寝殿造 1.0 寝殿造の研究史 2016.12.27 |
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はじめに平安時代の貴族らも屋敷の中心となる主屋を寝殿と呼んではいたが、「寝殿造」という呼び方はその時代には無かった。その名称は「書院造」と共に江戸時代末期、天保13年(1842)儒学者沢田名垂の『家屋雑考』によるものである。従ってどれが本来の寝殿造などといっても、それを建て、住んでいた者にとっては預かり知らぬ話で、建築技術の進歩、建具の進歩、用途の変化によって諸行無常である。「寝殿造」は平安時代に始まり、鎌倉時代を経て、室町時代の応仁の乱で京都が灰燼と化すまで続く上層住宅の建築様式である。 寝殿造の建物は現存しない。郊外の鳥羽殿を唯一の例外として遺跡の発掘もない。平安京左京区は繁華街であって今更発掘は不可能、出来たとしても平安時代や中世の地層はもう壊されているだろう。従って寝殿造の研究は11世紀以降の文献史料と12〜15世紀の絵巻物が中心となる。『源氏物語』などの文学作品にも屋敷が出てくるが、それを元にした復元図などは『家屋雑考』をベースとした復元者の空想部分が多すぎてかえって邪魔である。ただ寝殿造そのものではないが、その建築技法や室礼(しつらえ)の一部は、奈良や京都の寺社の一部に残っている。それらの画像を利用しながら、次ページ以降で寝殿造を見ていくことにする。 冒頭の画像は法隆寺の聖霊院である。寝殿造の時代の技法が残り、特に前面は寝殿造の対屋(たいのや)を彷彿とさせる。ところで、この聖霊院(しょうりょういん)は寺院なのに何で寝殿造の匂いプンプンなのか。 なお、このシリーズは品質保証ゼロである。勉強しながら書き加えているので、しばらくたったら全く逆のことが書いてあるかもしれないがご容赦願いたい。 がその前に研究史の整理をちょっとだけ。 寝殿造の研究史沢田名垂『家屋雑考』での寝殿造最初に寝殿造と言い表されたものはどんなものだったのかをちょっと振り返ってみよう。下の二つの図は会津藩士で国学者・儒学者である沢田名垂が京の公家故実家から入手し、天保13年(1842)に『家屋雑考』に掲載したもの。 それを元にした沢田名垂の想像図が下である。これらの図がかなり長い間教科書などにも使われたが信じないで欲しい。
『家屋雑考』での寝殿造の説明はこうだ。
中門廊の中門に扉が無いだって? そんなバカな。「七間四面」の寝殿は無いことも無いが希である。東三条殿ですら「六間四面」だ。母屋三間も結構ある。と思ったら沢田名垂はもっととんでもない勘違いをしているらしい。太田博太郎 (史論集2、pp.151-152)によると、沢田名垂は「七間四面」を「七間四方」と解釈したらしく、こう書く。
何をバカなことと思うが、間面表記は昭和10年頃まで理解されていなかったらしい。更に引用文外だが、東西の対を東西棟としているが南北棟だ。「四位、五位の家々とても、大抵右やうの屋造」などとんでもない。藤原頼通の時代、1047年(永承2年)2月21日『造興福寺記』「藤氏諸大夫」の時点で「四位、五位」の貴族は藤原氏だけでも366人居るし、『枕草子』(176段)にはこうある。なお「大夫」とは四位、五位の貴族である。
褒めてるのかけなしてるのかという文章だが、寝殿造を『家屋雑考』ベースで紹介する田辺泰でも流石に「四位、五位の家々とても、大抵右やうの屋造」には同調せず、『枕草子』のこの段を紹介して、「当時は大夫や権の守の如きですらも、狭い板屋に住居したことが知られるのである」と書いている(p.93)。沢田名垂の『家屋雑考』が意味を持つのはあくまで「寝殿造」という言葉の初出というだけである。 建築史での寝殿造科学としての建築史は歴史学同様に明治時代から始まるが、初期においてその中心は寺社建築であり、建築史の世界に寝殿造という用語が出てきたのは、1901年に出版された伊東忠太らの『稿本日本帝国美術略史』からである。「第二章藤原氏摂関時代 第五節 建築」にこうある。
