寝殿造 3.2 武士の館と中門廊 2016.9.19 |
|
武士の館、地方の館かつては、平安時代に貴族が支配者階級だった頃、披支配者階級であった農民の中から徐々に武士階級が台頭し、とうとう政権を奪取して武士の世になったのが鎌倉時代、などという階級闘争史観が歴史界を覆っていた。そうしたこともあって、寝殿造は貴族階級の建築様式、武士階級の建築様式は書院造だが、その書院造が完成する前には武家造りとでも云うべきものがあって、寝殿造とは全く別の系統があったに違いない、などと思われていた。しかし武士は貴族社会から生まれている。そして武士階級固有の建築様式などありはしなかったということは現在の建築史の世界では常識である。太田博太郎 は『日本建築史序説』の「寝殿造から書院造へ」においてこう書く。
これは1989年の増補第2版からの引用だが、1947年の初版では「いわゆる武家造といったものを考える余地はまったくない」と語気強く言い切っている。70年前には武家造を考える人がまだ沢山居たのだろう。1989年にはもはや当たり前になったので喧嘩口調の必要は無くなったのか。 建築史の世界ではそれはもう常識であるが、しかしほとんどの人はそうではない。中には戦国大名は城の天守閣に住んでいたと思う人すら多い。流石に鎌倉時代から天守閣があったと思う人はいないだろうが、それでも武士の住むところイコール「城」と思いたいらしい。直近は知らないが、鎌倉の発掘調査報告書は何でもかんでも防衛遺構、鎌倉城に結びつけた。発掘を担当した研究者がというよりスポンサーである市教育委員会の意向らしいが、それほどに武士のイメージは根強いものがある。しかしその武士観は戦国時代以降のものである。 武士の「士」は元々は貴族の意味で(中国でだが)、平安時代後期でも武士と云えるのは少なくとも兵衛尉、左衛門尉などの六衛府や馬寮等の官職を持つ者である。もちろんそれを経て国司・受領にまで進んだ者も含む。滝口や武者所を入れてもよいし、中央でなくとも地方行政府である国衙から武士と認定されたものでもよい。鎌倉時代なら武家頼朝の家人(御家人)まで含めても良い。しかしその郎党は含まない。本稿の対象は平安時代から鎌倉時代までなので、戦国時代や江戸時代の武士は対象外である。 なお、以下にあげる絵巻のほとんどは鎌倉時代後半のもの、あるいはその模写である。従って描こうとした時代がいつであれ、そこに描かれている建物は鎌倉時代後期に一般的に見られたものである。 男衾三郎絵詞『男衾三郎絵詞』は鎌倉中期の絵巻物で、武蔵国の大介、つまり有力在庁官人の子の吉見二郎・男衾三郎という武士の兄弟をめぐる物語である。兄の吉見二郎は都から妻を迎え、綺麗な娘に恵まれて幸せな生活を送る。弟の男衾三郎は武士の道にのみ励み、醜い妻を娶ってというあれである。 兄の吉見二郎の屋敷は実に貴族的で、こんな屋敷は摂関家ぐらいしか持てないだろうとまで思うレベルである。優雅すぎて全く参考にならない。一方無骨でずるがしこい弟の男衾三郎の屋敷は実に殺伐としていて、見る者をして「確かに武士の館だ」という気にさせる。しかし楯やら弓やら、武具を無視して建物だけを見たらどうだろう。 門は唐門だ。この時代では棟門より格が下がるが武士としては順当だろう。妻戸を開いた中門廊がある。外側の縁があり、連子窓があり、蔀戸が釣ってあり御簾が下りている。この絵の上の方に武具が置いてある一郭は侍所だろう。 下の絵は上の絵の左側で、中門廊の内側が描かれている。上げ中門は無い。というより中門が無い。中門廊の端(手前側)は網代垣のようだ。その先に木戸の中門がある想定か。中門廊は板屋根で桧皮ではないが、屋根板は桧皮葺ではなく板屋根だがスロープはまっすぐではなく反っている。これは桧皮葺でなくとも上級建築だという絵師のメッセージである。礎石建築でもなさそうだが、中を見ると開放された南面には御簾が下がり、蔀戸を釣り上げている。上下の長押には釘隠しが見える。全面にではないが、縁付きの畳みを敷いている。摂関家よりはもちろん劣るが、寝殿造そのものである。
