教会通り
その先が青梅街道。青梅街道の向こう側に教会通りという小さな商店街があります。大学を中退して、阿佐ヶ谷の三畳一間から引っ越したアパートがこの先にありました。
なんかだいぶ変わりましたね。40年もたちゃ、変わりもするでしょうが。
確か右側に銭湯があったような。でも行った記憶があるのは別の銭湯なんです。 何でだろう、記憶違いかなぁ。 ん?
教会前から駅北口に出る道は教会通り(当時は弁天通り)と呼ばれ、暗渠となった用水堀のあたりには、太宰治や伊馬春部、また吉川英冶の「宮本武蔵」を名調子で朗読した徳川夢声が住んだ。井伏はこのあたりにあった銭湯「蔦の湯」に通っていた。通りをぬけ青梅街道に出ると荻窪駅前になる。(荻窪北口界隈)
だって。
井伏鱒二 が通ったという「蔦の湯」という銭湯がそれ? 天沼3-27だって。違うわ。違うけど、それって俺達が通ってた銭湯じゃないの? ギャー、次のページ崩壊?
井伏鱒二の『荻窪風土記』 (pp.106-116) によると、昭和の初期にはここは弁天通りと言っていたそうです。このちょっと先を右に曲がったところが桐の木横丁でしょうか。そうだと書いてあるサイトは無いのですが、井伏鱒二の記述と、徳川夢声の家を重ね合わせるとそんな気がします。太宰治はまだ有名になる前(昭和8年から)一時期そこに住んでいました。
こんなお煎餅屋さん記憶に無いし。右側に中華屋さんがあって、そこで酢豚定食を食べるのが月に1度の贅沢だったんだけど。無いなぁ。
その先に二股に別れる処があります。あったっけこんなとこ。あったのかもしれない。
その二股を左側に進むと。
やしろ食堂って見えるでしょ。 当時もあったのかどうかは記憶が無いのですが、そのこっち側の長寿庵はあったような気がする。
さくら荘
やしろ食堂の前を左に曲がると、今はさくらコーポが。多分ここだと思う。昔は「さくら荘」じゃなかったかな? 今の「さくらコーポ」って名前を見てなんかそんな気がしてきました。なので確証は無いのですが。
木造の2階建てで、窓枠は木で、建物が傾いているのか閉めても隙間があって。冬にその隙間をメンディングテープで塞いだらえらく暖かくなったなんてことが。
間取りは半畳の押し入れ付き四畳半と1畳の押し入れ付き二畳。なんと三畳一間から倍以上のふた部屋に出世したんで御座いますよ。なんか人生バラ色に感じましたね。あと1畳のスペースに玄関と台所。ガス台は一つしか置けないよね。多分そうだったかと。
炊飯器は阿佐ヶ谷のときからあったのかな?
でもその同じ間取りのお隣さんは、子連れの夫婦で、親子三人か四人。いつも奥さんの内職の和文タイプの音がしていました。その2畳の間にあった1畳の押し入れは襖が無かったんです。なのでその上の段を二人のベッドにしていました。布団が落ちないように24cmぐらいの板を追加しましたけどね。下の畳み2畳に寝れば良いじゃないかって? 最初はそうだったんですけど、そのうちそこは私の写真現像室と化したので。
このアパートのテーマソングはかぐや姫の「赤ちょうちん」 ですね。「キャベッばかりをかじってた〜」、なんてことはなかったけど、そうめんばっかり食べていたことはありました。あれは一食あたりがえらい安いんです。普段の夕食は、教会通りでコロッケ2つとちくわ揚げをひとつ買って、それを二人で分けておかずにして、あとはご飯に味噌汁。まあだいた いそんな生活でした。仕事に行くとき自分で作ったお弁当は、キャベツと豚コマと卵を醤油で味付けして。でも楽しい生活でした。将来のことさえ考えなければね。
貧乏を象徴する思い出は彼女が生理になったときのことです。
生理用ナプキンって普通二ダースぐらいの単位で売ってたんでそれが買えなかった。買ってしまうと私が土方仕事に行く電車賃や、彼女が短大に行く電車賃やが無くなってしまう。そうすると次の日当が入ってこない。そのとき彼女が「明日学校に行けば生協でバラ売りしてるから一日だけ保てば」、とガーゼを畳みだしたんです。「初めて生理になったとき、おかあちゃんがたたみ方を教えてくれたんよ♪」と明るく。その「おかあちゃん」の娘時代には生理用品なんて売ってなかったのでしょう。流石にそんなことは一回だけでしたが。
その「おかあちゃん」は実の母ではなくて、父親が再婚した相手です。やっと現れたその「おかあちゃん」は彼女のことをとても可愛がってくれたそうです。生みの親が居なくなったことは不幸でも、そんな「おかあちゃん」が来たことはとっても幸せなことだと思います。「おかあちゃんがねぇ」、「おとうちゃんがねぇ」、と話す彼女は本当に笑顔でした。
テレビなんて持ってませんでした。ラジオだけです。よく聞いたのは大石吾朗の「コッキーポップ」。
覚えているのは小坂明子の「あなた」。イルカの「なごり雪」に「雨の物語」。何十年ぶりに今聞いてるんだけど、いいなぁ〜。美人じゃないけどね。当時の彼女の方が可愛かったぞ。でもこうして見てると、ちょっとだけ似てるかなぁ。あと泉谷しげるの「黒いカバン」。コッキーポップにはでてこなかったけど、浅川マキのコンサートは二人(末の妹と三人のことも)で行きました。
仕事ですか?