旧字を新字体に改めた。この時代「、」と「。」を区別していないが、適宜改めた。「寝殿造り」と「寝殿作り」が混在しているのは原文のままである。 イメージは『家屋雑考』からさほど離れてはいない。そしてこのイメージは今でも良く見る。『源氏物語』の六条院復元図のそれである。『家屋雑考』自体は現在では忘れ去られているが、それを生みの親とする明治時代から昭和初期までのこのイメージはなかなか根強く、その払拭は一苦労である。 建築史の対象が住宅にまで広がるのは昭和7年(1932)の『日本風俗史講座 6巻』に収められた「日本住宅史」、(昭和10年に単行本)ぐらいからであるが、その内容はまだ『家屋雑考』の紹介である。
全くその通りだと思う。そしてこれはもう73年も前に言われていることだ。しかしそれに対して太田博太郎は1972年にこうコメントする。
しかし太田静六のようにそれを「理想形」としてではなく、寝殿を縦にしたような東西の対屋があった「本来の寝殿造の時代」の現実の形と考え、東三条殿や堀河殿をそれからの変質期ととらえるとなると、太田博太郎の意図とは違うだろう。 勿論太田静六が精力的に貴族の日記から当時の寝殿造を解き明かしてくれたからその後の研究もあるのだが。 そして太田博太郎がそう書いてから既に半世紀が過ぎようとしているのに、寝殿造の実像を知る者は建築史家だけで、一般のイメージは今でも『家屋雑考』や『稿本日本帝国美術略史』とさして変わらない。太田博太郎の千変万化の現象を理解しやすかろうという意図に反して、一般人の寝殿造のイメージは絵空事のままに止まってしまった。一般人どころか一級建築士の受験勉強までそのベースと云うありさまである。 中御門宗忠が『中右記』に、「東西の対、東西の中門、法の如き一町の作りなり」と書いた「法の如き」は当時としても希有な大寝殿造への賛辞である。そう書いた中御門宗忠は、右大臣にまで昇った公卿であるにも関わらず、自信の屋敷に「東西の対」は無い。 武家造「寝殿造」も「書院造」も沢田名垂の『家屋雑考』が初見と書いたが、沢田名垂が知る「寝殿造」は京の公家故実から、「書院造」は伊勢貞丈の室町将軍・武家故実から、つまり全く別の情報源である。川本重雄氏によると沢田名垂は『家屋雑考』の「家作沿革」の中でこう説明しているらしい。
沢田名垂は「当時(平安時代)武士の家居といふは、又別に一つの造方ありしに似たり」と、「質素な武家の住まい」は鎌倉時代だけでなくその前からあったとしている。そして武家の住まいが発展して書院造になったと。 沢田名垂は江戸時代の藩士の中の国学者だからしょうがないが、戦前の建築史でもそのような説明がなされていた。建築科で建築史を学んだ現役の人ならそんな ことは思わないだろうが、歴史学の片隅でちょこっと寝殿造や書院造を学んだ人の中にはいまでもそう思っている人が大勢居るのではないだろうか。歴史学者の 中にだって。少なくとも中世考古学の世界にはそう思っているらしい人がひとり居た。 沢田名垂が「武士の家居といふは、又別に一つの造方」と云ったものを「武家造り」という名を与えたのは、既に紹介した伊東忠太の『稿本日本帝国美術略史』(1901)である。 1932年に田辺泰は『家屋雑考』ベースで「武家造」という言葉を「主殿造」とほぼ同義に使う。しかしその言い方は微妙である。曰く
侍所は侍廊と同じである。構造も大きさもさして変わるようには見えない。問注所は武家造系統か?
