寝殿造 2.1 寝殿造の全体像、堀河殿 2017.3.2 |
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寝殿造の全体像寝殿造の全体像の例として堀河殿の復元図(太田静六1987復元)をあげておく。ある程度の史料的根拠があり、これから説明する要素も揃っているからである。
世間一般では寝殿造というと『源氏物語』の六条院復元図のイメージが強いが、あの復元図にはさしたる根拠はない。『源氏物語』が架空だからではなく、『源氏物語』の六条院に書かれていないものが復元されているからである。私は堀河殿をもって「これこそが寝殿造」などと云うつもりは無いが、六条院復元図を使うよりはましだろう。 なおこの屋敷は東三条殿と同様に南北2町の敷地であり最上級寝殿造の中でもトップクラスである。下の図はその北側寄りの一部である。堀河殿は堀川殿とも書かれるが、ここでは太田静六にならって堀河殿とする。 堀河殿
藤原基経の頃堀河殿の名が現れるのは9世紀の藤原基経の頃からである。『大鏡』巻二「基経」にこうある。
藤原兼通の頃10世紀の村上天皇の頃には藤原兼通の所有だった。『日本紀略』にこうある。
『栄華物語』では天禄2年(971)の項に堀河殿を新造したとあり、天禄4年(973)2月には娘?子(こうし)を円融天皇へ入内させている。娘を入内させる前提でその里第として整備したのだろう。?子は堀川中宮と呼ばれる。そして堀河殿は里内裏となった最初の屋敷でもある。貞元元年(961)7月26日のことである。『栄華物語』巻第二にこうある。
「御かと(帝)のおはしますところ見苦しとて」とは5月11日の内裏擢災で職曹司に避難していたためである。そのときは内裏再建とともに戻っているが、天元5年11月の内裏は擢災に際して堀河殿に移ったあとは、花山天皇に譲位後も約一年間は堀河殿を院御所とした。
道長・頼通の頃その後のことについて太田静六はこう書く。 「円融上皇が仙洞として堀河殿を用いられたのを最後に、以後は半世紀近くの間、院の名は史上から姿を消すが、平安盛期になり宇治関白藤原頼通の所有に帰してから再び使われるようになる」。 それは勘違いだろう。史料にも歴史書にもその半世紀の間の堀河殿が記されている。『栄花物語』、『小右記』などによると、堀河殿は兼通からその子の藤原顕光に引き継がれている。20世紀の歴史書では1963年の角田文衞 『承香殿の女御』 の舞台がこの堀河殿である。 堀川殿は長徳3年(997)に顕光の娘で一条天皇の女御であった藤原元子の里第に なっている。さらにその妹藤原延子は三条天皇の第一皇子である敦明親王(小一条院、あつあきら)の妃になり、敦明親王はここ堀河殿に婿として住み、延子との間に二男一女をもうけた。 敦明親王は長和5年(1016)後一条天皇の即位により東宮となったが、これは三条天皇が道長の外孫後一条天皇に譲位する条件としたためである。しかし敦明親王の外祖父藤原済時は既にこの世になく、後ろ盾を持たなかった。敦明親王は翌年東宮を辞退し、院号を贈られ小一条院となる。それにより道長は再び外孫を皇太子に出来た。後の後朱雀天皇である。道長は小一条院を娘寛子の婿とし、寛子の住む高松殿に迎え優遇する。有名な顕光の悪霊伝説の始まりである。堀河殿は顕光の死後おそらく売却されたようである。 太田静六のいう「半世紀」後とは『左経記』長元5年(1032)3月25日条である。
