいもの、あるいは土地の神として祖先を祀る神社のことで鎌倉では権五郎景政を祀るもの。それもここだけではなくて梶原の方にも藤沢の村岡にもあります。御霊信仰は鶴ヶ岡八幡で触れた若宮同様に、平安時代の民間信仰のひとつの形であり、このページに良くまとまっています。五霊は後からもじったものでしょう。

御霊信仰は,祖霊および祖霊信仰と表裏一体の関係にあり,前者の祖霊・祖霊信仰が人々の願望するところの正常なものであるのに対し,後者の御霊はむしろ人々が避ける異常な霊魂といえる。しかし表裏一体の関係にある祖霊と御霊とは,古代以来今日にいたるまで認めることができ,日本人の霊魂観を端的に示しているといえよう。 御霊 ごりょう

鎌倉党と鎌倉権五郎平景政

神社に掲げられている由緒にはこうあります。

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ネット上ではこちらのサイトはとても勉強になるサイトなのですが・・・・

鎌倉権五郎景政は鎌倉党の共通の先祖として、更にそれを遡ること源頼光の四天王の一人である村岡五郎忠通という人がいて、鎌倉党が源頼光以来の源氏の家人であったことが想像されます。景政の父は鎌倉権守景成で鎌倉に住し、鎌倉党武士団を率いる一方現在の湘南地域一帯を開拓し開発した領主でもあります。御霊神社と鎌倉権五郎景政

「源頼光の四天王」と呼ばれたのは鎌倉後期から室町時代にかけて渡辺綱が割り込んで以降で、平安時代に認識されていたのは3人です。その一人に平貞道が居ますがそのことでしょうか? 平貞道は有名な人で、今昔物語に3回ぐらいは出てきますね。
野口実氏の研究によると平良文の子で、三浦氏の祖とされています。こちらの常山紀談では村岡五郎忠通は鎮守府将軍平良兼四代の孫、左衛門尉致経の二男と。

まあこの時代のことは確たる証拠が少なく、ほとんどが「推理」に近いのですが。左衛門尉致経は伊勢国桑名の所領を藤原頼通に寄進して益田荘とし、そのあたりを経済基盤としながら所謂伊勢平氏と度重なる合戦をしています。その子が相模国に勢力を持てたかなぁ。まああり得ないとは言えませんが。

いずれにせよ「鎌倉党が源頼光以来の源氏の家人」と言う想像は近年の歴史の研究からは捨て去った方が良いと思います。そもそも「家人」と言う概念自体が良く思われているイメージと実体とに大きな差があります。またそれでは『天養記(官宣旨案)』に発見された大庭御厨の濫妨も説明出来なくなります。

鎌倉権五郎平景政と後三年の役

 御霊神社の由緒 (神奈川県神社庁:神社検索)

当社の創立については定かではないが、御霊信仰の思想と鎌倉地方開発の跡を考え合わせると、平安末期には存立していたものと思われます。(文博中村孝也氏説)
 祭神景政公は桓武天皇(五○代)の末裔、平氏一門で、時代的には源頼朝公開府より九十余年あまり此の地方一円の領主でありました。当時関東には大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉の所謂関東平氏五家が割拠しており、その五家の先祖を祭る五霊神社が先ず建てられ、その五霊が同音である御霊に変わり、当社の場合祭神も五家の祖霊から武勇の誉れ高い領主景政公一柱にいつしか変わり、権五郎神社と俗称せられるようになったと思われます。

「相模の国の住人鎌倉の権五郎景正」は「三浦の平太為次」とともに「奥州後三年記」に出てきます。1086年の出羽国金沢柵の戦いでのことです。この「奥州後三年記」で平景政は一躍有名人となります。

前陣の軍すでにせめよりてたヽかふ。城中よばひ振て矢の下る事雨のごとし。将軍のつはもの疵をかうぶるものはなはだし。
相模の国の住人鎌倉の権五郎景正といふ者あり。先祖より聞えたかきつはものなり。年わづかに十六歳にして大軍の前にありて命をすてヽたヽかう間に、征矢にて右の目を射させつ。首を射つらぬきてかぶとの鉢付の板に射付られぬ。矢をおりかけて当の矢を射て敵を射とりつ。さてのちしりぞき帰りてかぶとをぬぎて、景正手負にたりとてのけざまにふしぬ。
同国のつはもの三浦の平太為次といふものあり。これも聞えたかき者なり。
つらぬきをはきながら景正が顔をふまへて矢をぬかんとす。景正ふしながら刀をぬきて、為次がくさずりをとらへてあげざまにつかんとす。為次おどろきて、こはいかに、などかくはするぞといふ。景正がいふやう、弓箭にあたりて死するはつはものののぞむところなり。いかでか生ながら足にてつらをふまるゝ事にあらん。しかじ汝をかたきとしてわれ爰にて死なんといふ。為次舌をまきていふ事なし。
膝をかヾめ顔ををさへて矢をぬきつ。おほくの人是を見聞、景正がかうみやういよいよならびなし。ちからをつくしてせめたヽかふといへども、城おつべきやうなし。

