寝殿造 2.4.1   寝殿造の外郭・侍廊等      2016.2.28

侍廊

侍廊は侍所とも呼ぶ。侍所と云っても武士の詰め所ではなく公卿に仕える家司の詰所である。「侍」の意味は「侍女」の「侍」と同じである。中には武士も 居たが少数派で、出退勤を管理する管理職(別当)の事務所でもある。最高権力者の摂関家でも屋敷に侍(さぶらう)人数はそれほど多くない。

その屋敷の主人が上級の皇族や、あるいは一時的にでもその屋敷が里内裏に使われるときなど、この「侍所」は蔵人所とか殿上廊などとも呼ばれたりする。院政期になると、公卿議定(院御所議定)は院御所のこの侍所で行われているぐらいである。蔵人とか殿上人は公卿ほどではないが、諸大夫などより偉い。 五位以上の貴族の階級は公卿と諸大夫ではなくて、実質は大臣、公卿、殿上人、諸大夫である。その階級格差は摂関家での大饗などの座席にはっきりと現れる。つまり 「侍所」の「侍」は武士の意味ではないが、五位未満の侍階級の意味でもない。元々の意味の「さぶらう(仕える)人」である。

先の中門廊はいわば主屋の玄関であったが、侍廊(侍所)は勝手口でもある。『三条中山口伝』にもこうある。

諸大夫、大臣家は、家札にあらざる人は障子上に著すべし。中門を昇るは非礼。

現代語になおせば「諸大夫が大臣家に伺うときは、家札(家来、家司)にでない者は侍廊の障子上に入るべきである。中門廊をから入るのは身の程知らずである」ということか。主人と客の身分によって出入口は細かく規定されていた。諸大夫もれっきとした貴族の一員だが、摂関家などにすれば酒屋や魚屋の御用聞きと同じという訳だ。ところでこの文は中門廊を中門と書いている。鎌倉時代以降、中門の無い中門廊が増えている現れかもしれない。なおなお三条中山とは三条実房中山忠親である。

TVドラマの「たったひとつの恋」で亀梨和也演じる主人公が小遣い稼ぎに釣ったメバルなどを高級料亭に持っていったときに「ここはお客様の来るところです。勝手口にまわりなさい!」と云われるシーンがあったが、あれと同じである。少し昔までは普通の家でもそうだった。もっとも現在の家は小さくなっているので勝手口など機能しないが。

堀河殿の侍廊は6間ぐらいだろうとしか判らないので、指図の残る東三条殿と頼長の宇治小松殿の例を挙げる(以下の図は太田静六『寝殿造の研究』より)。堀河殿は西例の寝殿造であるに対し東三条殿は東礼の配置であるので左右は反転するがほぼ同じ構成と思われる。南が母屋で北が庇である。『三条中山口伝』に「障子上に著すべし」とある場所は、この図ではちょうど「母屋」と記されている中門廊側2間の間だろう。侍廊は家政を司る家司らが「侍ふ」場所であるが、来客が「侍ふ」場でもあった。十四世紀前半に成立した『後押小路内府抄』にこうある。なお青侍とは諸大夫未満。貴族の末席にもなっていない六位ぐらいの者である。

侍屋、常は五ヶ間(上の二ヶ間を障子上となす、これ諸大夫の座なり。下の三ヶ件を青侍の座となす。)障子上台盤を立てず。侍の座台盤を立つ(朱漆。四尺一脚。八尺一脚)。奥端対座に紫端畳を敷く。障子上も紫端なり。高麗端を敷く。家門もこれあり云々。是は諸太夫を貴ぶの儀なり。

その東が家司の詰め所で更に東が宿直室になっている。侍廊は堀河殿のような西例の寝殿造なら西門と中門廊の間、東礼の東三条殿などでは東門と中門廊の間の 北側にあるのが通例である。門の中庭を挟んで向かい側には車宿りと随身所がある。大路または小路に面した外側の門は日中は開いているのでこの中庭までは誰でも、無関係な庶民までも入れるので侍廊の前には屏が設けられ、中が覗かれないようになっているのが通例である。

