寝殿造 2.3 北対 2016.1.27 |
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北対北対は儀礼に際しでも表面に出ないので指図などは残っていない。ただ、北対は2種類ある。常に2種類が揃っている訳ではないし、また時代により、屋敷の規模にもより変わるが。 北対・用例一ひとつは屋敷の主が実際に暮らす場所。そうである場合には寝殿と比べてもさほど見劣りしない規模の建物と見られる。例えば長保元年(999)の内裏焼失によって一条院(太田静六は一条大宮院と記す pp.184-192)が里内裏となる。その時の殿舎割当に関して『権記』長保元年(999)7月13日条にはこう書かれている。
「南殿」とは寝殿を指す。これはよく使われる。「中殿」はときと場合により変動するが、「仁寿殿分用西対、綾綺殿分用東対」と東西の対ではないので北対のこと。北対が一条天皇の御在所(清涼殿)にあてられたことがわかる。太田静六はそう見なかったよう だが(p.190)。藤田勝也はこのときの一条院北対を「北対は母屋桁行七間以上あるうえ、四周に庇さらに南又庇があって、外周に簀子が巡るという大規模な殿舎だった」 と推定する(藤田勝也2003、p.20)。 道長の東三条殿が一条天皇の里内裏となっていたときに賀茂祭に際し御禊が行われたた。その場所を『小右記』寛弘2年(1005)12月6日条は
と記す。 北対がその屋敷の主の常御所であった例をもうひとつ挙げよう。やはり道長の頃だが、三条天皇が枇杷殿を御所としたとき、『小右記』長和4年(1015)4月7日条に
とあり、北対には三条天皇が、その「東殿」つまり北対東側の殿舎が中宮の居所にあてられている。
とあり、譲位後も三条天皇は北対を御在所にしていたことがわかる(藤田勝也2003、p.21)。ただし長和5年(1016)1月に後一条天主の里内裏となった道長の土御門殿や、長歴4年(1040)に後朱雀天皇の里内裏となった教通の二条殿では常御所は北対ではなく、その屋敷の状況、寝殿の次に立派な建物はどれか、ということによっても変わるのだろう。 ここで思い出されるのは『吾妻鏡』にある将軍御所(若宮大路御所)での時宗元服記事である。寝殿の西に延びる二棟廊の北に中御所西対への渡廊がある。とい うことは中御所(将軍の妻の居所、故に将軍の常御所)は蹴鞠壷を挟んで寝殿の北ということになる。その中御所と中殿は同じ位置づけである。 北対・用例二北対を後宮として使うことがある。『栄花物語』下巻36によれば、後冷泉天皇の時代、寛徳2年(1045)正月16日に土御門殿が里内裏になったが、寝殿を紫寝殿、西対を清涼殿として、北対は東宮時代からの妃一品宮(章子内親王)の御所としている。 北対・用例三もう1種類は東西に長く、梁間は母屋1間、庇1間の細長い建物で、多くの小室に分れて女房局などに用いられたものである。
馬道の西側は、母屋と庇各一間を女御安子に仕える女官の居所にあてたが、人数が多いので各人ごとのスペースは設けず、雑居 だという(「鋪設」は「しつらえ」で、本稿では「室礼」と書いている)。つまり障子や壁代で局に仕切ることが出来ず、夜は雑魚寝だったということか。几帳や屏風ぐらいは使ったとは思うが。それはともかく、太田静六はこの条から、北対は細長い北対は中央に馬道を持ち、母屋と北庇とからなる東西に細長い建物であったろうとする。しかし藤田勝也は以下のように述べる。
確かに用例二の頼通の四条殿でも北対を馬道で分けており、分けたそれぞれに住むのが中宮と皇太后なのだから、北対を奥行きの狭い細長い粗末な侍廊のような建物と決めつける訳にはいかないと思う。太田静六のイメージ通りの北対ももちろんあったであろうが。 北対の変遷以上の用途三種はいずれも摂関期のものである。北対の用途は混沌としていて定まっていない。ところが時が経つにつれ、用途が定まりはじめる。用例一の「屋敷の主が実際に暮らす場所」、里内裏では天皇の御在所となる例が姿を消し、用例二の後宮としての使用が多くなるが、しかしそれも姿を消し、北対は女房局、女房曹司となってゆく(藤田勝也2003、pp.25-40)。例えば『為房卿記』寛治5年(1091)10月25日条に、「北対東十一ケ間為女房曹局」とある如くである。太田静六がイメージしていた梁間2間の細長い北対は、実は院政期以降のものを遡らせて当てはめたものだったようだ。 なおこの用例三は、鎌倉の将軍御所においても同じ北廊がそのような用途で使われたと思われる記述がある。 初稿 2015.11.13 |
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