太田静六は故経国朝臣も近江守行任も誰だか解らないというが、これも解っている。 角田文衞によれば藤原経国は道長をとりまく受領のひとりで、本邸のほか桂にも立派な別邸をもっているという。堀河院を購入できるほどの蓄財は尾張国から得たものだろう。長和5年(1016)8月に尾張国の百姓たちが大挙上京して国司経国の不正を訴えている。坂本賞三は「御堂関白記寛仁元年(1018)5月25日条に「尾張前守経国依病出家云々」とあり、この上訴事件により解任されたらしく」と書く(『日本王朝国家体制論』 pp.204-205 注)。その後治安2〜3年(1022〜3)ごろに堀河院を購入し、先の『左経記』には「故」とあるので、長元5年(1032)より前に死んだのだろう。 なお、この尾張国の苛政上訴は有名な永延2年の「尾張国郡司百姓等解」とは別件である。この当時は大ざっぱに云えば律令制から王朝国家体制への転換する時期。厳密に云えば前期王朝国家体制から後期王朝国家体制への転換点(坂本賞三説)であり、在地の郡司・百姓と受領の対立が激化し、苛政上訴の嵐が吹き荒れていた。この時代は『源氏物語』などで「豪華絢爛、王朝文化が花盛り」というイメージが強いが、ある意味政情不安で治安も悪化し、放火が多発している。『小右記』治安3年(1023)12月23日条には丹波守藤原資業の屋敷が騎兵十余人に襲われ放火されたことが記され、実資は風聞として「国司在国云々、任修之務苛酷無極云々、州民之愁多結凶党之類成犯歟、抑洛中不異坂東」と書く。 その尾張前守経国からここを継いだ近江守行任は、曾祖父は醍醐天皇の子有明親王。父は道長の家司源高雅で、この源高雅は『御堂関白記』にしばしば登場する。高雅は娘の一人を道長の庶子・藤原頼宗にとつがせている。行任も道長や頼通の側近で能登守、敦成親王家(後の後一条天皇)の蔵人、東宮の蔵人などを歴任した。「近江守行任が因縁に依り伝領」とあるが、どういう因縁かは解らない。経国の娘が行任の妻だったということか。『尊卑分脈』第三編p.451には母修理亮(藤)親明女とある。妻は不明である。この時代、屋敷は女系で相続されることが多い。行任から藤原頼通への献上はおそらく成功(じょうごう)だと思う。それで近江守になれたのだとしたら、その献上の時期は万寿4年(1027)から長元3年(1030)の間だろう。その理由は長元9年(1036)7月に近江守として苛政上訴を受けていることからその8年以内。『小右記』 長元4年(1031)7月7日条に「近江守行任」の御倉町の領宅焼亡が出てくること、国司の除目は通常は正月であることからその前年までということになる。 角田文衞は ともかく頼通は4月4日に堀河殿に移った。『左経記』の同日条にはこうある。
なお太田静六は『小右記』と書くが、『小右記』に4月4日条はない。下記記述は『左経記』である。また、太田は「頼通は日来修理を加えたというが、この時は庭園関係が中心で、御殿の方は旧のままであった」(『寝殿造の研究』 p.400)と云うが、頼通は寝殿の再建をしているはずである。というのは『小右記』 長元4年(1031)1月16日条に「去夜堀河院寝殿巽付火、撲滅畢とあり、少なくとも寝殿は焼け落ちていることが知られるからである。 先に触れたように、この時代、治安は悪化し、放火が多発している。ただ、『左経記』に「依旧宅、不用渡新宅之礼」とあるので、燃えたのは寝殿だけだったのかもしれない。いずれにせよ、献上されたから「日来修理を加え」ではなく、献上されて頼通の所有になっていた寝殿が焼けたから「日来修理を加え」なら、頼通への献上は長元3年(1030)以前ということになる。 太田静六は 折角、献上されたので堀河殿に渡ったものの、頼通は自ら創建した豪邸の高陽院を主として用い、父祖伝来の土御門殿すら殆ど使用しなかったくらいなので、堀河殿もその後は用いなかったとみえる。
藤原頼通は高陽院がメインの屋敷だったが、この頃、『左経記』などの長元4年(1031)4月29日条によると新造の東三条殿が。同じく『左経記』同年12月11日条によると上東門院彰子の京極院(土御門殿)も焼け、頼通は高陽院を彰子に提供して自分は白河院に住み、一方で堀河院の寝殿の再建を急がせたものと思われる。それが成って移徙を4月4日に決めたというのが『左経記』長元5年(1032)3月25日条だろう。堀河院の寝殿が焼けて以降なら14ヶ月。『左経記』にある頼通が高陽院を提供して以降なら3ヶ月である。 ところで堀河院が頼通の所有となる前から頼通の縁者が住んでいたようである。 太田静六は 却って頼通の弟で内大臣から右大臣へと進んだ頼宗のことを、世に堀河右大臣と呼ばれるところを考えると、その後は主として弟の右大臣頼宗が用いたことが解る。 