出家前の西行(院北面の武士)の屋敷『西行物語絵巻』の成立は13世紀後半(鎌倉時代後半)であり、当然のことながら後の西行、北面の武士として鳥羽上皇に仕えた左兵衛尉佐藤憲清(義清とも)の実際の館をスケッチしたものではない。鎌倉時代の絵師が想像したものである。絵の右側に門があり、左に憲清夫婦が臥す部屋が描かれる。平井聖はこの門は南門で、中下層の公家や武士の住宅では、南門がつくられていて、その家の主人は、南門から入るのが習慣だったという説を述べたことがある。 平井聖『日本住宅の歴史』(1974)より。 平井聖は『日本住宅の歴史』(1974)にこう書く。
最上級の寝殿造以外では南門も普通にあっただろうという平井聖の意見には同意する。ただしこの西行宅の絵は悩ましい。だが私は東門と解釈すべきだと思う。ポイントは憲清の頭上の蔀の右側に連子窓があることである。下にその部分を拡大する。判りにくいがよく見ると横連子である。 順をおって説明しよう。問題は佐藤憲清が入ってゆく寝殿の面である。その面が南面なのか、それとも東面なのかだが、手前から順に見ていくと、
平井聖があの門を南門と解釈した理由は最後の一間の妻戸の先の三間の板の間とその先の木戸だろう。開き戸を中門、左の板の間が中門廊との解釈と思う。確かに中門廊は内側から見ると吹きさらしの板の間だ。ところが私のようにあの門を東門と解釈すると、中門廊が無くなってしまう。もういちどモノクロの上の絵を見て欲しい。引戸が填めてある手前側の面が南面ということになるが、中門廊らしき突起が無い。それはおかしいというので平井聖はあの三間の板の間を中門廊と解釈したのだろうが、しかしこれは中門廊、というか玄関が寝殿に組み込まれた状態ではないだろうか。 『古事談』巻1には鳥羽上皇の御所白河殿の記述に「織戸中門のため、御所の体はなはだ卑し」との記述がある。川本重雄はその「織戸中門」を格子(蔀)と連子窓、妻戸がセットになった中門廊のことではないかと述べたことがあるが(『絵巻物の建築を読む』 p.32)、私は上記の木戸のような中門ではないかと思う。この絵で西行は入っていく寝殿の面に、妻戸、白壁に横蓮子窓が無ければ私も平井聖の説に従ったと思う。 この絵巻が描かれたのは鎌倉時代後半だが、平安時代末の『年中行事絵巻』の貧乏貴族の屋敷にも中門廊は無かった。よく「寝殿造の最小単位」(小沢朝江他 『日本住居史』 2006)などと云われる藤原定家の一条京極亭には最初中門廊代すら無かった(藤田盟児「藤原定家と周辺住民の居住形態」1993)。嘉禄2年.(1226)だから定家は既に公卿である。中門廊代を増築したのは4年後の寛喜2年( 1230)で既に正二位になっている。それより後に書かれた『西行物語絵巻』の絵師が、諸大夫ですらない左兵衛尉の屋敷に中門廊を描かなかったとしても不思議はない。
とか云いながら、佐藤憲清(西行)の屋敷には中門廊も書かれている。『日本の絵巻』19巻なら10ページである。自分で髪を切ったあと、屋敷を出るシーンだが、そこには中門廊が描かれ0先端に妻戸が開いている。これは中門廊だろう。これは先の東門ではなく西門か。絵巻を見るのは右から左にであるので、屋敷に帰ってくる、屋敷を出て行く、を書くと東西両方に門を書かなければならず、諸大夫ですらない左兵衛尉クラスの屋敷に中門廊を二つ描く訳にもいかず、家を出て行く場面の西側に中門廊を書いたという絵巻的都合だろう。 