寝殿造 2.1 寝殿造の全体像、堀河殿  2017.3.2 

寝殿造の全体像

寝殿造の全体像の例として堀河殿の復元図(太田静六1987復元)をあげておく。ある程度の史料的根拠があり、これから説明する要素も揃っているからである。

  • 第一に、寝殿造でもっとも史料が残るのは東三条殿だが、堀河殿はそれに次ぐ。
  • 第二に、世間一般ではこれぐらいのものが寝殿造と思われている。
  • 第三に、東三条殿は本来の左右対称が崩れだした姿と云われるが、堀河殿はそれに比べれば一般の左右対称イメージに近い。

世間一般では寝殿造というと『源氏物語』の六条院復元図のイメージが強いが、あの復元図にはさしたる根拠はない。『源氏物語』が架空だからではなく、『源氏物語』の六条院に書かれていないものが復元されているからである。私は堀河殿をもって「これこそが寝殿造」などと云うつもりは無いが、六条院復元図を使うよりはましだろう。

なおこの屋敷は東三条殿と同様に南北2町の敷地であり最上級寝殿造の中でもトップクラスである。下の図はその北側寄りの一部である。堀河殿は堀川殿とも書かれるが、ここでは太田静六にならって堀河殿とする。

堀河殿

 

藤原基経の頃

堀河殿の名が現れるのは9世紀の藤原基経の頃からである。『大鏡』巻二「基経」にこうある。

御家は堀川院と閑院とにすませ給ひしを、堀川の院をばさるべきこと(表だった御用)のおりおり、はればれしきれうにせさせ給ひ、閑院をば御物忌みや、又うとき人(疎遠な人)などはまいらぬ所にて、さるべくむつまじくおぼす人ばかりを御供にさぶらはせて渡らせ給ふおりもおはしましける。堀川院は、地形のいといみじき也。大饗のおりとのばら(殿方)の御車のたちやうなどよ、尊者(主賓)の御車は川よりひんがしに立て、牛はみはし(御橋)のひらき柱にひきつなぎ、こと上達部(公卿)の車をば河よりは西にたてたるがめでたきをば。・・・この高陽院殿にこそおされてにてはべれ。(日本古典文学大系21、pp.69-70)

  

藤原兼通の頃

10世紀の村上天皇の頃には藤原兼通の所有だった。『日本紀略』にこうある。

応和三年(963)正月二日、今日中宮自職曹司遷御権大夫兼通朝臣堀川宅

『栄華物語』では天禄2年(971)の項に堀河殿を新造したとあり、天禄4年(973)2月には娘?子(こうし)を円融天皇へ入内させている。娘を入内させる前提でその里第として整備したのだろう。?子は堀川中宮と呼ばれる。そして堀河殿は里内裏となった最初の屋敷でもある。貞元元年(961)7月26日のことである。『栄華物語』巻第二にこうある。

かかるほとに内(内裏)も焼けぬれば、御かと(帝)のおはしますところ見苦しとて、ほり河殿をいみじう造りみかき給ひて、内裏のやうにつくりなして内いでくるまではおはしまさせんと、いそがせ給なりけり。・・・ほりかはの院を今内裏といひて、世にめでたうののしりたり。(日本古典文学大系75、p.75)

「御かと(帝)のおはしますところ見苦しとて」とは5月11日の内裏擢災で職曹司に避難していたためである。そのときは内裏再建とともに戻っているが、天元5年11月の内裏は擢災に際して堀河殿に移ったあとは、花山天皇に譲位後も約一年間は堀河殿を院御所とした。

 

道長・頼通の頃

その後のことについて太田静六はこう書く。

「円融上皇が仙洞として堀河殿を用いられたのを最後に、以後は半世紀近くの間、院の名は史上から姿を消すが、平安盛期になり宇治関白藤原頼通の所有に帰してから再び使われるようになる」。

それは勘違いだろう。史料にも歴史書にもその半世紀の間の堀河殿が記されている。『栄花物語』、『小右記』などによると、堀河殿は兼通からその子の藤原顕光に引き継がれている。20世紀の歴史書では1963年の角田文衞 『承香殿の女御』 の舞台がこの堀河殿である。

