荻窪 2012.10.20  井伏鱒二の教会通りと太宰治  

井伏鱒二の『荻窪風土記』に教会通りのことが出てきます。

といっても目次には「天沼の弁天通り」とありますが。太宰治とか神戸雄一とか伊馬春部とか中村地平が「天沼の弁天通り」に移ってきたとか、鳶の湯によく行っていたとか、弁天通りは私が大先輩だとか。

その弁天通りの大先輩で、もしかしたら鳶の湯で一緒に湯に浸かっていたかもしれない井伏鱒二が鳶の湯に行った道を推理してみましょう。

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二・二六事件、渡辺錠太郎邸

ところで、井伏鱒二の『荻窪風土記』には「二・二六事件の頃」という章もあります。二・二六事件とは1936年(昭和11年)2月26日に陸軍皇道派の下級将校らが起こした事件です。このとき教育総監の渡辺錠太郎大将も自宅を襲撃され死亡しましたが、その自宅が荻窪の荻寺近くだったことを知ったのは井伏鱒二の『荻窪風土記』を読んで始めて知りました。

あのマンションが渡辺錠太郎邸の場所で、この道に襲撃部隊のトラックが止まり、渡辺錠太郎大将を銃撃した軽機関銃が積み下ろされたことになります。

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そこから四面道へ向かう道は今でも古い街並みを残していますが、この道は明治大正などよりもっと古い道だったのかもしれません。

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井伏鱒二宅

環状八号線が出来て、 四面道という名はその環八と青梅街道の交差点になってしまいましたが、元々はちょっとずれた位置の現日大通り昔の大場通りと、上の写真の道がつながっていて、それと青梅街道との交差点のことだったそうです(p.17)。

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実は西荻の関根プールの後にこちらに来たので渡辺錠太郎邸跡の前を通ったのですが、こっちから見ると、あの大場通り(現日大通り)を入った左側の奥に井伏鱒二が家を建てました。1927年(昭和2年)初夏の頃だそうです。『荻窪風土記』はその土地を借りるところから始まります。

ここが旧井伏鱒二宅です。借地の地代が当時坪7銭だったそうです。

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100坪ぐらいでしょうか。当時としては小さな家です。荻窪の南に越してきた与謝野鉄幹・晶子の家の敷地は500坪ぐらいありますから。与謝野鉄幹・晶子は決して裕福ではありませんでしたが一応作家として生計をたてていたに対して、井伏鱒二はまだ28歳ぐらいで、兄に無心してこの家を建てましたので。

「教会通り」の教会と衛生病院

ところで、「教会通り」の「教会」とはこの教会のことです。教会通り発祥の地。という言い方は変ですが。私が写真を撮っているこの道は教会通りとは言わないでしょう。教会通りはこの教会の正面の道から青梅街道までだと思います。と言っても今は教会の前に「教会通りクリニック」が建ってしまっています。

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その教会が始めた病院がこの東京衛生病院
一番下の妹はここで生まれました。その頃は木造2階建てで、見舞いに行ったとき、母は浴衣みたいな寝間着でベッドから起き上がって、嬉しそうになにか話していたのを覚えています。

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井伏鱒二は大場通りを越えて、当時はまだ見えていた天沼キリスト教会と、この衛生病院を左に見ながら鳶の湯とか、荻窪駅に行ったんじゃないでしょうか。そして太宰治や中村地平は、逆にこの道を辿って井伏宅に向かったのかと。

教会通り商店街

上の写真を撮った直ぐ後ろの角を曲がると八百屋さんが。でも私たちが住んでいたのは同じ教会通りでも、もっと駅側だったんでここまで来たことはあんまり、いや、ほとんどありませんでした。

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その八百屋さんの先を左に折れます。

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コーヒーとカレーの店「SUZU」の向こうに暗渠にした用水路があります。あの車止めのところです。

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先月の24日にここに来たときはお風呂屋さんへの道を探しにきたときに、ここが暗渠だと気がついたんですが、こんなとこに川があったかしらと。調べてみたら、暗渠化は昭和42年(1967年)だそうです。さくら荘に住んだのはその数年後なので、暗渠化後ということに。コンクリートの蓋の上をカタカタさせながら歩いたような気がします。

昔は青梅街道沿いに半兵衛・相澤堀という、玉川上水の分水・千川上水からの更に分水路が流れていていたそうです。井伏鱒二著の『荻窪風土記』に荻窪駅北口前の青梅街道沿いのドブ川に落ちた知人の話が出てきますがそれです。
それを教会通り入口の数十メートル西から更に分流した用水堀で、阿佐ヶ谷へ行く相澤堀。すぐに桃園川(これも今は暗渠)に合流するんですが、ここはまだその前です。こんな綺麗な煉瓦風になったのは多分最近のことでしょう。

待てよ? 神戸雄一や太宰治が居た昭和初期には暗渠化してないじゃない。すると、神戸雄一や井伏鱒二は何処を通ったんだろう? ちょっと北の小径かな? まあ大差ありません。フキフキ ""A^^;

せっかくだから昔私が住んだアパート「さくら荘」側から見てみましょう。さくら荘から教会通りに出たところです。さくら荘は左側です。

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昭和6年から8年までで、私が住んでいた頃ではないですが、ここ(右側)に詩人の神戸雄一が住んでいたそうです。

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井伏鱒二の『荻窪風土記』 (p.111)には「今では近代風の建物に改装されて一二三屋という華やかな感じの化粧品店になっている。」とありますが。その「今」は昭和57年のこと。2012年現在では蜂蜜専門店「ラベイユ」になっています。私が暮らしていた40年まえから、ほとんどの店は変わっているんじゃないでしょうか。

鳶の湯跡

最初、銭湯への道はこの道じゃないよなぁ、と思ったのは途中のこの広さです。当時はかなり狭い道をお風呂屋さんに通った記憶が。でもこの道だったんですね。

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距離はそんなにありません。
あの右側の、写真ではクリーム色に見える三階建てのマンションの場所が、かつては井伏鱒二も、神戸雄一も、そして私たちも通っていた「鳶の湯」という銭湯でした。

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その角から右側です。ここは40年前は砂利道だったと思うのですが、「一緒に出ようねって言ったのに、いつも私が待たされた」ところです。

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「神田川」の歌詞はおかしいぞ! 女の方が長風呂に決まってるじゃないか!