それまでアルバイトにしていた百科事典の下請原稿書きでは収入が安定しないので、高田馬場の職安近くの日雇いの溜まり場に行きました。いわいる「立ちんぼう」ってやつです。端からゆっくり歩いていくと口利屋が「兄ちゃん、何処何処で1日○千円。どう?」 と声をかけてくる。工事現場の日雇い労働者、「山谷ブルース」の世界です。台所が80cmでも「ドヤ住まい」ではなかったし、第一彼女とラブラブ生活で、焼酎もあおらなかったですけどね。
その現場で水道工事屋に拾われて日雇いじゃなくなって。いや、安定的日雇いだったかな? まあいずれにしても日給稼業でしたが。そうした稼ぎでなんとか彼女の短大卒業まで漕ぎつけました。親父に「お前が中退するのはしょうがないが、○○さんだけは責任をもって卒業させろ!」と言われたので。
親父とすれば、学生運動なんかにはまったバカ息子の退学はしかたがないとしても、人様の娘さんだけは。という苦渋の一言とそのときも思いました。
取り敢えず彼女も就職できて収入もちょっと安定したので、私も日給仕事を卒業して、図面が書けるという売り込みで配電盤の町工場に正社員で就職です。板金図面と部品配置図を書いて、図面はトレーシングペーパー。
コピー機なんて無いので当時の図面は全てそうでした。青焼屋さんで青図にしてもらい、それを板金屋や工員に渡します。青図なんて今の人は知らないでしょうが「青写真」という言葉で残っていますね。制御盤の回路設計もやって、見積もして、経理もやって、納期が迫れば配線・組立工にもなって。零細企業だから何でも屋です。
実社会でのスタートが山谷ブルースだったことを思えば、そこから数えて六度目、町工場から数えて四度目の転職先で国大率や早慶大率を部下にもって仕事が出来たということは結構立身出世なんじゃないかと。そう前向きにそう考えることにしましょう。元部下の何人かは私より出世しているけどね。
当時の彼女の言いぐさ
- 「ガンタのものはあたしのもの、あたしのものはあたしのもの♪」。なんだそりゃ。不公平じゃないか!と言うと、「あたしはガンタなんが別にどうでもいいんだけど、あんまりあたしにベタ惚れで可哀相だから一緒に住んであげてるんよ。それぐらい当然でしょ♪」と。
嬉しそうに言ってたからいいか。言ってるだけだし。
- 彼女が私の妹に何気なく言った言葉。
「ガンタがいつまでも何かしら勉強してるのは大学を中退したコンプレックスなんよ」。
言えるかもしれないと唸りました。未だにそれは続いています。こういうことにならコンプレックスって役に立ちますね。(笑)
その頃の思い出をもうひとつ。彼女が映画が見たいと言い出したんです。
でお金が無いからダメと言ったら・・・メソメソ泣き出し、しかたがないので次の日曜に行く約束をしたら直ぐに泣きやんでニコニコルンルン。
その日曜日。なんか熱っぽいと言ったら彼女が体温計で測って、「う〜ん」(ちょっと考え込んで)。「大したことない!」と言って何度か見せもせずに水銀の体温計だから振ってクリアしてしまいます。で、映画は行ったんだけど、帰りになんか頭がフラフラすると言ったら・・・
「ちょっと無理があったかいね〜」。「えっ? 何度だったんだよ!」、すると「38度」と言って舌をペロッとだすではないですか。「なにー!(怒)」で御座いますよ。
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