堀川殿は長徳3年(997)に顕光の娘で一条天皇の女御であった藤原元子の里第に なっている。さらにその妹藤原延子三条天皇の第一皇子である敦明親王(小一条院、あつあきら)の妃になり、敦明親王はここ堀河殿に婿として住み、延子との間に二男一女をもうけた。

敦明親王は長和5年(1016)後一条天皇の即位により東宮となったが、これは三条天皇が道長の外孫後一条天皇に譲位する条件としたためである。しかし敦明親王の外祖父藤原済時は既にこの世になく、後ろ盾を持たなかった。敦明親王は翌年東宮を辞退し、院号を贈られ小一条院となる。それにより道長は再び外孫を皇太子に出来た。後の後朱雀天皇である。道長は小一条院を娘寛子の婿とし、寛子の住む高松殿に迎え優遇する。有名な顕光の悪霊伝説の始まりである。堀河殿は顕光の死後おそらく売却されたようである。

太田静六のいう「半世紀」後とは『左経記』長元5年(1032)3月25日条である。

廿五日丙申、天晴、参殿、御共参堀河殿〔割書:件家故経国朝臣宅也、而近江守行任依為因縁伝領、令献相府、日来加修理、来月四日密可渡給云々〕、山石水木誠是称翫、但故橘逸勢怨霊留此地、代々領主快不居住云々。及午後帰家。

太田静六は故経国朝臣も近江守行任も誰だか解らないというが、これも解っている。

角田文衞によれば藤原経国は道長をとりまく受領のひとりで、本邸のほか桂にも立派な別邸をもっているという。堀河院を購入できるほどの蓄財は尾張国から得たものだろう。長和5年(1016)8月に尾張国の百姓たちが大挙上京して国司経国の不正を訴えている。坂本賞三は「御堂関白記寛仁元年(1018)5月25日条に「尾張前守経国依病出家云々」とあり、この上訴事件により解任されたらしく」と書く(『日本王朝国家体制論』 pp.204-205 注)。その後治安2〜3年(1022〜3)ごろに堀河院を購入し、先の『左経記』には「故」とあるので、長元5年(1032)より前に死んだのだろう。

なお、この尾張国の苛政上訴は有名な永延2年の「尾張国郡司百姓等解」とは別件である。この当時は大ざっぱに云えば律令制から王朝国家体制への転換する時期。厳密に云えば前期王朝国家体制から後期王朝国家体制への転換点(坂本賞三説)であり、在地の郡司・百姓と受領の対立が激化し、苛政上訴の嵐が吹き荒れていた。この時代は『源氏物語』などで「豪華絢爛、王朝文化が花盛り」というイメージが強いが、ある意味政情不安で治安も悪化し、放火が多発している。『小右記』治安3年(1023)12月23日条には丹波守藤原資業の屋敷が騎兵十余人に襲われ放火されたことが記され、実資は風聞として「国司在国云々、任修之務苛酷無極云々、州民之愁多結凶党之類成犯歟、抑洛中不異坂東」と書く。

その尾張前守経国からここを継いだ近江守行任は、曾祖父は醍醐天皇の子有明親王。父は道長の家司源高雅で、この源高雅は『御堂関白記』にしばしば登場する。高雅は娘の一人を道長の庶子・藤原頼宗にとつがせている。行任も道長や頼通の側近で能登守、敦成親王家(後の後一条天皇)の蔵人、東宮の蔵人などを歴任した。「近江守行任が因縁に依り伝領」とあるが、どういう因縁かは解らない。経国の娘が行任の妻だったということか。『尊卑分脈』第三編p.451には母修理亮(藤)親明女とある。妻は不明である。この時代、屋敷は女系で相続されることが多い。行任から藤原頼通への献上はおそらく成功(じょうごう)だと思う。それで近江守になれたのだとしたら、その献上の時期は万寿4年(1027)から長元3年(1030)の間だろう。その理由は長元9年(1036)7月に近江守として苛政上訴を受けていることからその8年以内。『小右記』 長元4年(1031)7月7日条に「近江守行任」の御倉町の領宅焼亡が出てくること、国司の除目は通常は正月であることからその前年までということになる。

