寝殿造 1.1.1        寝殿の平面構造           2016.10.11

寝殿の平面構造

以下しばらくは、これから出てくる用語の解説のつもりで見て欲しい。東三条殿のような有名な最上級の寝殿造にはそれらはほぼ揃っているが、どれかが欠けたら寝殿造ではないというものではない。

母屋(もや)

一つの建物の中心となる部分を、寺院建築では身舎(もや)という字を宛てることも多いが、寝殿造では母屋(もや)とよく書く。複数の建物の中の中心 となる建物「おもや」の意味ではない。ひとつの建物の中の中心部分のことである。寝殿ではそのまわりを庇が囲んでいる。本稿では「おもや」の意味で使うと きは「主屋」と書くことにする。

寝殿造以前の発展過程

母屋の片側に、寝殿造では唯一の壁のある部屋、塗籠がある。これが寝室であり、金庫室でもあった。「家屋文鏡」(かおくもんきょう)の頃にはその塗籠が「家」で、支配者の主たる建物にはそれにテラスと王の日除けの衣笠が付いた。

寝殿造の歴史

家屋文鏡(かおくもんきょう)は奈良県佐味田宝塚古墳から出土した 4世紀のものである。ただしこの写真は東京国立博物館にあるレプリカ。四棟の建物が描かれ、建築史では極めて有名。古墳時代の首長宅における建物群との見 方が多い。この展示は180度回転させた方が良いのではないだろうか。下になってしまっているが、テラス付きの高床建築が描かれている。 

寝殿造の歴史
田辺泰、「日本住宅史」『日本風俗史講座 6巻』(1929年) p.426

関野克は1942年の『日本住宅小史』において、面白い視点を提示している。「住宅建築が生活圏内に包含される場合」と「住建築の一部に生活圏が営まれる場合」である。その前者についてこう述べる。

これは生活圏が先に存在し、家なるものが漸く造形物としでとの世に現ほれて来た原始の状態を示じてゐる。鳥が飛び、獣が走るその中心に巣を造るのと同じ様に、原始人は狩猟の根拠地に家を営んだ。
敢 えて原始時代に求めるまでもなく未開人の家や,我々が都塵(とじん:都会の喧噪の意)を離れて山野に営むテントを考へて見てもよい。日本の農家の家は元来 上古の様子をよく伝へており、この範囲に入るべきものと思ふ。この種の家は風雨・寒暑を避け、外敵の侵入防ぐを第一条件として建てられたのであった。即ち家は寝るを以って足りる態のもので、昼間の生活はすべて屋外に於て営まれた。 従って開口部はほとんど出入り口のみで、窓は後の段階に設けられるのであって、原則として無いと考へてよい。それは人間の住生活の本能である閉塞された家 とされる。夜寝るためのみなら採光の窓は不要である。日中太陽の下での生活は暗い家の中で始めで休養がとれたと考ふべきでなからうか。

山野に営むテントの例えは実に解りやすい。生活圏の主体が屋外なら、家は寝るためのもの。閉ざされた空間であれば良い。それが基本である。ただし支 配者階級、簡単に言うと王は高い処から部族を統率する、あるいは臣従を確認する、シャーマンとして部族を代表して神に礼拝するのでも良い。その場がテラス である。関野克の『日本住宅小史』はかなり昔だが、1976年『建築学大系28』「日本住宅史」で太田博太郎も同様のことを書く。そう考えると、「家屋文鏡」の図柄は納得できる。

関野克の後者「住建築の一部に生活圏が営まれる場合」については「6.3 如法一町家は左右対称なのか」で紹介する。

壁で囲われた寝室(塗籠)と、昼間の居所であるテラスが母屋で、そこが王(女王)のスペース。内裏で云うなら「夜の御殿」(よるのおとど)と「昼の御座」(ひのおまし)である。その形は延喜式に定められた大嘗祭(だいじょうさい)の大嘗宮にも見られる。延喜式は平安時代だが、そこに記されている建物はまるで古墳時代である。神事なので太古の様式がそのまま残ったのだろう。
その後の段階を示すものが橘古那可智邸である。奈良時代の貴族皇族の住宅の遺構で唯一現存するものが、法隆寺の伝法院で、聖武天皇の夫人の一人橘古那可智邸の一棟を移築したと伝わる。解体修理時の調査で、移築前の姿が以下の様に復元された。