後三年の役については頼朝以前の鎌倉/後三年の役をご参考に。

ただしこの後三年の役は朝廷からは義家の私闘と見なされ、恩賞は無く、それどころかその3年の間に収めるべきであった奥州の税金を請求されます。これが完納されなければ受領(国司)の任務完了とはならず、いわば謹慎状態です。次ぎの受領として任命されることはありません。その間に弟の義綱が院近臣の軍事力の担い手として華々しく活躍します。そして「中右記」には「陸奥の未進の砂金を督促」が何度も出ます。
源義家の功過定(勤務評定)が行われたのは1098(承徳2)正月23日。後三年の役から10年も経って、やっと完納出来たのでしょう。4月2日 正四位下 (中右記)となりやっと弟義綱より官位が上になります。がその間義家は近畿を出ることはなく死ぬまで本拠地の河内国(大阪)に籠もっています。詳細は「源義家の経歴」をご覧ください。

その後義家の河内源氏が関東南部にやってくるのは曾孫で頼朝の父、義朝までありません。京大元木泰雄氏の近年の研究によると、その義朝も源氏の嫡男として来たのではなく、ほとんど廃嫡されて無位無官でやってきます。(『保元平治の乱を読みなおす』)

しかし旧来一般に「鎌倉党が源頼光以来の源氏の家人」と想像されたのはそれなりの訳が有って、頼朝が「関東の侍(各家の長)は八幡太郎義家以来の源氏の家人」との思想宣伝を行っていることに起因するのでしょう。「吾妻鏡」ももちろんそのベースで書かれていますし。しかしそれは頼朝が自分への求心力を高める為の暗示のようなものです。
例えばこれですね。

吾妻鏡 建久6(1195)年11月19日 庚子
相模の国大庭御厨俣野郷の内に大日堂有り。今日田畠を寄進す。未来の際を限り、仏聖燈油料に宛らる。これ故俣野の五郎景久帰敬の梵閣なり。本仏は、則ち権五郎景政在生に、伊勢大神宮の御殿二十年一度造替の時、彼の心御柱を伐り取り、これを造立し奉る。権大僧都頼親の室に於いて開眼供養を遂ぐ。東国衆人を守護し給うべきの由誓願せしめ、これを安置し奉る。仏神の合躰尤も掲焉なり。内外の利生何ぞ疑わんか。
違跡を相伝せしむの処、景久滅亡の後、堂舎漸く傾危に及び、仏像雨露に侵さる。景久の後家尼旦暮この事を愁い、醒めても寝てもその功を思う。三浦の介義澄これを伝え聞き、本より帰仏帰法の志有るに依って、興隆興行の儀を執り申す。而るに景久は反逆者たりと雖も、景政は源家の忠士たるなり。本尊はまた御衣木の濫觴と云い、当伽藍の由緒と云い、誠に檀那の誓約に任せ、専ら柳営の護持せしめ給うかの由御沙汰有り。聊か御奉加に及ぶと。

大庭御厨

「権五郎景政在生に、伊勢大神宮の御殿二十年一度造替の時、彼の心御柱を伐り取り、これを造立し奉る」と前掲の『吾妻鏡』にあるように、権五郎景政は大庭の地を開発し、あるいはその当時の国司と共謀して近隣の公田もまとめあげて名目上伊勢神宮に寄進、所謂「立荘」をして大庭御厨とします。その経緯を、石井進氏の「相模の武士団」(p125-132)から要約してみましょう。

1104〜1106年頃(長治年中)、景政は所領・相模国鵠沼郷一帯を先祖伝来の地として、多数の浮浪人を集めた開発を申請し、相模守藤原宗佐はこれを認め、年限を限って(通常3年)開発地の年貢を免除します。景政は更に免税の恒久化を狙い伊勢神宮への寄進に奔走しますが、後任の相模守藤原盛重は、その任期切れ間際の1116年に、やっとそれを認めます。