角田文衞は
「彼は摂関家の側近者ばかりが任じられる近江守となった。ところが、この時とばかりに誅求したため、長元9年(1036)7月には近江国の百姓から訴えられるような失態を演じたのである。しかし、頼通には大邸宅を献上し、上東門院には御倉町の自邸に遷御を仰ぐなどして、百姓誌求の責をとられないように腐心していたのである」と書く。しかしそれは長元9年7月であり、堀河殿を頼通に献上したのは長元5年(1032)3月以前である。長元4年(1031)7月に既に「近江守行任」とあるので5年と7ヶ月後の苛政上訴である。近江の国司の任期は4年なので、行任は重任(ちょうにん)されて二期目に苛政上訴となったのだろう。初任より重任の方がうまい汁を吸えるらしい。重任は1度だけで、2度3度はあまり聞かない。

ともかく頼通は4月4日に堀河殿に移った。『左経記』の同日条にはこうある。

天晴、晩景参殿、被仰云、今夜欲度堀河家、依旧宅、不用渡新宅之礼

なお太田静六は『小右記』と書くが、『小右記』に4月4日条はない。下記記述は『左経記』である。また、太田は「頼通は日来修理を加えたというが、この時は庭園関係が中心で、御殿の方は旧のままであった」(『寝殿造の研究』 p.400)と云うが、頼通は寝殿の再建をしているはずである。というのは『小右記』 長元4年(1031)1月16日条に「去夜堀河院寝殿巽付火、撲滅畢とあり、少なくとも寝殿は焼け落ちていることが知られるからである。

先に触れたように、この時代、治安は悪化し、放火が多発している。ただ、『左経記』に「依旧宅、不用渡新宅之礼」とあるので、燃えたのは寝殿だけだったのかもしれない。いずれにせよ、献上されたから「日来修理を加え」ではなく、献上されて頼通の所有になっていた寝殿が焼けたから「日来修理を加え」なら、頼通への献上は長元3年(1030)以前ということになる。

太田静六は

折角、献上されたので堀河殿に渡ったものの、頼通は自ら創建した豪邸の高陽院を主として用い、父祖伝来の土御門殿すら殆ど使用しなかったくらいなので、堀河殿もその後は用いなかったとみえる。

藤原頼通は高陽院がメインの屋敷だったが、この頃、『左経記』などの長元4年(1031)4月29日条によると新造の東三条殿が。同じく『左経記』同年12月11日条によると上東門院彰子の京極院(土御門殿)も焼け、頼通は高陽院を彰子に提供して自分は白河院に住み、一方で堀河院の寝殿の再建を急がせたものと思われる。それが成って移徙を4月4日に決めたというのが『左経記』長元5年(1032)3月25日条だろう。堀河院の寝殿が焼けて以降なら14ヶ月。『左経記』にある頼通が高陽院を提供して以降なら3ヶ月である。

ところで堀河院が頼通の所有となる前から頼通の縁者が住んでいたようである。 太田静六は

却って頼通の弟で内大臣から右大臣へと進んだ頼宗のことを、世に堀河右大臣と呼ばれるところを考えると、その後は主として弟の右大臣頼宗が用いたことが解る。

と云う。しかし道長の庶子・藤原頼宗夫妻は堀河殿が頼通に献上される前、おそらく経国所有の頃からここに住んでいた。というのは、『小右記』万寿2年 (1025)8月27日条に、頼宗の室(近江守行任の姉妹か)が産期に邪気におびえ「出自堀河院」、つまり堀河院を出たとある。つまり万寿2年(1025)以前から彼らはそこに住んでいたということだ。頼宗の室が何を怖がったかはあとで触れる。