この絵は鎌倉時代末期の応長元年(1311)に描かれた絵巻『松崎天神縁起』であるが、侍廊の前には立蔀で屏が設けられのが判る。承和12年(845)、菅原道真が5歳の頃の養父菅原是善の屋敷。屋根の檜皮があちこちはげているので新築ではない。しかしこの屋敷は典型的な上級寝殿造の棟門(むねもん)、上中門(あげちゅうもん)、中門廊である。

承和12年(845)というと是善は前年に従五位下に叙爵し、この年に文章博士に任ぜられたばかりの頃なので、この格式は不相応だが、その少し前に死んだ父菅原清公が従三位の公卿であるので、その父の代からの屋敷との想定の下での描画だろう。ただ、描かれた時代には上中門は大臣家にしか許されていなかったと思うが勘違いだろうか。描いた時代ならありかもしれないが。

侍廊は勝手口

一方、冒頭の絵は同じ絵巻の中なのだが描かれたシーンは院政期、承保2年(1075)頃の話である。約200年の時代の差を意識して描き分けたのか、あるいは公卿邸と諸大夫邸の格の違い、その両方だろうか。有識故実的にはおかしな中門廊だが、屋敷の主が公卿ではないことを考え合わせれば、今様(と云っても鎌倉末)の中門廊ということだろう。大臣家ではないので『三条中山口伝』にある障子上・侍の座の区別もない。
時代による変遷は改めて述べることとして、この下の絵には侍廊がその家の家政機構の事務所であることが良く描かれている。侍廊の奥に居るのが所司(家司の管理職)だろう。その前には朱色の台盤がある。台盤のこちら側には運上品の報告なのか、目録らしきものを持っている者がいる。中門廊が屋敷の玄関なら、侍廊は いわば屋敷の勝手口である。

大臣クラスの侍廊

大臣家に戻るが、侍廊の屋内についてもう少し細かいのはこの指図である。中央三間の間に囲炉裏がある。鎌倉の若宮大路御所にも西侍のに囲炉裏の間が出ていたと思う。

絵巻では『年中行事絵巻』に、東三条殿の大饗の会場に入場する前の控え室である侍廊に参集する公卿が描かれている。


下は藤原頼長の宇治・小松殿での次男師長の元服時の図である(図のタイトルには長男とあるが)。東西という点では中門廊のある側、ここでは東(左)側にあるところは他の寝殿造と変わらないが、堀河殿や東三条殿と異なる点は、廊が南北の建物であり、中門廊に接してはいず、馬道を隔てて二棟廊にあがる。奥はやはり宿直室である。おそらく二棟廊の東2間目南の妻戸が侍所からの入り口だろう。なおこの図では侍所は蔵人所とも記されている。屋敷の全容が判らないのでなぜこのような形にしたのか判らないが、敷地の関係かもしれない。東三条殿の西侍もレギュラーだが、あれは寝殿造の西に泉が湧いていたためである。イレギュラーはイレギュラーだが、逆に言うと思うほど画一的ではなかったとも言える。



車宿

牛車(ぎっしゃ)の車庫である。牛車は999年(長保元年)に六位以下の乗車の禁止された。ただしこの時期の貴族(五位以上)は少数であり、平安時代後期に成功(じょうごう)などで五位が急増した段階では五位の全員が牛車に乗れたとは思えない。なお、鎌倉でも実朝が右大臣になるときには後鳥羽院から牛車が送られている。絵画に牛車は多く描かれるが、車宿が描かれることは滅多になく、唯一あるのが『春日権現験記絵』巻六、平親宗邸か。大型の寝殿造では梁間2間の棟行3間ぐらいが多い。上級寝殿造では中門南廊につながる。


随身所

その車宿の道側が随身所である。西例の寝殿造なら西門、東礼の東三条殿などでは東門と中門廊の間に侍所廊と向き合う形で車宿と随身所が並ぶ。侍所よりも格下であるが、同様に囲炉裏と宿直室が備わっている。ただし随身所があるのは大臣クラスだろう。



(以下太田静六1987『寝殿造の研究』より)




(太田静六『寝殿造の研究』より)


初稿 2016.2.28