2012.09.24 荻窪のお風呂屋さんへの道 |
さて、アパートからお風呂屋さんへの道を探してみましょう。色々と試行錯誤してみたんですが、多分この道で間違いないと思うんだけど。このやしろ食堂が当時もあったかどうかは不明なんですが、アパートを出てちょいと駅の方へ戻ります。
でもアパートを出て左にちょっと行ったところに、暗渠にした道が平行して走ってるんだけど、どっちだったか。だいたいこんなとこに川があったかしら。でも、コンクリートの蓋の上をカタカタさせながら歩いたような気がする。両方通ったかもしれない。何でこの道が暗渠だって判ったんだって? 車止めがあるでしょ。普通の舗装じゃないし。
でも、可能性の高そうな右へ戻って、この角をVターン。 写真の都合で少し明るい内から辿ってみましたが、本当は夕飯とその食器洗いのあと、真っ暗になってからこの道を歩きました。 プラスチックの洗面器にタオルと石けん、彼女はシャンプーももって。 その頃です。彼女が大学の部室で「ガンタと暮らし始めた頃は三畳一間だったんよ」と言ったら、一年生の女の子達が「え〜! どうだった? どんなかんじだったの?」と。彼女の返事は「でもあたし、全然怖くなかったわよ〜。だってガンタ、優しくなんだもん」で、一年生の女の子達はヒーヒー言いながら笑い転げていました。 本当にこの道かなぁ。 なんせ真っ暗だったし・・・。
別名美人通り。なんで美人かというと、天沼八幡の先に将校さん(お金持ち)が沢山住んでいて、その奥様やお嬢さんが帝劇やら三越やらに行く為に、着飾ってこの道を駅まで歩いていたからだそうです。今ではそんな華やかな感じはありませんが。 確か駅の方へ向かう途中に貸本屋がありました。今でいうならレンタルビデオ屋ですね。でも当時はビデオなんてありません。私が貧乏だから持っていなかったんではなくて、世の中に存在していなかったんです。なので庶民の娯楽は貸本。覚えているのは「子連れ狼」。小池一夫原作・小島剛夕画で、1970年9月から1976年4月まで「漫画アクション」誌に連載されたそうですが、その単行本です。その貸本屋を探したのですが・・・、有るわきゃないよね。残念。 最初はこの十字路を左に曲がって、また右に曲がったちょっと先の左側だったような気がしたんですが、銭湯は廃業したにしても、どうも該当する敷地が無い。十字路を更に真っ直ぐ行っていたようです。 本当に暗くなってきました。回りの家だって40年も経てばだいぶ変わっているしねぇ。暗い細い小径ということしか記憶に残っていません。その細さという点では確かにちょうどこれぐらいです。でもほんとにこんなに遠かったっけ。 藤の湯おっ、銭湯の煙突が見えてきました。 ふと見ると庚申塔が。あったかなぁこんなの。でもあの頃は関心が無かったし、なにより真っ暗な道だったので覚えていません。 また広い通りに出ます。その左側へ進むと・・・。銭湯が! 藤の湯だって。 表はこんなタイルじゃなかったと思うのですが。でもここに間違いありません。 入ってみて実感しました。銭湯を出て、さっきの十字路を左に曲がって貸本屋に行った記憶から、あの十字路を左に曲がった先と勘違いしていたんでしょう。なんせ40年も昔の記憶ですから。 蔦の湯あれ? 当時はこのルートのもっと近くに銭湯があったらしい。井伏鱒二の『荻窪風土記』p.110 には、「蔦の湯」に朝湯に行くという描写が。井伏鱒二が亡くなったのは 1993年(平成5年)でその2年後まではあったというから、私らが住んでいた頃も絶対にあったはず。それを横目で見ながらもっと遠くの銭湯に行くとは思えない。すると「二人で行った 横丁の風呂屋」は「蔦の湯」で、「藤の湯」じゃない? 「本当にこの道かなぁ」と書いた6枚目の写真はもう50mも通り過ぎたとこだったんですね。 先に書いた「銭湯を出て、さっきの十字路を左に曲がって貸本屋に行った記憶」は合ってたんですね。ただその先があの十字路で、そこを右に曲がった記憶が抜けていただけで。(。_・☆\ ベキバキ 銭湯の帰りに貸本屋へ行ったのは、帰り道じゃなくて、更に遠くへ行ったって? 赤いルートが写真でご案内した「藤の湯」のルート。実は水色で示した暗渠ルートで「蔦の湯」に行ってたんですね。その距離は・・・、全く違う! ところで回数は少ないんだけど、もうひとつ行った銭湯があります。どうもそれが井伏鱒二の『荻窪風土記』に出てくる「武蔵野湯」らしい。上の図に青く平野屋とあるのは井伏鱒二が下宿していたという平野屋酒店の位置です。井伏鱒二はここにも入りにきたらしい。なんか縁がありますねぇ。銭湯だけだけど。 教会通りにも銭湯があったような気がするんだけど(白抜きの赤丸あたり)、入った記憶がない。そこにあったならわざわざ武蔵野湯まで行く訳はないし。勘違いかなぁ。 |