堀河殿がこのとき既に行任のものだったのなら、顕光が死んで娘の元子が経国に屋敷を売り、その経国が死に、行任が相続ということが4年以内に起こったことになる。そうかもしれないが何か慌ただしい。それよりも、経国が屋敷を元子から買い取り、そこに元子ら顕光の遺族を住まわせつつ、摂関家周辺の者にも住まいとして提供していたという方が辻褄は合う。なにしろ堀河殿の敷地は広大で、対や廊がいくつもあっただろう。里内裏が良い例であるが、所有者は必ずしも居住者ではない。かつ、寝殿や対には別の家族が住むことは当時は普通のことである。「貸す」というのも利益供与、成功の一部だろう。そして約10年後に経国が死に、母か妻かの縁で行任の所有となる。行任にとっては頼通周辺の者に屋敷を提供しているのは経国以来なので自分の成功にはならない。頼通の縁者ではどいてもらう訳にもいかない。そこでその地券を頼通に献上して近江守のホストを得たと。もちろん確証はないが、4年以内にドタバタというよりはありそうな気がする。

頼通の頃の堀河殿の住人で史料により明らかなものは次の通りである。

  1. 第一は道長の庶子・藤原頼宗夫妻。その頼宗の子能季も「堀河中納言」といわれ(『栄華物語』巻39「布引白滝」)、頼宗の三女昭子は後三条天皇の女御であり、天皇崩御ののちには堀河院にもどり「堀河の女御」の名で世に知られている(『栄華物語』巻38「松のしづ枝」)。つまり頼宗一家は頼宗妻の産期には一旦堀河殿を離れたが、一時的なものでその後もここに住み続けたことになる。
  2. また道長室源明子の兄である前権大納言源俊賢(万寿4年(1027)没)の未亡人と源隆国がこのころ堀河院に住んでいた(『小右記』元4年(1031)3月23日条)。隆国の兄の源顕基も出家するまでは堀河院にいたのであろう。源俊賢は万寿3年(1026)に家が燃えている(『日本記略』同年3月2日条)ので、その後こちらに移ったのだろうと思われる。

角田文衞の推測も加えれば、万寿3年(1026)以降の堀河殿には以下の複数の家族が住んでいたことになる。

  • 藤原顕光の遺族(推測)
      ・ 一条天皇の元女御・元子と源頼定との娘二人
      ・ 小一条院の妃・延子の遺児、敦貞親王と栄子内親王
      ・ 藤原顕光未亡人
  • 道長と源明子の子・藤原頼宗の家族
  • 源明子の兄・源俊賢の家族

南北二町の広大な屋敷だから三家族(内一家族は三世帯)は十分に住めただろう。ただの想像だが、寝殿は住んだかどうかはともかく所有者のもの。藤原頼宗の家族と源俊賢の家族が左右の対。藤原顕光の遺族三世帯が北対ぐらいだろうか。売却後の女世帯の間借りならそれぐらいのとこだろう。あるいは小御所とか角殿のようなものが堀河殿の中にいくつか建造されたのかもしれない。いずれにしてもこの段階の堀河殿の建物は太田静六復元図のものではないと思う。

「怨霊留此地」

『左経記』長元5年(1032)3月25日条にある「橘逸勢怨霊留此地」云々は半世紀近く使われていなかったことによる風聞だろうと太田静六はいう(p.400)。前述の通りその50年間も堀河殿には人が住んでいたが、太田静六のいうように平安時代初期の橘逸勢がここに住んだという伝承はなく、そもそもここにはその後、藤原基経、藤原兼通、円融天皇とそうそうたる面々が住んでおり、今更橘逸勢の怨霊もあるまい。太田静六の云う通りだ。ではなぜ「怨霊留此地」 云々が出てきたのか。先に触れた「有名な悪霊伝説」の経緯とはこうである。
堀河殿の延子は敦明親王(小一条院)が東宮を辞退しなければ後には即位して天皇となり、既に生まれていた長男が東宮からその次の天皇、そして自分は国母として皇太后、顕光は天皇の外祖父として道長のようになれるはずだった。しかし延子は、夫の東宮を辞退によりその未来が消えたばかりか、夫まで道長の娘に取られた。そして悲嘆のあまり健康を損ね、寛仁3年(1019)に世を去る。続いてその父親の左大臣藤原顕光も、治安元年(1021)に失意のうちに病死。といっても既に80近いが。顕光父娘はその後怨霊になって道長一族に祟ったとされ、人々は顕光を「悪霊左府(左大臣)」と呼んだ。