寝殿造の歴史
浅野清復元図・日本建築学会編 『日本建築史図集』新訂第三版より

柱の構造としては側柱(かわばしら)と入側柱(いりかわばしら)があり、母屋と庇に分かれるように見えるが、住宅建築の発展過程を踏まえると、左の壁と両開戸と壁に囲われた部分が後の塗籠。その右の屋根の下は北に壁と両開戸、残る東と南の二面が開放となっている。その二つのスペースが屋根の下で、更に屋根の無いテラスが付く。屋根の下を後の母屋と考えると、家屋文鏡時代の家屋とテラス、大嘗宮の呼称で云えば「室」と「堂」が、後の閉鎖的な塗籠、「夜の御殿」(よるのおとど)と、開放的な空間にある「昼の御座」(ひのおまし)へと発展する過程がイメージ出来、その後の寝殿の平面が理解しやすい。

この建物は奈良時代の寝殿(正殿)とは断定出来ない。判っているのは橘古那可智から寄贈されたというだけである。『建築学大系4-1』(日本建築史)pp.34-35に福山敏男はこう書く。

そのプランは上流の住宅の寝殿といったような性格のものではなく、平安内裏の例で云えば、綾綺殿など簡略にした形式で、大嘗宮のユキ、スキの正殿の形式にも通じるから、古い伝統を受け継いだもので、儀式的な宮殿関係の建物が、橘夫人の斡旋でこの寺に施入されたと考えられよ う。

正殿でなく、儀式的な宮殿関係の建物であったとしても、「室」と「堂」、つまり、母屋を「夜の御殿」(よるのおとど)と「昼の御座」(ひのおまし)だけの宮殿のなごりと見ることはできる。

奈良時代の住宅建築について、根拠のある復元図はこの伝法堂の前身と、後で紹介する藤原豊成の家だけである。発掘では、柱列から建物の配置が推測出来るものは、奈良時代では藤原京の右京七条一坊と平城京左京三条二坊(長屋王邸跡)。平安時代前期では平安京右京一条三坊九町(山城高校遺跡)、右京三条一坊六町の藤原良相(813〜 867 年)邸、右京三条二坊十六町の斎宮邸跡、右京六条ー坊五町(京都リサーチパーク遺跡などがあるが、普通イメージさる寝殿造的なものではない。その他は極めて部分的なものに過ぎないし文献史料もほとんど無い。

母屋と庇

元々は主人のスペース(母屋)だけ。その後、その廻りに、主人の身の回りの世話をする従者(主に女房)のスペースが付いたというのが、寝殿造以前の 発展過程と思われている。その女房達のスペースが庇である。普通「庇」というと屋根のことだが、寝殿造では屋根ではなく平面図上の、母屋の周囲の床面のス ペースのことを指す。その庇が文書に現れるのは奈良時代からという(太田博太郎、1976、p.535)。

母屋の屋根

寝殿の屋根は入母屋造であるが、もっとも単純な屋根は切妻屋根である。しかしそれは伊勢神宮を見ても判る通り、日本古来の伝統の中では最も格の高い屋根である。仏教建築は外来のなのだ。

寝殿の入母屋造の屋根も、庇を取り去り母屋だけをみれば切妻屋根である。寝殿の入母屋造の屋根の上部の切妻屋根部分の下が母屋で、その母屋は正面 (南)から見れば柱4本の三間(ま)から柱6本の五間(ま)。正面はそれより長い例もあるが、側面は寝殿造の時代には全て柱3本の二間(ま)と決まってい る。母屋には塗籠を除き壁は無く、柱は母屋の外周にしか無い。

桁行(けたゆき)と梁行(はりゆき)梁間(はりま)

寝殿は通常東西に長いいわゆる東西棟、屋根を支える横柱は、屋根の尾根の方向を桁(けた)、南北方向、屋根の尾根と直角方向を梁(はり)という。建 物の大きさを桁行(けたゆき)五間(ま)、梁行(はりゆき)四間などと呼ぶこともあるが、堂のように真四角でないかぎり桁行の数字の方が大きい。桁行五間 とは建物の長い方の側面に柱が六本という意味である。梁間は簡単に言うと梁の長さ、もう少し厳密に言うと梁を支える両側の柱の中心間の距離のことをを指 す。

