寝殿造 1.2.2 外壁2・妻戸、舞良戸 2016.9.14 |
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妻戸妻戸(つまど)とは両開き、観音開きの戸である。妻戸の妻とは「建物の長方形のはし。棟と直角の壁面」(広辞苑)という意味もあり、そこに設ける両開戸ということから建物の両開戸一般を妻戸という。 『年中行事絵巻』巻十、六月祓に描かれる寝殿。右側面(妻)に両開戸が開いている。だから妻戸(つまど)である。この貴族の寝殿はレイアウトの都合から三間四面の小さめに描かれているが、ほとんど東三条殿をモデルにしており、あの妻戸がこの図の中のどの妻戸かすぐに判るだろう。東透渡殿の正面である。この絵では右上で男が渡っている橋のようなものが透渡殿(すきわだどの)である。 飛鳥・奈良時代でも、鎌倉時代でも、中国伝来の建築様式では開口部は両開きの戸である。一方で蔀(しとみ)は前のページで見たように9世紀以降の国風化の中で上級住宅にまで普及した日本固有のものらしい。なので寺院建築には唐招提寺の金堂や大講堂のように屋根は瓦、開口部は例えば前面でも両開戸の連続とするが、内裏など天皇の住まいは檜皮葺屋根で開口部は、蔀(しとみ)が基本だった。 しかし蔀(しとみ)は昼間は開けていても夜は閉じる。既に見たようにその開け閉めは結構な大仕事である。夕刻にそれを閉めたあとの寝殿への出入りには不便であり、そのために寝殿の両脇、つまり妻に中国風の両開戸を付けた。いや、残した。法隆寺の元僧坊である三経院西面にはその両開戸が連続している。この両開戸の形が妻戸(つまど)と思って良いだろう。もっと手近に、お寺の門の扉を思い出しても良い。 参考に妻戸(つまど)の図面をあげておこう。上の法隆寺の画像とは異なり、西明寺のものだが。違うところは柱に幣軸(へいじく)とあるところか。この図面は柱の芯々で9.4尺(2.84m)、内法長押と下長押の間は8.1尺(2.4m)。建物によって若干変わりはするが、平均的なサイズである。幣軸(へいじく)や方立(ほうだて)があるので戸自体は高さ2.16m、幅は二枚で約2m、一枚1mぐらいである。 同寺本堂は檜皮葺で、大仏様以前の寝殿造と同じ技法で建てられている。 同じ法隆寺の元僧坊でも東側の聖霊院の西面では妻戸と蔀(しとみ)が組み合わせで使われている。一番手前(右)は弘庇のなので除外すると、開いた妻戸、上を開けた蔀(しとみ)、上下とも閉じた蔀(しとみ)、そして開いた妻戸と続く。これが寝殿造での寝殿の側面と思って頂きたい。 妻戸(つまど)や蔀(しとみ)の内側に明障子があるのは、この建物が鎌倉時代のものだからである。更にこの左にずっと建物が続くのだが、寝殿造の実物は現存しないのでご容赦願いたい。 なお、妻戸(つまど)には二つ折りのものもある。 『慕帰絵詞』より。 我々が良く見る両開戸の形は例えばこの建長寺仏殿のようなものである。何処が違うかというと、扉の軸受けの部分である。建物から飛び出している。これは鎌倉時代に中国(南宋)から伝わった形式であり、平安時代には無い。寝殿造では長押がその役目を果たす。禅宗様は大仏様と同様に、貫(ぬき)を多用するので長押(なげし)が無い。そこであのような軸受けが必要になる。 鎌倉時代以降に新築、または修復された寺院建築には新中国様式の扉が多いが、鎌倉時代以降でも寝殿造系の様式、というよりも鎌倉時代以前の扉の様式は、僧 坊などの寺院建築の一部、日吉大社など神社建築に残っている。例えば二棟廊の原型にも通じる奈良時代の三棟造の門、法隆寺の東大門、日吉大社は二棟の廻廊の門、復元では唐招提寺の南大門、薬師寺の二棟廻廊や南門と中門などに見る両開戸の形式が古来のものである。
遣戸(やりど)・舞良戸(まいらど)引違の戸のことである。外壁に使う場合も、室内で今の襖や障子の様に使う場合も遣戸(やりど)である。 いつ頃からあるものなのかと云うと、『建築大辞典』によると遣戸は平安時代後期から。舞良戸は「中世において初めて現れた板戸のひとつ」とある。『建築大辞典』の中世はいつからなのか解らないが鎌倉時代? 一方『日本史広辞典』によると遣戸は「引違いの板戸の総称。おもに舞良戸のこと」、舞良戸は「平安時代の中頃に成立」とあり微妙に一致しない。よく解らないが、とりあえず舞良戸の初見は平安時代の中頃、でも一般化したのは鎌倉時代以降と解釈しておこうか。最近出版された小泉和子編『図説日本インテリアの歴史』では平安時代後期とある。
