倉敷の旅 2009.4.9 本町通りから旅館鶴形へ |
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さて、ここから先は最近地図が少し読めるようになった娘の為に地図を出しておきましょう。上の方の鶴形山阿智神社から降りてくる「9日朝」とある赤い線が宿につくまでに通った道です。 倉敷本町通り石段を降りると、そこは倉敷本町通り。かつての倉敷村のメインストリートです。 しかし安心しました。川沿いの美観地区は観光のメッカで、そのままなのは知っていましたが、裏路地であるこの通りも40年前とさほど変わってはいません。 吉井旅館有名な吉井旅館です。まあ倉敷で3本の指に入るでしょう。宿としても有名なんですが、この吉井旅館の建物だけで、倉敷の建築様式のかなりのものが説明出来てしまうという優れもの。犬矢来(いぬやらい)がありますね。犬などが汚さないようにと壁面を保護するものだそうです。 江戸時代前期にはここには古禄13軒のひとつ油屋吉田家の本家があったそうです。そのあと江戸中期には蘭学医の医院兼居宅になったのでしょうか。そして江戸時代後期に吉井屋となったと、多分そういうことかと。 突然「古禄13軒」なんて「専門用語」を出してしまいましたが、江戸時代の中期にここ倉敷を実質支配していた豪農・豪商の家々です。江戸時代の後期には「新禄」と言われる新興勢力も台頭してきて、新旧勢力間で熾烈な政治抗争もあったようですが、最終的には「新禄」が優勢になります。ここ吉井屋、大原家などはその「新禄」の方です。 吉井屋は、そんじょそこらの町人ではなくてそれなりの有力者です。江戸時代からのこの地の資産家で、明治以降の倉敷を発展させたのが、後に大原総一郎を出した原家(本家の大原への改姓は幕末)ですが、ここはその原家の分家で吉井屋は屋号です。分家とは言っても後に大原本家を大きくしたのはこの吉井屋から養子に入った人ですし、その人が岡山から貰った養子の妻にはやはりこの吉井屋の娘を充てていますから、まあ事実上大原家の実家みたいなもんです。 尚、ここ倉敷の歴史については「ごさんべえのぺーじ」さんの「備中窪屋郡倉敷村の歴史から」がとても詳しく、勉強させて頂きました。有難う御座います。 井上家住宅こちらは井上家住宅。国指定・建造物です。倉敷の塗屋造古民家型建造物の代表例です。毎週日曜日に建物内を一般公開しているんですが、残念ながら今日は木曜日の平日。中には入れません。 建てられたのは200年近く昔、江戸時代の正徳年間(1711〜1716年)前後、建物表に掲示している解説によると、宮崎屋井上家の6代栄俊が享保年間(1716〜1736年)とあるそうです。 南面2階外壁にある7つの倉敷窓には防火用のためと思われる土扉がついています。現存する倉敷の町屋の中でもここ井上家住宅だけだそうです。倉敷では少なくとも江戸時代後半には大火がなかったようで、ここまでの防火設備は必要性が乏しくなり、廃れたのではと推測されているようです。つまり、この家はそれだけ古い。実は「古禄13軒」の屋敷で、唯一残っているのがここです。 路地裏を倉敷川へ路地の奥に倉敷川が見えました。そろそろ川筋に出てみようか、と路地裏の小径に入ります。 これは同じ路地を振り返ったところ。この路地裏の十字路を翌日右から左に歩いて駅に向かいました。 いかにも倉敷らしい白壁と貼り瓦の倉造りです。倉敷の町屋と言えばこの白壁と貼り瓦で御座いますよ。このあと嫌というほど出てきますが。 倉敷川に出ました。川と言っても運河として作られたものですが。 えっ、あれ? ここうはちらが泊まる旅館じゃない! 宿・旅館鶴形私らは自分の泊まる宿の脇の小径を抜けてきたみたいです。 そんなこと言ったって昔はこんな旅館に泊まれるご身分じゃなかったし・・・。フキフキ
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