田辺泰の云う「武家造」が指すものは、伊勢貞春(伊勢貞丈の孫)の「室町殿屋形私考」であり(p.121)、「平内(へいのうち)家伝書殿屋集」つまり『匠明』(しょうめい)なのだ。図に書くとこうなる。
要するに建築史家として諸史料から見えることと、当時の歴史観との折り合いが付かず、歴史観に引っ張られてしまったとしか思えない。なお、書院造には僧家建築の影響を云われることがあり、田辺泰も、注意深く読めば、その僧家建築も寝殿造から発していることを知っている。 それに対して堀口捨己は昭和18年(1943)の学位論文『書院造と数寄屋造の研究』の序文にこう書く。
歴史認識に頓着せず、建築史家として諸史料に向き合えばそうなるだろう。同じ年に太田静六は『日本の古建築』(1943)の中で、武家造の存在を否定し、寝殿造から書院造への直結を主張し、こう書いた。
ほぼ同時期に太田博太郎も全否定している。
太田博太郎が言い放ったように武家造など無い。それは節約を云われ続けた江戸時代後期の会津藩士の空想の産物である。伊勢貞丈の室町将軍武家故実から鎌倉時代の屋敷が解るはずはない。伊勢貞丈は『吾妻鏡』の研究もしているが、『吾妻鏡』に出てくる屋敷の形状に関する記述は将軍御所と初期の執権邸のみで用語は寝殿造用語である。沢田名垂は江戸時代末期の会津藩士なので公家社会と武家社会は別物という観念が強かったのだろう。それに読ませる相手は松平容保である。 太田博太郎もこういう。
寝殿造が書院造まで変わってゆく要因は、技術面と社会面の両面がある。前者は建築技術に建具の進歩。後者は臣従の表現の変化である。臣従の表現の変化は確かに「武士の世」の現れだが、それは武士が武士だがらではなく、平安時代の天皇と臣下、鎌倉時代の将軍と御家人という誰が見てもはっきりとした上下関係から、元は同じ御家人、あるいは戦国大名同士という中での臣従の表現に変わったためである。その新しい臣従の表現を対面の場の造りで演出する必要があった。特に秀吉は聚楽第大広間の豪華絢爛ささで諸大名を圧倒し、格の違いを思い知らせた(藤田・古賀編『日本建築史』p.154)。それが今日云われる書院造であり、二条城に引き継がれる。それが定式化し簡略化もされて一般化する。書院という言葉や、違い棚や床の間などの座敷飾りだけ見ていたのでは書院造は理解できない。 なお「主殿造」という言葉は、前田松韻((まつおと)が寝殿造から書院造への過渡期として1927年(昭和2年)頃に最初に使ったが(太田静六、p.751)、その初期には多分に武家造の匂いを纏っていた。 寝殿造と書院造の簡単な違いでは寝殿造と書院造はどう違うのか。床間発生論や様式論は他に任せて、もっとも基本的なことを太田博太郎は1942年の『図説日本住宅史』(pp.28-29)でこうまとめる。
巷では『源氏物語』六条院復元図のようなものが寝殿造だと思われているのに、寝殿と中門廊が基本的な形だとする。そして書院造の段階では
先の堀口捨己は書院造りの定義をこう結論付けている。
住宅建築としての違いは上記の点がもっとも基本的な点である。が、先に寝殿造が書院造まで変わってゆく要因は、技術面と社会面の両面があると書いたが、その技術面を補足しておく。 その状態から鎌倉時代前期に貫(ぬき)という技法が中国より伝わる。これで構造を強固に出来た。そして鎌倉時代を境に屋根を支える骨組み(小屋組)が大きく変化した。それで即座に書院造ということではないが、平面、間取りの自由度を大きく高める。そして室町時代の14〜15世紀に大鋸(おが)と台カンナが中国より伝わる。これによって、建築と建具が大きく進歩した。 平面での大きな変化は用途の変化からである。先に「臣従の表現の変化」を挙げたが、接見、接客、接待が上級邸第の重要な用途になってくる。寝殿造にはそのような建物も専用スペースも設けられていない。太田博太郎は、幕府の大棟梁・平内(へいのうち)家の初代、平内政信が慶長13年(1608)に書いた秘伝書『匠明』にある書院造を説明しながらこう書く。