いずれにせよ、儀式と格式に拘る里内裏とか摂関家の寝殿には蔀が長く残るが、それ以外では蔀は徐々に減少し、舞良戸が浸透してゆく。儀式と格式に拘る里内裏とか摂関家の寝殿になかなか浸透しなかったのは、両開戸が中国伝来の格式ある戸の様式であるに対し、遣戸は日本で発明さらたもので、蔀(しとみ)ほどの歴史も無い。内裏でも使われていない。イコール格が低いと見なされたのだろう。寝殿造と云えば中国離れの国風化で、『源氏物語』などひらがな文学も花盛りな時代以降だが、それでも中国(あるいは大陸)文化は上品なものと見なされたということだ。 鴨居(かもい)の溝も今では戸の一枚毎に掘られているが、台鉋がまだ無く、槍鉋でその溝の加工は大変だったので、二枚の戸がひとつの溝に填められることもあったらしい。舞良戸では見たことが無いが、明障子でなら元興寺・極楽坊や十輪院にある。子持障子という。子持障子でない場合、つまり一枚毎に溝がある場合でも現在とはちょっと違う。例えば下の画像は法隆寺・聖霊院の正面の明障子である。お解りになるだろうか。 撮った位置は中なのだが、外を向いてなのでお許し頂けた。 障子の底の横枠は溝の幅と同じなのだ。しかしそうすると、二本の溝を隔てる畦の隙間だけ障子に隙間が出来てしまう。そこで障子の両端の縦枠を、溝や障子の底より幅広に作り、障子を閉めたときに隙間が出来ないようにしている。この明障子は近世に入ってからのものかもしれないが。参考にはなるだろう。 聖霊院にはもうひとつの方法の例があった。残念ながら画像は無いが。どういう方法かというと、閉めた障子が重なる処、柱間(はしらま) の中央の畦の部分に細い柱、方立(ほうだて)が立っているのである。それで障子の隙間を埋める。絵巻にもそれが描かれている。『春日権現験記絵』で隣家に火事があった家である。 当時戸や障子は高価なものだから外して逃げようとしたのだろう。障子があったと思われる柱間(はしらま)の真ん中に細い柱が見える。判るだろうか。右側の刀を持つ男の上の方である。 長押(なげし)・下長押ついでに長押(なげし)の説明もしておこう。長押は現在の和風建築では単なる飾りだが、奈良時代から寝殿造の時代にかけては構造材である。柱が倒れないように分厚い板を上下に打ち付ける。いや、単に板を打ち付けただけなら構造材にはならない。横揺れで簡単に倒れてしまうだろう。下の写真を見て判るとおり、柱に合わせて削りとってあり、柱とその削りをピッタリ合わせた上で、太い釘を一本打って固定している。 画像は法隆寺西院伽藍の廻廊の連子窓(れんしまど)の下部、いわば腰長押にあたる。 下長押(しもなげし)下長押はこれまでの画像にも沢山出ている。例えば上の『年中行事絵巻』にある東三条殿での大饗のシーンの床の段差の部分。ちょうど柱と交わる位置に黒い点が見えるが、あれが柱に下長押を釘で打ち付けた釘隠しである。この釘隠しは上級建築であることを示す記号として絵巻の屋敷の描写に良くでてくる。 画像の例とししては既に見てきた春日大社・桂昌院のこの舞良戸の画像である。舞良戸(まいらど)の下の、簀子縁との間の段差の部分である。ここでは金色の釘隠しが見える。下長押(しもなげし)は、縁長押、切目長押、足下長押などともいうが、本稿では下長押に統一する。 内法長押(うちのりなげし)内法長押(うちのりなげし)はこのあと頻繁に出てくる。柱の頂点の横柱、頭貫(かしらぬき) の下(内)で、蔀(しとみ)や妻戸(つまど)、御簾などの上面となる。この画像は画像は法隆寺東院伽藍の夢殿の礼堂で、蔀(しとみ)の上の部分である。建物の角ではあるが、長押(なげし)に柱に合わせた削りが入れてあるのが良く判る。 夢殿の礼堂は鎌倉時代も1237年の建物なのだが、意外と大仏様によらずに旧来技法で建てているように見える。しかし、鎌倉時代初期の大仏様の工法伝来、具体的には貫(柱を貫いて補強する横木)が発達してそちらが構造材となり、内法長押は古式を伝える装飾と化していく。 初稿 2015.10.31 |
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