『栄花物語』 二十五巻 「みねの月」には道長の娘寛子が死んだときにこう書かれる。

御もののけどもいといみじう、「しえたりしえたり(うまくやったうまくやった)」と、堀河のおとど(顕光の怨霊)・女御(延子の怨霊)もろごえに「今ぞ胸あく(あぁすっきりした)」と叫びののしり給。(日本古典文学大系76、p.197)

十訓抄』は、顕光が道長を怨んで蘆屋道満に呪詛させたとまで伝える。蘆屋道満はともかく、成立時期の近い『栄花物語』にある怨霊云々は、きっと恨んだだことだろう、とか、道長の娘の続けての死は顕光と延子の怨霊の祟りではないかとか当時から噂された証だろう。 『左経記』長元5年(1032)3月25日条にある「怨霊留此地」云々は、実際には顕光を意識していたはずだ。頼通はもとより、『左経記』の著者源経頼がそれを知らぬはずはない。これは顕光の名を直接出すことを憚って、橘逸勢に仮託して語り、あるいは記したものだと思う。

顕光の道長呪誼は藤原実資の『小右記』に書かれ、道長の耳にも達している。
顕光は、小一条院と道長の娘寛子の婚儀の一環である渡り初めの儀に尊者(主賓)として二条院に招かれたが、『小右記』 寛仁元年(1017)10月18日条によれば、彼は道長に「強忍追従し、また人の思ふ所を忘る。卿相、事に触れて嘲弄(ちょうろう)」する、というような次第であった。
しかしその裏では、顕光が延子の髪を切り、庭で御幣を捧げて道長を呪誼しているという情報が道長の耳に達している(『小右記』 同年11月19日条)。それでも道長は極力恨みを和らげるように振る舞い、頼通もそれにならって顕光を死ぬまで左大臣の座に置く。そして顕光は 最後まで道長に媚びへつらい、周囲の失笑を買いながら従一位まで登り、左大臣のまま78歳で死ぬ。

復元図にある寝殿造の創建時期

その後堀河殿は頼通の長男・藤原師実に伝ったらしい。復元図にある寝殿造の創建時期に関わるのは次の三点である。

  1. 承暦元年(1077〕4月28日に白河天皇が関白師実の堀河殿に行幸されたと『婚記』(『台記』別記)にある。
  2. 続いて同4年(1080)3月19日に師実が堀河殿に移ったときの調度が『類衆雑要抄』(巻二)に残る。
  3. その後、承暦4年(1080)5月11日に白河天皇の里内裏 となったと左大臣源俊房の『水左記』、源経信の『帥記』にある。

承暦4年(1080)の建物が太田静六が第一期堀河殿としたものである。そのときの建物は以下の理由から直前に新造された可能性が高いと思う。

  1. 白河天皇は延久4年(1072)12月に内裏で即位したあと、高倉殿、内裏、高陽院、六条院、高陽院、内裏、高陽院と頻繁に住まいを変えている。承暦3年(1079)9月頃に移った高陽院が焼亡して承暦4年(1080)2月6日に内裏に戻っている。師実の堀河殿移徙はその翌月であり、更にその2ヶ月後に白河天皇の里内裏になっている。これは内裏焼亡とかによるものではない。内裏はちゃんと存在している。
  2. そこから逆算すると、承暦元年(1077〕4月28日の堀河殿行幸は、『大鏡』で「地形のいといみじき也」、先の『左経記』でも「山石水木誠是賞翫」と庭をほめた堀河殿を里内裏の候補のひとつとして下見に行ったのではなだろうか。
  3. そこは関白師実が所有していたが師実はそこには住んでいなかった。白河天皇がそこを気に入ったので師実は里内裏用に建物を再建する。それが完成して承暦4年(1080)3月19日に所有者師実が儀式として移徙する。移徙は新たに取得、あるいは相続したか、そうでなければ再建・新造したかであるが、承暦元年(1077〕4月28日に白河天皇が堀河殿に行幸した時点で関白師実の所有であったので、前者はありえず、残るのは再建・新造のみとなる。
  4. そのあと5月11日に予定通り白河天皇の里内裏となったということではないだろうか。