そして、検注(検田)により領域も確定し、免税地として国衙と郡衙の文書による正式な承認をうけ、伊勢神宮領・大庭御厨の成立となります。大庭御厨の「御厨」(みくりや)とは天皇家や伊勢神宮の荘園です。この場合は伊勢神宮ですが。そして鎌倉権五郎景政はその下司職に。

大庭御厨は鎌倉時代末期の『神鳳抄』によると、13郷からなり、東は鎌倉郡玉輪庄との境の俣野川(現在の境川)、西は相模一宮の社領である神郷、南は海で、北は現在のどかに当たるか不明ですが大牧ア、面積は1144年(天養1)当時で95町(『神鳳抄』に150町)、収穫量は47,750束(4,750石)あったといいます。この頃の石と、太閤検地以降の石とはえらい違うようなので、もしかしたら後の2千石ぐらいなのかもしれませんが、それにしても当時としてはえらい大きな荘園です。

荘園にはその国の国司が認めたものと朝廷が認めたものと2つのランクが有って、この大庭御厨は国司が認めたもの、つまり国司(受領)が交代すればまた取り消される可能性のあるもので、大庭御厨もそれほど安定したものではなかったようです。その承認が相模守藤原盛重の任期切れ間際であったことが物語っているように、国司の交替の度に、「年序を経るの間、在廰官人等の浮言に就いて、国司度々奏聞を経せしむ」、と新任の国司や在庁官人は荘園の整理や見直しを行って、国衙領の増収を図ろうとします。そしてまた任期切れ間際に、今度はその荘園を承認して謝礼を懐に入れます。それ以降も、1118年(元永1)、1131年(天承2)と、国司の交替毎に免税の許可証が発行されている(「平安遺文」2445など)のはそういう事情だったと見られます。教科書的には国司が認めた「国免荘」が不安定なために、権門に寄進をしたというが、その権門・伊勢神宮でさえ、こうでした。

大庭御厨の濫妨

そこで伊勢神宮は、国司の承認による「国免荘」ではなく、より確実な朝廷の承認による荘園とすべく運動を始めます。ちょうど、比較的荘園を押さえ気味だった白河法皇が崩御し、鳥羽上皇によって大規模荘園の立荘が急拡大していく時期です。そして「宣旨、院宣等を本宮に下され」と鳥羽上皇の承認を得て、国司が口出し出来ない官省符荘ランクに昇格させたのが1141年(永治1)。これでもう大丈夫と思ったところへ。

その最中高座郡内字鵠沼郷、今俄に鎌倉郡内と称し、事を彼の目代の下知に寄せ、義朝郎従清大夫安行並びに字新籐太及び廰官等、去年九月上旬の比、旁々濫行を致し、伊介神社の祝荒木田彦松の頭を打ち破り、死門に及ばしむ。

という、頼朝の父、源義朝の「大庭御厨の濫妨」が起こります。

頼朝の父源義朝は無官ではありながら地方の豪族にとっては貴族の血を引く「貴種」で、かつ院近臣であった母親の実家、また父為義の摂関家家産機構とのつながりなどを利用しながら南関東でのそうした紛争に介入・調停しながら自分の勢力を伸ばしていきます。
そのひとつがこの「大庭御厨の濫妨」です。このとき源義朝が率いた軍勢を詳細に見ていくと、国衙の在庁官人と摂関家の荘園の庄司であることが解ります。これによって頼朝の父源義朝は権五郎景政の子孫、大庭一族を従わせ、父為義が傘下にあった摂関家の影響からも離れて院近臣に接近し、保元の乱では鳥羽院・後白河天皇側の武力の中心として父や弟もろとも摂関家(この場合忠実・頼長)を崩壊させます。

その後の大庭氏

「大庭御厨の濫妨」の頃の大庭氏の長大庭景宗の子が大庭御厨司職を継承した大庭景能(1128〜1210)と、その弟大庭景親です。その兄弟は保元の乱では義朝の招集に応じて(天皇の正式な招集でもある)鳥羽院・後白河天皇側として源義朝配下で白河殿を攻撃しましたが、兄の大庭景能は強弓で知られる鎮西八郎為朝(義朝の弟)の矢で膝を射抜かれ負傷しています。弟大庭景親はその後の平治の乱でも源義朝配下で参戦し、平家に捕らわれますが許されて平家の傘下に入り、その平家の力を背景に兄の大庭景能から大庭御厨の実権を押領されたとみられます。

頼朝の石橋山での挙兵に、大庭景親は頼朝の手勢の10倍、公称3千の大軍を率いて頼朝を敗走させますが、その時点での両者の勢力はちょうど「大庭御厨の濫妨」が逆転したかのようです。頼朝側についた相模の武士のうち、三浦義明は「大庭御厨の濫妨」の義朝勢として登場、土肥実平は中村庄司宗平の子です。弟大庭景親に大庭御厨の実権を奪われた兄の大庭景能は頼朝側につきます。