二種類の中門廊平安時代の立派な寝殿造では中門廊に蔀戸は使わないが、連子窓と蔀戸の組み合わせは室町時代には例えば『洛中郊外図屏風』の細川管領邸などに現れてくることを川本重雄が指摘している。下の図である。(玉井哲雄ほか編『絵巻物の建築を読む』pp.29-32)。 連子窓と妻戸、蔀戸に御簾の組み合わせは中門廊を中門廊らしく描いている『男衾三郎絵詞』にもあることは先に見た通りである。平安時代末の『年中行事絵巻』の貧乏貴族の屋敷には中門廊は無く、門に向かう寝殿の出口には妻戸と蔀戸が描かれていた。 地方でも武士でもないが、位の違いによる中門廊の違いの良い例がある。こちらの2つの中門廊はともに同じ絵巻、鎌倉時代末の『春日権現験記絵』にあるもので、上が最上級の関白藤原忠実の屋敷、下が藤原俊盛が讃岐守の頃の屋敷を描いたものである。 関白忠実の屋敷は最上級寝殿造の作法に沿った、教科書通りのおなじみのスタイルである。ところが讃岐守俊盛の屋敷の上がり口は横連子窓はあるもののだいぶ様子が違う。絵描きの違いではない。同じ絵巻なのだから。だいたい絵の中の中門廊の角度を見比べて欲しい。同じである。屋敷の中の同じ位置を、同じ角度から見て、屋敷の格の違いを描き分けているのである。主の格、屋敷の格によって、屋敷の玄関は相当に違うということだ。もちろん讃岐守は受領としては最上級の収入が得られるポストで、あるいはそこいらの公卿、例えば藤原定家などよりもずっと裕福だろう。『年中行事絵巻』の下級貴族や、兵衛尉でしかない佐藤憲清(西行)とは格も財力も違うので屋敷の立派さは格段の差だ。それでもその屋敷の上がり口は男衾三郎や左兵衛尉佐藤憲清(西行)の館、そして『年中行事絵巻』の下級貴族の屋敷に共通する。 そして、摂関家、あるいは大臣家に広げても良いが、そのクラスではない公卿・諸大夫クラスの屋敷の格式が、後に書院造へと発展する主殿造に受け継がれているのではないだろうか。それが先の『洛中郊外図屏風』の細川管領邸であり、また慶長6年(1601)に建てられた三井寺光浄院客殿(下側面図)なのではないだろうか。光浄院客殿の連子窓の位置は平面図では中門廊となっている。そしてここに見える並びの北側は蔀である。 室町時代でも最上級の将軍の屋敷はきちんと中門廊と中門(おそらく上中門)がある。しかしそれは将軍が内大臣でもあるための貴族社会向け格式の維持であり、武士向けの入り口はまた別で、むしろそちら側の建物群の方が充実していたことは周知の事実である。 平安時代の最上級の寝殿造では屋敷の主の正式な昇降口は寝殿造の南階であったが、鎌倉時代初期には中門廊の妻戸に変わっていることは飯淵康一の研究で明らかになっている。そして中門の無い中門廊が残るが、『年中行事絵巻』に書かれた下級の寝殿造ではその中門廊もなく、寝殿造の東面が昇降口になっている。 出家前の西行の屋敷に中門廊が無くとも不思議ではない。それでも連子窓があるということは、略式ではあってもそこが中門廊相当の寝殿のメインの昇降口であることの象徴なのではないか。『西行物語絵巻』は実際の家の写生ではなく、絵師の思い描いたシーンではあるが、それだけに妻戸、連子窓が何を象徴するかを踏み外す訳はないと思う。 もうひとつ。『西行物語絵巻』の先の図と『洛中郊外図屏風』の細川管領邸の絵を見比べて欲しい。見ている向きは違うが、細川管領邸の門の内側を門内の左側から見たとしたらどうだろう。『西行物語絵巻』には中門廊の突き出し部分は無いが、それを除けば同じ配置に見えないだろうか。『西行物語絵巻』の右上に見える木戸は『洛中郊外図屏風』の細川管領邸では門内右の木戸に相当しはしないか。 鎌倉時代の武士の屋敷にもうひとつ連子窓と蔀戸の組み合わせがある絵巻がある。次の『一遍聖絵』大井太郎の屋敷である。 初稿 2016.1.6 |
|