以下の図のような母屋だけの建物なら梁行と梁間(はりま)は同じだが、このように庇には別な梁が付くので大きな建物では、梁行と梁間は違うものになる。

建物の構造

母屋だけの建物で屋根の加重を説明しよう。図に書くとただの小屋に見えるがかなり大きい。柱は周囲だけで、内側にはない。屋根の表面は瓦だったり茅 だったり檜皮や板だったりするが、それをその下で支える木を垂木(たるき)という。その垂木を下から支えるのが桁(けた)である。ここでは軒桁も、母屋桁 も、棟桁(棟木)も合わせて桁と云ってしまう。その桁を下から支えるのが梁(はり)である。つまり屋根は梁の上に組まれ、屋根の重みは全て梁にかかる。屋 根の架構を垂木・桁・梁・柱の名称で図に書くとこうなる。

寝殿造の歴史

五間四面の寝殿の母屋の中三間と思って欲しい。あくまで単純化した概念図であり、斗供(ときょう)頭抜(かしらぬき)長押(なげし)等は省略している。より正確には太田博太郎監修 『図解古建築入門』が、法隆寺食堂(じきどう)を例に組み立て方を順に解説しているのでそちらを参照して欲しい。

梁の長さ(梁間)は寝殿の母屋部分が一番長い。母屋の柱間(はしらま)寸法は10尺(3m)を中心として最大14尺だから梁行(はりゆき)二間(ま)の梁の長さ(梁間:はりま)は6mから、場合によっては7〜8mにも及ぶ。

一間とは(ひとま)と読み、一間(いっけん)=6尺=1.8mではない。とりあえず寝殿造の図面では一間四方の一枡が四畳半強と思えばよい。柱間寸法については改めて触れる

その梁を支える柱が3本あるのは南から見ると左右両端だけである。つまり、通常梁を支えるのは両端の2本の柱だけ。屋根の加重は両端を柱の上に乗せ た梁の真ん中にズシリとかかる。梁は相当に太い立派な1本の木材でないと持ちこたえられない。でなければ屋根の重みで真ん中が折れてしまうだろう。

寝殿造の歴史

小屋組(屋根を支える骨組の構造)と、母屋の内部を彷彿とさせるのが春日大社の幣殿と舞殿である、床は張られていないが。

寝殿造と時代が重なる建築様式に総柱建物が あるが、総柱建物の場合には柱は梁行の両側だけでなく、真ん中にもある。屋根の重さは梁を間に挟んでも、上下関係では直接、一直線で全て柱で受けるイメー ジである。だから梁はそれほど太く立派でなくとも構わない。梁間二間(ま)の中間の柱を除く、母屋の内側に柱が無いという、たったこのことだけでも、寝殿 造は当時としては高級建築であったことが解る。

更に、総柱建物では柱間寸法は一般に2m(7尺弱)前後、または2.4m(8尺)前後であるので、柱から柱までの梁の長さは1/2ではなく1/3に近くなる。

また、東三条殿のよう な最上級の寝殿造でも、梁行6〜8mもある母屋の屋根を両側2本の柱で支えるというのは主屋である寝殿と、副寝殿に相当する対(たい)だけである。最上級 の寝殿造にはそれ以外にも沢山の建物があるが、それらは梁行二間(ま)が基本で柱は一間(ま)ごと、つまり梁の中間も柱で支えている。それらの建物では、 梁の強度は総柱建物程度で良い。というか、柱間寸法は並の総柱建物より大きくとも総柱建物なのだ。つまり最上級の貴族の屋敷においても、主人の住まう寝殿 や対屋(たいのや)は特殊な建物と云える。

先にも触れたが、普通「」とい うと屋根の軒のことだが、寝殿造で「庇」というと、屋根ではなく平面図上の床面のスペースのことを指す。屋根の構造がそのまま床平面の構造につながるのが 寝殿造の特徴のひとつである。従って普通の「庇」はここでは「庇屋根」と呼ぶことにし、以下「庇」とは「室内スペースで庇屋根の下の部分」を指す。「室内 スペース」とは一番外側の柱までである。縁側(簀子縁)も庇屋根の下だが、側柱(かわばしら:外側の柱)の外側なので含まれない。

イメージとしては、寝殿は母屋を中心に、そのまわりを庇が囲み、更にその外側を簀子縁が囲むというものである。 

庇による建物の拡張

もっとも単純な建物は切妻屋根の普通の小屋、下の図だと「A」である。だが先に見たとおり梁間二間(ま)の中間の柱(つまり室内の柱)を除いただけ でも高級建築。三間なら3×2で広さはおおよそ四畳半六つ分、54平米ぐらいである。その室内の拡張でもっとも簡単なものは前後に庇屋根を出しその下を室 内にすることだ。下の図だと「B」である。