石橋山での敗走後、安房に逃れた頼朝は急激に勢力を伸ばし、鎌倉幕府成立に至りますが、実体は源氏対平家ではなく、関東において平家の後ろ盾で急激に勢力、支配力を増したこの大庭景親、上総・下総では藤原氏、佐竹氏、北関東では藤性足利氏など京の平家をバックにした勢力に、その圧迫に絶えかねたその他の勢力が頼朝と言う御輿を得て一斉蜂起したと言うのが実体です。

吾妻鏡では

吾妻鏡にも1185年(文治元年)八月から御霊社が出てきます。「御霊社鳴動す」は地震でしょう。

文治元年(1185年)8月27日 
午の刻御霊社鳴動す。頗る地震の如し。この事先々の怪たるの由、景能これを驚き申す。仍って二品参り給うの処、宝殿の左右扉破れをはんぬ。これを解謝せんが為、御願書一通を奉納せらるるの上、巫女等面々に賜物(各々藍摺二反か)有り。御神楽を行わるるの後還御すと。

でもこれは甘縄神社のこと? 甘縄宮の御霊社って。

建久5年(1194年)1月4日 
甘縄宮の御霊社御奉幣。知家御使いたり。
同年11月21日 戊申
三嶋社の神事なり。殊に御潔齋し、鶴岡の三嶋別宮に参らしめ給う。また御霊前浜に於いて千番の小笠懸有り。左衛門の尉義盛これを奉行すと。
建長四年11月17日 丁酉 天晴
前の大膳の亮為親御祈り始めの事を奉仕す。御霊社前の海辺に於いて七瀬祓いを勤行す。伊勢の前司行綱雑事を沙汰す。周防修理の亮御使としてその所に向かう。

良く解りません。がここでは通説に従い吾妻鏡にある御霊社をこの鎌倉権五郎神社とすれば、頼朝が鎌倉に入る前から有った証拠となります。

伝承以外の建立年代の証拠は?

では頼朝が鎌倉に入る前とはいつ頃なのか。
これは推測の域を出ませんが、鎌倉中心部、鎌倉群衛(現御成小学校、市役所)周辺を囲むように東北の鬼門には荏柄天神社。対角線に位置する西南の裏鬼門にはこの御霊神社があり、東南角には祇園天王社(現八雲神社)が、そしてその祇園天王社の対角線に佐助稲荷が。この4つの寺社がちょうど鎌倉群衛の位置を守る四界にあたります。

はっきりと記録にあるのは荏柄天神社だけ、佐助稲荷には証拠は少ないのですが、この御霊神社だけでなく、鎌倉の他の神社と組み合わせて考えてみても頼朝の鎌倉入りより百年前後前の11世紀後半から12世紀初頭に建てられたと見ても良いのではないでしょうか。

景正(景政)弓立の松

鎌倉権五郎平景政が領地の見回る際に弓を立てかけたと伝えられる松の古木です。枯れて朽ちていますが。

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石上神社 

中世の紀行文である海道記(かいどうき)に鎌倉描写の一文があり、

稲村と云うところあり。険しき岩の重なりふせるはざまをつたいいけば、岩にあたりてさきあがる波、花のごとくに散りかかる。申の斜めに、湯井の浜におちつきぬ。暫く休みて、この所をみれば、数百艘の舟、とも縄を括りて、大津の浦に似たり。千万字の宅、軒を並べて、大淀の渡しに異ならず゙。御霊の鳥居の前に日をくらして後、若宮大路より宿所につきぬ。

この社の前浜である海の沖に岩礁があって、船が乗り上げて遭難する人が多かったので、土地の人たちが引き上げてここに安置し祀ったものだそうです。

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第六天社

第六天社です。こちらの石厨子にはこう説明が有りました。

神世七代と言われる天地開闢(かいびゃく)のときに成りませる第六代に当たる神、面足尊(おもだるのみこと?)と可志古泥神(かしこねのかみ)を祀る。男神、女神の容貌が成り整う過程の神格化。防塞守護の神とも言われる。

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再び拝殿

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ん? 高校生ぐらいでしょうか? なんか可愛げな女の子と、そのボーイフランドはお財布からお賽銭を取り出しているところでしょうか? こういう処で見ると「この子達はとっても良い子に違いない!」なんて思ってしまいますね。いや、きっとそうでしょう。

2007.4.11追記