寝殿造 1.2.1 寝殿の外壁1・蔀 2016.9.5 |
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外壁外壁とタイトルつけながら、実は壁は無い。摂関家の東三条殿では塗籠以外に固定壁は確認されていない。紫宸殿の場合でも固定壁は母屋西側の庇との間である。外壁の変わり、屋内と屋外を仕切るものは、基本的に蔀(しとみ)と妻戸(つまど)、遣戸(やりど)である。 摂関家の東三条殿は寝殿造の中でもっとも文献史料が多く残る儀式用邸宅で、全容のある程度が把握出来る。同時期の他の邸宅の情報は断片的である。 蔀(しとみ)夜間は庇や孫庇の外側柱間(はしらま)に蔀戸(しとみど)を下ろしている。用途は雨戸のようなものと思えば良い。 上の画像は法隆寺の元僧坊である三経院西面。 参考に蔀(しとみ)の図面をあげておく。法隆寺ではなく西明寺のものだが。横材は上から頭抜(かしらぬき)、内法長押(うちのりなげし)、切目長押ともいう下長押(しもなげし)である。長押の断面は四角でなく三角であることがこの図で判る。なおこの図面は柱の芯々で9.4尺(2.84m)、内法長押と下長押の間は8.1尺(2.4m)。建物によって若干変わりはするが、平均的なサイズである。柱は37〜38cmで描かれている。 日本建築学会編 『日本建築史図集』の図面から加工。 蔀戸はその形状から格子とも呼ぶが、現在の格子のイメージとは違い、格子の裏に板を張り付け風も光も雨も遮る。そもそもそのためのものだ。多くは上下二枚からなり、昼間は上半分を跳ね上げ、軒先にL字形の釣り金具で釣っている。下半分は解放時には取り外している。 下の画像は法隆寺東院伽藍、夢殿の礼堂の蔀(しとみ)下部である。丸柱に木が打ち付けてあり、その溝に上から蔀(しとみ)を落とし込んである。取り去るときには、上の蔀(しとみ)を跳ね上げて止め、下はあの木枠の高さを引き上げて抜かなければならない。 何人でやったのだろうか。今の人間なら四人がかりでも重労働だろう。 『吾妻鏡』にもその開閉を担当する御所の格子番が出てくる。建長4年4年3年条、正嘉元年.12年29年条である。前のページの最後の画像と同じだが、昼間はこうして開放し、御簾や几帳(後述)を内側に置く。絵巻に登場するほとんどはそのパターンである。 この画像でも判る通り、上下2枚と云っても、上6割、下4割ぐらいで上の方が大きい。 法隆寺・聖霊院での現状ではあるが、細部を見ていこう。なお、聖霊院には西面に鎌倉時代の改築時(1284年)、東面に南北朝時代の蔀(しとみ)も残るが、ここでお見せする正面の蔀(しとみ)は江戸時代の元禄4年(1691)のもの。それでも既に325年前だが。 まずは内法長押に打ち込まれた蝶番である。 上の半蔀を跳ね上げて引っかける吊金物。 跳ね上げた上蔀(しとみ)を引っかけたところ。引っかける場所が摩耗しないように金具が付いているが、 格子を止めるのは鉄釘ではなさそうである。これがそうかは判らないが、竹釘と読んだ覚えがある。
比率は少ないが、一枚もので内側に持ち上げて釣ることもある。内裏紫宸殿の格子である。内裏では蔀(しとみ)を格子と呼ぶ。ただし現存するものは江戸時代のものである。 「蔀(しとみ)」とは言葉としては「覆い」のことらしい。平安時代末期の『色葉字類抄』には「編 シトム 蔀 シトム」という動詞が記されており、「覆い」「塞ぐ」という意味の動詞から「覆うもの」「塞ぐもの」という名詞になったとされる。930年代に書かれた『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)にも「覆暖障光者也」との記載がある(『建具のはなし』 p.19)。 我々は、蔀(しとみ)というと上の画像のような格子状の板のパネルを思い浮かべるが、そうと限った訳ではない。家屋文鏡には蔀を押し上げたような図柄が描かれている。