タイムスケジュールとしては符合する。またそう考えなければ、里内裏となる直前の師実の移徙が理解できない。これは住むための移徙ではない。以上により、太田静六が復元図に描いた堀河殿は、白河天皇の注文で、関白師実が白河天皇の里内裏とするために、承暦元年(1077〕4月以降に建設を始め、同4年(1080)3月に完成した建物群であると推測する。

【後日談】 俺って冴えてる。凄い! このネタで論文を書いたら建築学会デビューが果たせるかも♪ 
と思ったんですが、そうは問屋が卸してくれませんでした。いや、推測は実に正しかったんです。正しかったんですが、問題がひとつ。太田静六以降の建築史の先生方は知ってたらしいんです。おまけに証拠物件まで。『為房卿記』承暦3年(1079)8月19日条に、師実の堀河殿が上棟(じょうとう:棟上げのこと)と記されているそうです。飯淵康一の『平安時代貴族住宅の研究』 (2004年) p.563 に書いてありました。推測なんて必要無かったんですね。がっかり。でもまあ、推測の正しさが証明されたと前向きに考えることにしましょう。

まあいずれにせよ、それ以前の堀河殿には建物の構成や配置を知る事の出来る史料は無い。

太田静六が復元図に描いた堀河殿の建造時期と、何の為の建設かということにこだわるのは平安時代の寝殿造の配置が解るものはここと東三条殿しかないためである。出回っている『源氏物語』六条院の復元図は史料批判に耐えられるものではない。太田静六『寝殿造の研究』には沢山の想像図が載るが、想像図であって文献的裏付けは薄い。そして東三条殿やこの堀河殿は本来の寝殿造が崩れ始めた時期などとも云われるからである。また、何の為に建てられたかを絞り込むことは、世に言う寝殿造がほんとうに貴族の屋敷の建築様式だったのかを考える上での重要な要素になる。

 

堀河殿の一期と二期

ここで云う、一期、二期とは白河天皇、堀河天皇の里内裏時代の中での一期、二期である。

源経信の『帥記』承暦4年(1080)5月11日条、『後二条師通記』応徳3年(1086)12月13日条その他で、西対平面と清涼殿代としての用法(『寝殿造の研究』pp.406-)、寝殿西方部一帯(pp.409-)、東対代廊と二棟渡殿、およびその用法(pp.411-)などがわかる。太田静六の復元図は主にその頃の史料に基づいているが、『為房卿記』寛治元年(1087)4月23日条の寝殿装束の記述中に「西又庇〔新造〕」とあるように少しずつ形が変わる。西礼の家なので西に主要な要素が固まっている。その第一期堀河殿は嘉保元年(1094)に消失する。

第二期堀河殿はそれから10年近く後の長治元年(1104)4月に、堀河天皇の中宮篤子内親王の御所として再建されて以降であり、太田静六は屋敷の配置はほぼ一期と同じとする。堀河天皇は長くここに住み、ここで亡くなった。天皇崩御のあと堀河殿は中宮篤子の御所として用いられたが、七年後の永久2年(1114)に中宮もここで亡くなり、その6年後の保安元年(1120)に全焼して堀河殿は幕を閉じる。

ただし、発掘調査からは太田静六復元図ような配置はありえないとも云われる。この復元図は南北二町の北側に建物があるが、1985年の調査で池は南北二町の北側に寄っているのである。東対代は建てられない。かつ、太田静六が寝殿や西対を想定した場所からは建物の痕跡は見つからなかった。へたをすると池は寝殿の南ではなく北にあったのかもしれない。二町の敷地全てが発掘されている訳ではないが、いずれにせよ太田静六の推定したこの建物群は実は成立しえない(西山良平2012 『平安京と貴族の住まい』  pp.10-12)。