と云う。しかし道長の庶子・藤原頼宗夫妻は堀河殿が頼通に献上される前、おそらく経国所有の頃からここに住んでいた。というのは、『小右記』万寿2年 (1025)8月27日条に、頼宗の室(近江守行任の姉妹か)が産期に邪気におびえ「出自堀河院」、つまり堀河院を出たとある。つまり万寿2年(1025)以前から彼らはそこに住んでいたということだ。頼宗の室が何を怖がったかはあとで触れる。 堀河殿がこのとき既に行任のものだったのなら、顕光が死んで娘の元子が経国に屋敷を売り、その経国が死に、行任が相続ということが4年以内に起こったことになる。そうかもしれないが何か慌ただしい。それよりも、経国が屋敷を元子から買い取り、そこに元子ら顕光の遺族を住まわせつつ、摂関家周辺の者にも住まいとして提供していたという方が辻褄は合う。なにしろ堀河殿の敷地は広大で、対や廊がいくつもあっただろう。里内裏が良い例であるが、所有者は必ずしも居住者ではない。かつ、寝殿や対には別の家族が住むことは当時は普通のことである。「貸す」というのも利益供与、成功の一部だろう。そして約10年後に経国が死に、母か妻かの縁で行任の所有となる。行任にとっては頼通周辺の者に屋敷を提供しているのは経国以来なので自分の成功にはならない。頼通の縁者ではどいてもらう訳にもいかない。そこでその地券を頼通に献上して近江守のホストを得たと。もちろん確証はないが、4年以内にドタバタというよりはありそうな気がする。 頼通の頃の堀河殿の住人で史料により明らかなものは次の通りである。
角田文衞の推測も加えれば、万寿3年(1026)以降の堀河殿には以下の複数の家族が住んでいたことになる。
南北二町の広大な屋敷だから三家族(内一家族は三世帯)は十分に住めただろう。ただの想像だが、寝殿は住んだかどうかはともかく所有者のもの。藤原頼宗の家族と源俊賢の家族が左右の対。藤原顕光の遺族三世帯が北対ぐらいだろうか。売却後の女世帯の間借りならそれぐらいのとこだろう。あるいは小御所とか角殿のようなものが堀河殿の中にいくつか建造されたのかもしれない。いずれにしてもこの段階の堀河殿の建物は太田静六復元図のものではないと思う。 「怨霊留此地」『左経記』長元5年(1032)3月25日条にある「橘逸勢怨霊留此地」云々は半世紀近く使われていなかったことによる風聞だろうと太田静六はいう(p.400)。前述の通りその50年間も堀河殿には人が住んでいたが、太田静六のいうように平安時代初期の橘逸勢がここに住んだという伝承はなく、そもそもここにはその後、藤原基経、藤原兼通、円融天皇とそうそうたる面々が住んでおり、今更橘逸勢の怨霊もあるまい。太田静六の云う通りだ。ではなぜ「怨霊留此地」
云々が出てきたのか。先に触れた「有名な悪霊伝説」の経緯とはこうである。 『栄花物語』 二十五巻 「みねの月」には道長の娘寛子が死んだときにこう書かれる。
『十訓抄』は、顕光が道長を怨んで蘆屋道満に呪詛させたとまで伝える。蘆屋道満はともかく、成立時期の近い『栄花物語』にある怨霊云々は、きっと恨んだだことだろう、とか、道長の娘の続けての死は顕光と延子の怨霊の祟りではないかとか当時から噂された証だろう。 『左経記』長元5年(1032)3月25日条にある「怨霊留此地」云々は、実際には顕光を意識していたはずだ。頼通はもとより、『左経記』の著者源経頼がそれを知らぬはずはない。これは顕光の名を直接出すことを憚って、橘逸勢に仮託して語り、あるいは記したものだと思う。 顕光の道長呪誼は藤原実資の『小右記』に書かれ、道長の耳にも達している。 復元図にある寝殿造の創建時期その後堀河殿は頼通の長男・藤原師実に伝ったらしい。復元図にある寝殿造の創建時期に関わるのは次の三点である。
承暦4年(1080)の建物が太田静六が第一期堀河殿としたものである。そのときの建物は以下の理由から直前に新造された可能性が高いと思う。
