倉敷の旅 2009.4.9 くらしき川舟流し |
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倉敷と言えば観光案内の中心はこの運河ですね。 こういう写真も良く目にします。 でも昔来たときこんなのやってたかなぁ。 一人旅ならこんなの乗りませんが、娘を連れているんで最初から乗る気満々。 船着き場で、舟が帰ってくるのを待って、「二人お願いします」と言ったら、乗船券はあちらに見える観光協会で買うんだって。で、そこで予約した時間まで船着き場で待っていました。 と言っても、次の便で、そんなには待ちませんでしたが。さぁ、俺たちの番だ。 舟は2艘あって定員は5名。乗った舟はこちらの奥様とお坊ちゃん。そしてうちら親子の4人でした。 はっぴ姿に菅笠(すげがさ)の船頭さんが舟をあやつりながら観光ガイドをしてくれます。 正面は今橋。コースはあそこまでです。 くぐれないこともないでしょうが、船頭さんは立ってますからねぇ。 その今橋。昭和天皇が摂政だったときか、天皇になってからか、ここ倉敷に来たときに大原総一郎が掛けたんだそうです。公務員の初任給が数十円の時代に建設費は1万6千円もしたとか。今で言えば1億円2億円て感じでしょうか。石の欄干には龍の浮き彫りが。 これは後から撮った写真ですが、船頭さんの説明によると、橋に刻まれた龍の彫刻が珍しい正面向きで玉を持つ手は五本指。これは中国では皇帝の象徴とか。天皇陛下を迎える為の橋の装飾ですから。川の方はもっと立派な浮き彫りになっているんですが。 大原美術館の収蔵作品収集をまかされていた児島虎次郎のデザインです。 その今橋の右奥は大原家住宅です。そして手前がその別邸有隣荘で1928年(昭和3)に建てられました。大原美術館を建てるのに当時のお金で5万円。それに対してこちらは25万円もかかったそうです。今だと幾らぐらいなんでしょうか。5億円と、こちらは25億円ぐらい? もっとしたのかもしれません。 あの緑の瓦1枚作るのに、その費用は当時の瓦職人の月収分ぐらいなんだそうです。今の感覚だと、瓦1枚が3〜40万円? すげぇ!! 船着き場を通り過ぎて、美観地区の南の境、高砂橋へ向かいます。こちらは言わずと知れた倉敷民芸館ですね。って、言わずとも知っている人は民芸関係者だけかもしれませんが。 倉敷民芸館についてはまた後ほど。 しかし倉敷は桜が満開。良い時期に来ました。鎌倉の鶴岡八幡宮の桜は4日には満開。7日にはちょっと散り出していましたから、倉敷の方がちょっと遅い? で、このあたりで前を見ると、高砂橋の処に2羽の白い水鳥が見えました。上の写真右手に白い点が二つ見えません? あれがそうです。なんだか判らなかったのですが、アヒルにしちゃぁ首が長い、白鷺にしては大きすぎる。 こんなとこで白鳥ってのも変だよねぇ、でも白鳥以外に思いつかないぞ。 と思ったらほんとに白鳥でした。こりゃたまげた。この白鳥2羽は高砂橋で舟がUターンしたあとしばらく付いてくるではないですか。ってたまたまでしょうが。 とことでこの白鳥が向かっている先の階段のような場所。ほんとうに階段なんです。船頭さんの説明によると、大原総一郎の倉敷絹織の工場(現在のアイビースクエア)がこの船着き場の先にあり、インドとかから運ばれてきた荷(綿かな?)を海からこの運河を舟で運び、そしてここで荷揚げしたんだそうです。だから水の中まで石段になっています。そして上がったところは柳宗悦とともに民芸運動を担った故外村吉之助先生のお宅の脇を真っ直ぐアイビースクエアに向かい、その道は大八車の車輪の幅に合わせて石が敷かれているとか。(確かに) 今は倉敷川って名前ですが、海の潮の干満にあわせて船が行き来する運河として機能し始めたのが始まりで、「汐入川」、「舟入川」又は「前神川」とも呼ばれ、船による物資輸送が盛んに行われたそうです。「前神川」は鶴形山の阿智神社の前って意味でしょうね。「汐入川」、「舟入川」という名前はこの運河の性格を良く表しています。運河としての役目を終えたのは1959年(昭和34)に児島湾が締め切られたときです。 しかし川舟から見上げる桜はまた格別ですね。 船着き場に戻ってきました。いや〜、これは本当にお勧めです。もっともこの日は平日の木曜なんで、土日にはチケットを買ってすぐに乗船という訳にはいかないでしょうが。 コースは倉敷川の中橋のたもとを出発して、北は大原美術館前の今橋と、 |
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