通常寝殿造と違う処

  1. 寝殿に塗籠が無い。平安時代後期だからかと思うとそうでもない。西対には塗籠がある。これは寝殿を南殿(紫宸殿)、西対を中殿(清涼殿)に宛てたためだろう。紫宸殿には塗籠はない。
  2. 東西ともに孫庇がある。このような例は他に見たことがない。
    「西又庇〔新造〕、南一間、立白木床子二脚、為出居侍従座、」(『為房卿記』 寛治元年(1087)4月23日)
  3. 西中門北廊は、寝殿造で一般的な床板敷でなく床のない軒廊(こんろう)。
    『為一房卿記』寛治元年(1087)4月23日条で、堀河院内裏で行われた万機旬の御儀中に酒番侍従座は西中門北廊の南第二間に床子を立てて設けられたが、この座に著くに際して西中門から南庭に入ってきて「軒廊」(こんろう)の床子についたと明記される(p.410)。
  4. 東中門廊が東西棟で、東中門が北を向いている。これは北の二条大路に開いた門と、東の小路に開いた門の両方に対応したためだろう。里内裏故とは云えない(pp.411-412, 414-416)。
  5. 女御の御所は東対代廊だけでなく、寝殿と東対代廊とを結ぶ東北二棟渡殿もまた御所として用いられ、ここには御帳から昼御座などが設けられ、こちらのほうがむしろ重きをなした(p.413)。
  6. 寝殿東北二棟渡殿と平行して寝殿西(東の誤植?)南渡廊があり、寝殿と東対代廊とを結んでいたが、この渡殿が寝殿造にみられるような透渡殿ではなく軒廊(こんろう)形式である(p.414)。
  7. 北対・東北対・東北渡殿。、『為房卿記』寛治5年(1091)10月25日条に
    「北対東十一ヶ間為女房曹司、東北渡殿為台盤所、其東廊北庇為上卿御厨子所」
    寝殿の北面には北対があり、東11ヶ間を女房曹司とし、北対と寝殿とを結ぶ東北渡殿を台盤所、その東廊の北庇を上卿御厨子所とした。西北渡殿、東北渡殿、北対(廊)の存在は認めて良いが、西北対は第二期堀河殿の記載。『中右記』嘉詳2年(1107)7月24日条に「西北対北箕子敷、甚以狭少也」。太田静六はこの二つが同時に存在したとの仮定で北中門を想定するが史料がすくなすぎる。
  8. その他、白河天皇の里内裏となったときの『帥記』承暦四年(1080〕5月11日条には、車宿を大弁以下の座、未申(南西〕の馬屋を頭蔵人らの宿所、北釜殿を滝口陣としたというから、車街や馬屋・釜屋などの存在を実証するが、馬屋に板を敷いて頭蔵人らの宿所にしている。馬屋は現在のイメージとは違い非常に清潔にされており、どちらかというと馬のショールームである。
軒廊(こんろう)

軒廊(こんろう)とは内裏の廻廊の形式で、床が無く土間である。外面は白壁で内面は吹き抜け。東三条殿なら東中門の南廊がその形式である。その他西蔵人所から西の神殿の方に神殿軒廊が突き出ており、土間で、中央に壁をもつ、ちょうど春日大社の二棟の廻廊薬師寺の廻廊のようになっている。堀河殿では西中門の北、通常なら中門廊と呼ぶ廊が外面は白壁で内面は吹き抜けの軒廊(こんろう)であるほか、寝殿と西対(たい)を結ぶ西南渡廊が軒廊(こんろう)であるということは内裏の紫宸殿の南西の階を模しているのだろう。
東三条殿に西対は無いが、南庇の西側延長上に、西透廊まで透渡廊があり、その先まで床が張られているが、里内裏として用いられたときにはその床を外して軒廊(こんろう)にしている。先に軒廊(こんろう)は床が無く土間である。外面は白壁と説明したが、堀河殿の西南渡廊、東三条殿里内裏時の西透渡廊には壁は無く、両側吹き抜けであったろう。

堀河殿平面図の性格

ここまで長々と書いてきたのは、堀河殿は長らく藤原氏の寝殿造の屋敷ではあったが、太田静六が平面図に起こした段階の堀河殿は、寝殿造の中では異質、つまり、最初から里内裏として建てられた、通常の寝殿造と内裏の中間のようなものであるということである。

初稿 2016.2.18