  寝殿造の歴史

図の都合上寝殿としては小型の三間の母屋とした。

例えば梁間二間(ま)、桁行三間(ま)の切妻屋根の母屋の前後軒下に庇屋根を追加すると、奈良時代の藤原豊成の家である。もっともこの家は寝殿造よりもだいぶ前の時代なので庇は吹き抜けだが。

寝殿造の歴史
関野克復元図、太田博太郎、『図説日本住宅史』より

仁寿2年(852)の宇治花厳院への「尼証摂施入状」には、次のような建物がある。

五間檜皮葺板敷東屋一宇在三面庇〔南五間懸板蔀五枚、東二間懸板蔀二枚、北三間懸板蔀三枚〕

これを図面に直すとこうなる。「B」の段階のバリエーションだ。奈良時代の藤原豊成の家では庇は吹き抜けだったが、ここでは板蔀が付いている。 おそらく板蔀の付かない処は壁だったのだろう。もちろん北庇も五間で、板蔀はその内三間だったのかもしれないが、必要に応じた庇の拡張ならシンメトリック とは限らない。このような必要に応じた庇の拡張は平安時代末期、藤原頼長宇治小松殿にも見られる。

寝殿造の歴史
太田博太郎「日本住宅史」より。

四方に庇屋根を単純に張り出せば「三間四面庇」。上の図だと「C」の段階である。京御所の紫宸殿は東西南北に庇は出ているが、その床は庇同士ではつながっていない。これは寝殿造が完成するずっと以前の寝殿(正殿)の名残だろう。紫宸殿は儀式の場で、家屋文鏡のテラスに相当する。最上の格式を表すところである。格式とは古態だ。使われ方は後ろは塞ぐが前面は開放され、臣下は南庭から天皇に拝礼する。

寝殿造の歴史

太田博太郎、『図説日本住宅史』より

格式は古態を表すという最も身近な例は花嫁衣装だろう。庶民の場合は遡ってもせいぜい江戸時代後期だが、皇室の結婚式は今でも平安時代の装束である。

ただ、この古態は寝殿造の最盛期には消滅していたのかというとそうとも云えない。寝殿造の最盛期の中では末期にあたる1053年の宇治平等院鳳凰堂 の壁画にもこのような庇のつながっていない家が描かれている。この形式は最上級ではないししても、11世紀中頃でも一般的ではあったのかもしれない。

寝殿造の歴史
太田博太郎 『図説日本住宅史』 彰国社 1948 p.69

寝殿造と庇の基本形

その庇の床がつながると、我々の良く知る寝殿の平面図の出来上がりである。屋根も母屋の切妻屋根に一間の庇屋根を四方に付け、それをつなぎ合わせると入母屋造となる。太田博太郎はこう書く。

その過程は、当時の住宅平面を、三間一面庇、三間二面庇、三間三面庇、三間四面庇というように、母屋の桁行柱間と、そのま わりの庇の数によって表現していることからわかり、紫震殿の庇の四隅のところが欠けて十字形平面になっているのは、四面庇の発展過程を物語るものである。 そしてこの周囲に蔀戸が下げられるようになれば、寝殿の形式はほぼ完成する。(『日本建築史序説』 p.96)

それを平面図で表すと五間四面の寝殿は次ぎのようになる。 

寝殿造の歴史

庇の外側に簀子縁を巡らす。高位の者は簀子縁に高欄も設ける。母屋の片側に寝室・金庫室としての塗籠があるがそれ以外に壁はない。本当にそうかどうかは微妙なのだがとりあえずそうしておこう。壁の代わりに何があるのかについては「寝殿の外壁」で見ることにする。

主屋を寝殿と云って居た頃の、寝殿のある屋敷の建築様式を寝殿造と云うのがもっとも理に叶っていると思うが、我々はその寝殿造の平均像を知らない。「本当に そうかどうかは微妙」というのはそういう意味である。東三条殿や里内裏だけが寝殿造ではないのだが、史料の制約から本稿も当面そちらに偏った記述になってしまうことをあらかじめお断りしておく。 