『宇津保物語10』 「藤原の君」には「二町の所、四面に倉建て並べり。住みたもう屋は三間の萱屋(茅葺屋根の家)、かたはし崩れ、網垂蔀。めぐりは檜垣。長屋一。侍(侍 所)、小舎人所」云々(p.190)とある。極度に節約家な大臣の屋敷で「酒殿ノ方(裏手)は蔀の下まで、畑作れり」と。この「網垂蔀」は竹や板を編んだパネルを垂 らしているということらしい(『建具のはなし』p.20)。『更級日記』には同じ萱屋ながら庶民の家の表現を「かりそめのかやや(萱屋)のしとみ(蔀)もなし」とある(新潮社 p.14)。 著者の菅原孝標娘は母方の叔母である『蜻蛉日記』の作者藤原兼家室から『源氏物語』など借りて読みふけっていたという。「かりそめのかやや(萱屋)のしとみ(蔀)」とは『宇津保物語』にある「網垂蔀」を意識しているのかもしれない。 清少納言は『枕草子』「くちをしきも」に蔀と格子を別物として書いている。
我々は蔀(しとみ)というと、格子状に組んだ骨組みの裏に板を打ち付けたものをイメージするが、上記の記述では、蔀(しとみ)でない素通しの格子と、雨風を防ぐ蔀(しとみ)が別にあったことになる。「粉河寺縁起」の田舎の猟師の家にも格子ではない蔀(しとみ)が。 「年中行事絵巻」の京の町屋にも蔀(しとみ)は描かれている。おそらく金具は用いていないだろう。 時代はだいぶ下がるが、三代将軍徳川家光が二条城に建てさせた聴秋閣にはこういうものもある。 現在は横浜の三渓園に移築 寺院建築や、絵巻の寝殿造の蔀(しとみ)ばかり見ていると「こんなものは蔀ではない!」と云いたくなるが、「蔀=覆い」なら、これらも立派に蔀(しとみ)だ。関根正直の『増補宮殿調度図解』によれば、大饗のようなときには下も外すが、多くの場合は上の格子は釣り上げても下は外さず、下のみを外すのは葬送のお棺を出すときだけという。 そういえば『建築大辞典』にはなんと?
ここまでは寝殿造の蔀(しとみ)だ。続いて・・・
「網垂蔀」という言葉は出てこなかったし新井白石の説も後付けの想像だが、「粉河寺縁起」も「年中行事絵巻」の町屋のものも、蔀(しとみ)で良いらしい。日本ではかなり一般的に使われているようである。格子状の蔀だけが蔀ではないということだ。 しかし中国伝来の建具ではなさそうで、正統な仏教建築、例えば官寺の金堂などには使われず、伝法堂でも、その前身である橘古那可智邸復元図でも開口部は両開き戸である。文献史料では仁寿2年(852)の宇治花厳院の五間三面の檜皮板敷東屋の庇の柱間(はしらま)には全て板蔀が「懸」けられたとある。その他の史料からも9世紀後半に我々が知るような蔀(しとみ)が普及している。蔀(しとみ)は檜皮葺とともに建物の国風化のひとつ、寝殿造を特徴づけるものと考えて良いかもしれない。 蔀(格子)は開閉が大変なので東西の面には簡単に開けられる妻戸(両開の木製の戸)、後には遣戸(やりど:引違戸)も使われるようになる。蔀の内側が室内である。内側に御簾(みす)を下ろす。 なお絵巻には下の絵のようにえらく短く書かれることが多いが、これは室内の様子を伝えるための絵巻的デフォルメである。 雨戸のようなもので日中は開放すると書いたが、儀式や宴が日常生活である大臣家以上の最上級の寝殿造では原則そうだったろうし、最上級でなくとも上の絵のように人が集まるときにはそうしていただろう。しかし絵巻には下の蔀を外していない状態も時々描かれている。 この二つの絵は『法然上人絵伝』だが、二つ目は雪の日なので明かり取りのために上は開けて、下は防寒のために付けたままにしているのだろう。なおこの絵巻は鎌倉時代末の成立、描いている時代も鎌倉時代なので、蔀の内側は御簾でなく明障子(今の障子)がはめてある。ちょうど聖霊院のこの状態である。聖霊院も鎌倉時代の改造である。