ただし、寝殿造から書院造に変化してゆくにはかなりの時間を必要とした。平安時代末期の院御所に表向きの寝殿の奥に小寝殿が出来る。更に鎌倉時代の院御所に弘御所が現れ、それが書院の萌芽と云われることもあるが、まだだいぶ隔たりがある。書院の直接の萌芽は室町時代とされ、同時代の将軍御所は同じ敷地に表向きの寝殿造と、後に書院造に発展する小御所や会所が共存する。そして常御所が寝殿から分離する。その段階での寝殿造はもはや住まいではなく、格式を表現する古代的儀式の場、あるいは今日よりもずっと重視された仏事の場であった。足利将軍は公卿である。そして応仁の乱で京が灰燼と化すのを契機として寝殿造は事実上姿を消す。 なおここではイントロとして寝殿造研究史の初期の段階のみ解説したが、その後については各論3 の「寝殿造の論点」以降を参照されたい。 寝殿文献上「寝殿」が出てくる古い例は『日本後紀』の宝亀元年(770)8月28日癸巳(みずのとみ)、道鏡で有名な称徳天皇の「天皇崩干西宮寝殿」と、大同元年(806)3月辛巳(かのとみ)の「是日有血灑(そそぐ)東宮寝殿」とあるが、どの殿舎を指しているのかは不明である。 寝殿造の名付け親である沢田名垂は『家屋雑考』中で、寝殿造にいうところの寝殿の意味や由来についてふれ「寝臥の所をいふにあらず」と結んでいる。それは寝室の意ではなく「西土に徴ひて、一家の正殿をいふなり」という。「寝」は「ねる」ではないらしい。「寝」という字を「家」という意味に用いる古い例は中国の周の時代に「路寝」「小寝」があり、また唐では「大寝」「小寝」と云う(田辺泰『日本住宅史』pp.70-74)。太田静六も『寝殿造の研究』の中で信西書写(抄録?)の中国の書『買公彦疏』に「六寝者、路寝一、小寝五、路寝制以聴政、路大也、人君所皆目路」とあることを紹介しこう云う。
六寝制では大極殿が中心ということになるが、本稿では大極殿ばかりか内裏も外し、それ以外の上級住宅建築様式として寝殿造を考えることにする。内裏は寝殿造とは無関係というつもりは無いが、当時から寝殿という呼ばれ方はしていない。むしろ比較対象としてあつかった方が色々なものが見えてくる。 間面表記と桁行・梁行詳しくは次頁で説明するが、寝殿の平面は母屋(もや、身舎とも)と庇から成り、母屋の梁行は二間と決まっている。この例外は内裏の紫宸殿だけである。そこで、建物の大きさを母屋の桁行と、それに庇がいくつ付くかで表すようになる。母屋南面が三間(ま)なら一般に「三間四面」で普通の寝殿。「寝殿造と庇の基本形」
の図のように五間(ま)なら「五間四面」で上級貴族の立派な屋敷ということになる。「五間四面」の「四面」とは「四方に庇」の意味。「五間四方」の意味ではない。 桁行・梁行で表すと「寝殿造と庇の基本形」の平面図は「五間四面」だが、庇も含めた建物全体の柱間(はしらま) を数えて桁行七間(ま)・梁間四間(ま)という表し方もする。孫庇などを拡張しているこの図は桁行八間・梁間五間。孫庇や弘庇が無い場合と比べると床面積は1.4倍もある。しかし間面表記だと同じ「五間四面」である。 次ページ以降でその詳細を順に説明してゆく。 参考文献の表記の件参考文献は多くの場合書名のみ記すが、出版社、出版年、著者等はこのシリーズと建築史・古建築シリーズ共通の参考文献ページを参照して頂きたい。私の建築史知識はその範囲内である。 初稿 2015.10.15 |
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