タイムスケジュールとしては符合する。またそう考えなければ、里内裏となる直前の師実の移徙が理解できない。これは住むための移徙ではない。以上により、太田静六が復元図に描いた堀河殿は、白河天皇の注文で、関白師実が白河天皇の里内裏とするために、承暦元年(1077〕4月以降に建設を始め、同4年(1080)3月に完成した建物群であると推測する。 【後日談】 俺って冴えてる。凄い! このネタで論文を書いたら建築学会デビューが果たせるかも♪ まあいずれにせよ、それ以前の堀河殿には建物の構成や配置を知る事の出来る史料は無い。 太田静六が復元図に描いた堀河殿の建造時期と、何の為の建設かということにこだわるのは平安時代の寝殿造の配置が解るものはここと東三条殿しかないためである。出回っている『源氏物語』六条院の復元図は史料批判に耐えられるものではない。太田静六『寝殿造の研究』には沢山の想像図が載るが、想像図であって文献的裏付けは薄い。そして東三条殿やこの堀河殿は本来の寝殿造が崩れ始めた時期などとも云われるからである。また、何の為に建てられたかを絞り込むことは、世に言う寝殿造がほんとうに貴族の屋敷の建築様式だったのかを考える上での重要な要素になる。
堀河殿の一期と二期ここで云う、一期、二期とは白河天皇、堀河天皇の里内裏時代の中での一期、二期である。 源経信の『帥記』承暦4年(1080)5月11日条、『後二条師通記』応徳3年(1086)12月13日条その他で、西対平面と清涼殿代としての用法(『寝殿造の研究』pp.406-)、寝殿西方部一帯(pp.409-)、東対代廊と二棟渡殿、およびその用法(pp.411-)などがわかる。太田静六の復元図は主にその頃の史料に基づいているが、『為房卿記』寛治元年(1087)4月23日条の寝殿装束の記述中に「西又庇〔新造〕」とあるように少しずつ形が変わる。西礼の家なので西に主要な要素が固まっている。その第一期堀河殿は嘉保元年(1094)に消失する。 第二期堀河殿はそれから10年近く後の長治元年(1104)4月に、堀河天皇の中宮篤子内親王の御所として再建されて以降であり、太田静六は屋敷の配置はほぼ一期と同じとする。堀河天皇は長くここに住み、ここで亡くなった。天皇崩御のあと堀河殿は中宮篤子の御所として用いられたが、七年後の永久2年(1114)に中宮もここで亡くなり、その6年後の保安元年(1120)に全焼して堀河殿は幕を閉じる。 ただし、発掘調査からは太田静六復元図ような配置はありえないとも云われる。この復元図は南北二町の北側に建物があるが、1985年の調査で池は南北二町の北側に寄っているのである。東対代は建てられない。かつ、太田静六が寝殿や西対を想定した場所からは建物の痕跡は見つからなかった。へたをすると池は寝殿の南ではなく北にあったのかもしれない。二町の敷地全てが発掘されている訳ではないが、いずれにせよ太田静六の推定したこの建物群は実は成立しえない(西山良平2012 『平安京と貴族の住まい』 pp.10-12)。 通常寝殿造と違う処
軒廊(こんろう)軒廊(こんろう)とは内裏の廻廊の形式で、床が無く土間である。外面は白壁で内面は吹き抜け。東三条殿なら東中門の南廊がその形式である。その他西蔵人所から西の神殿の方に神殿軒廊が突き出ており、土間で、中央に壁をもつ、ちょうど春日大社の二棟の廻廊や薬師寺の廻廊のようになっている。堀河殿では西中門の北、通常なら中門廊と呼ぶ廊が外面は白壁で内面は吹き抜けの軒廊(こんろう)であるほか、寝殿と西対(たい)を結ぶ西南渡廊が軒廊(こんろう)であるということは内裏の紫宸殿の南西の階を模しているのだろう。 堀河殿平面図の性格ここまで長々と書いてきたのは、堀河殿は長らく藤原氏の寝殿造の屋敷ではあったが、太田静六が平面図に起こした段階の堀河殿は、寝殿造の中では異質、つまり、最初から里内裏として建てられた、通常の寝殿造と内裏の中間のようなものであるということである。 初稿 2016.2.18 |
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