下の絵はやはり鎌倉時代末の『春日権現験記絵』だが全く日常の姿である。蔀とともに舞良戸(まいらど・後述)も使われている。南面なのか北面なのか判らないが、一間の蔀だけ外して隣の一間の蔀に立てかけている。家人が沢山居る大臣家や鎌倉将軍家などでは外した蔀は納屋などに運んだのだろうが、中流の屋敷ではこういうことも良くあったのだろう。 この蔀(しとみ)は下は半分でもなかなか重く、室生寺金堂では正面の二間は開けていたが、外した蔀(しとみ)はすぐ脇に置いている。上の絵と同じである。 仏教寺院でも蔀(しとみ)を使っているではないか、と言われるかもあしれないが、これは本堂で金堂には蔀(しとみ)は使われていない。それに室生寺の屋根は檜皮葺にこけら葺、純中国風の寺院ではない。 重さは、3m脇にずらすだけでもこの車付きの台を使っていることで想像できるだろう。私が見た中では、この室生寺の蔀(しとみ)が一番骨太だった。先の聖霊院の蔀の画像とみくらべると一目瞭然だろう。
ところで、この室生寺金堂では、蔀(しとみ)の上半分の一部に板ではなく紙が張ってあった。明障子の原型、とは云えないが、変形ではあるだろう。
それにしても一番外側のシェルターである蔀(しとみ)に和紙とは、横なぶりの雨にはどうしたのだろうか。木立の中の堂であるので横なぶりは無いということなのかもしれないが。この撮影許可を頂いた若いお坊さんに聞けばよかったのだが、この明かり取りの発見に興奮して、そこまでの余裕は無かった。 単体で使われる蔀(しとみ)その他にも蔀は単体で様々な使われ方をする。単体の蔀というのは長方形の木のパネルで、上の写真で釣り上げられている長方形の戸1枚である。 ひとつには竪蔀(たてじとみ、立蔀とも)といって、簡単に言うと可動式の屏である。可動式と云っても移動可能な、単に置いてあるだけの屏ということである。地面に置く衝立の大きなものと思えば良い。このときには土居(つちい)桁に柱を立て、上に横木を渡して枠を造り、その中に長方形の木製パネルである蔀(しとみ)を、こんどは竪(たて=縦)に一間あたり二枚填める。だから「たてじとみ」という。侍廊(後述)の目隠しとして良く使われる。
もうひとつ、この格子を臨時の外壁に用いて部屋を作ることがある。文献に残る実例の場所は中門廊(後述)である。中門廊は通常寝殿前の南庭と侍廊や車宿などの外郭を隔てる。外郭側は漆喰の壁になっているが、庭側は吹き通しで、屋根はあるが壁はない。通常中門廊というと、中門の北側で、いわば寝殿とか対とか屋敷の中心的な建物の玄関になるところだが、中門の南側にも中門南廊がある。 東三条殿が短期間里内裏となったとき、その中門南廊が内侍所(ないしどころ)となって三種の神器のひとつ、鏡が置かれたことがある。そのときのことが『兵範記』保元2年(1157)7月5日条に記されている。
五ケ間じゃないの? とは思うがそれは置いといて、「立々蔀」は「蔀を縦に立てる」ということだろう。北から桁方向に三間、つまり4本目の柱の梁の下の柱間に蔀を縦てに多分二枚設置して区切っている。 しかしそれでは真っ暗ではないかと思われるかもしれないが、だから北側の鏡を置く部屋には「第二間中央懸鉄燈楼」で、鉄燈楼とは春日大社にあったこういうようなものだろう。内侍の部屋は南の妻戸を開け放して御簾を下ろしていたのだろう。なお、東三条殿には中門廊は東西2つあるが、この中門廊は東だと思う。西には中門南廊は無いからである。 初稿 2015.10.31 |
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