使 われ方は、塗籠があれば住まいでもある。「でもある」というのは、寝殿は庭と一体化した儀式の場でもあるからだ。紫宸殿と同じ様に、母屋の背後(北側)は障子などで塞ぐが、前面南側は開放し、庭からの拝礼、あるいは庭での拝礼がある。庭からの拝礼は寝殿の主が天皇や院の場合、つまり里内裏や院御所(仙洞)などに使われるときで、庭での拝礼は寝殿の主が摂関家である場合である。

ただし、「三間四面庇」とか「五間四面庇」のように母屋をぐるりと庇で囲んでいるのが寝殿とは限らない。例えば「九条家文書」に残る大治3年(1128)の「平資基屋地去渡状」には「五間二面寝殿」とある(後述)。

機械的な造形物としての寝殿造

先に関野克の「住宅建築が生活圏内に包含される場合」を紹介したが今度は「住建築の一部に生活圏が営まれる場合」である。関野克はこう書く。なお全文は「6.3 如法一町家は左右対称なのか」で紹介する。

上位の寝殿造はその基本形式に於て、南面する寝殿を中心として大陸的な左右対象の配置をとったのであって、実用上の必要か ら生じた殿廊配置でないことは明らかである。全く機械的な造形物の中に流体の如き生活が流れてゐたのである。或る部分では狭い所に多くの分量が流れ他の部 分は全く流れる必要が無かったと思われる。(中略)
そのー殿一室は恰も歌舞伎の舞台の如きもので、大道具・小道具によって生活圏を設定しなければならなかった。(中略)、舗設(しつらえ)は建築と生活との遊離を調和する為め生活の要求から生じた制度とされる。

安心して眠れることが最大の要件であった太古の住宅から発展して複数の殿舎になっても、母屋が内側に柱の無い幅が二間の大きい建物になっても、庇が付いても、前述の通り、建物の構造は工法の面からパターンが固定され、自由な間取りなどあり得ない。三間四面とか五間四面という間面表記で 十分な、「夜の御殿」(よるのおとど)と「昼の御座」(ひのおまし)の母屋に庇と簀子縁が加わった寝殿と、対屋、そしてもっと単純な単廊、複廊の組み合わせである。対屋は寝殿同様の母屋に庇とは限らない。大陸的な左右対象でなくとも「機械的な(単純な)造形物の中に流体の如き生活が流れてゐた」ことに変わりはない。それが初期の寝殿造である。
そのうち建具の進歩により隔てが布のカーテンからパネルに、具体的には遣戸障子(現 在の襖)の出現、天井の採用、後で説明する障子帳などで間取りに近いものも出来るようになる。しかし建物自体は以前と変わらない母屋と庇からなる寝殿、対屋、単廊、複廊の組み合わせである。極論するなら、寝殿造とは母屋と庇と簀子縁、そして廊の組み合わせの箱の中に、室礼(しつらえ)で生活の場を作る上級住居様式と云う事が出来る。

それ以外の住宅については、土間、あるいは一部が板の床だったと思われている。寝殿造は後に書院造に変化してゆくが、そうした上級住居以外では町屋でも農家 でも(おそらくは小規模在地領主でも)、土間が必ずあり、平安時代の下級官人の住居は『今昔物語集』などを見る限り町屋のレベルの者もある。近世に到って 大きな家を構える豪農、豪商レベルにも土間があり、寒村では土間だけの住居もかなり見られた。

孫庇

室内スペースを更に拡張したいときには庇屋根の下にまた庇屋根を付ける。あるいは庇屋根を長くする。その拡張スペースを孫庇という。「五間四面」の中でも更に上級の寝殿では北を孫庇で拡張することが多い。庇、または孫庇の外側の柱間に蔀(後述)をつける。これが室内と室外の境である。

寝殿造の歴史


広庇

孫庇の中でも蔀は母屋側で、横三面吹き放ちにしたものを広庇と言う。いわば屋根付きのテラスだ。

寝殿造の歴史

なお柱は通常丸柱だが、弘庇を支える柱だけは角柱である。柱にも格があるらしい。柱が全て角柱になるのは建具が発達し、床に畳みを敷き詰めるようになってからである。

寝殿造の歴史

十輪院の広庇。寝殿造の様式を残している。寺院に残る弘庇には他に法隆寺・聖霊院元興寺の極楽堂唐招提寺の礼堂などがある。


初稿 2015.10.15