寝殿造 3.3 絵巻に描かれる地方の館  2016.9.21 

『一遍聖絵』大井太郎の屋敷

北面の武士左兵衛尉佐藤憲清の屋敷は京だが、こちらは地方、信州佐久郡の武士、おそらく地頭の大井太郎の屋敷である。


玉井哲雄は『絵巻物の建築を読む』「武家住宅」の中でこう書く。

主屋の畳を敷いた板敷、および茅茸副屋の板敷が多少見える程度で、内部の平面はほとんどわからないので、建築平面全体を論じることは難しいが、ここでは中門廊の問題を考えておきたい。中門廊とは寝殿造の出入口であった中門を構成する重要な部分で、古代貴族の寝殿造の定型がかなり変形した後にも、主屋である寝殿の平面に突出部として必ず残っていたとされている。最初にみた『法然上人絵伝』の漆間時国の館が寝殿造とされるのも、主屋に中門廊とみなすことのできる突出部が付属しているからにはかならない。絵巻物に拙かれた武士住宅に、このような中門廊が描かれているかどうかが、中世武士の住宅を考える場合のかなり重要な問題となるはずである。ただ、絵巻物に描かれた中世の武士住宅で、『法然上人絵伝』の漆間時国の館のように明確に中門廊とみなすことのできる絵はそう多いわけではない。
『一遍上人絵伝』では、巻一の伊予田の一遍の生家として拙かれた茅茸の建物に、中門廊らしい突出部があるが、他には見あたらない。大井太郎の場面も、素直に見た限りでは、中門廊らしい突出部は認められない。ただし、右手奥の雲の陰に中門廊が隠されている可能性も否定できない。というのは、白壁に開けられた横連子窓は、中門廊に設けられることが多いのであり、絵画としては中門廊の存在を象徴的に示しているかもしれないからである(川本特論@参照)。
ここであえて問題にしたのは、この中門廊の有無によって屋敷全体の正面の位置、ないし方向性が変わってくるからである。すなわち、中門廊が無ければこの場面に描かれた側が主屋正面と素直に考えてよいであろうが、中門がもしあるとすると、この場面には見えない主屋向こう側に正面の庭があるという解釈も成り立たないわけではない。しかしながら、この場面全体の描き方からみてわざわざ主屋の裏手を描いたと積極的に考える必要もないように思われる。

私はこのシーンを主屋の裏手から西面を描いたものと解釈する。理由は主屋の棟の向きと、玉井哲雄もあげた同書中の「川本特論@」同様に「横連子窓」である。具体的には以下の4点にまとめられる。

  1. 玉井哲雄は「横連子窓は、中門廊に設けられることが多いのであり」というが、中門廊以外に「横連子窓」は無い。仮に特殊な例があったとしても、絵巻の絵は記号の集合体であり、「横連子窓」イコール中門廊、イコール主屋の出入り口という記号性を絵師が踏み外すまい。
  2. 確かに「中門廊とは寝殿造の出入口であった中門を構成する重要な部分」という記述の主人公の中門は描かれてはいないが、鎌倉時代に入ると中門の無い中門廊がある。公卿であった藤原定家の屋敷がそうだ。むしろ中門がある方が一握りの最高級寝殿造である。
  3. 横連子窓の先に妻戸は描かれてはいないが、この面全体には妻戸、蔀戸二間、横連子窓という後期中門廊の三点セットが揃っている。ただ蔀の釣り上げ部分が省略されているが、これはそれを描くと大井太郎の姉の顔が書けなくなる為の省略だろう。
  4. すると「わざわざ主屋の裏手を描いた」理由を考えなければならなくなるが、それは寝殿背後の藁葺屋の副屋の竹の柱を描きたかったからではないだろうか。玉井哲雄が考えた通り、この建物は大井太郎の姉の隠居所だろう。その姉は不信心だったが、一遍に出会って信心が芽生え、後に出家したという筋書きに沿っている。竹の柱は「粗末な建物」をも意味するが、その「粗末な建物」は『方丈記』のような出家者の住まい。信仰の記号としても用いられることを同書で小泉和子が書いている。

もちろんこのシーンが「主屋正面」でなく、「主屋西面」であったとしても、玉井哲雄の分析の中心は揺るがない。玉井哲雄は上記の後で

大井太郎の館の場面も含めていずれの場面も、建物内部と前面の庭がその間にある縁を介して一体のものとして使われるのは、公的ないし晴れの場であるということで、家族だけの日常生活ないし内輪の場ではないということに注目しなくてはならない。実は、このような主屋の使われ方そのものが、寝殿造における寝殿ないし対屋の晴れの場における使われ方と共通している。

というが、西礼の家での西面は場合によっては南面以上に「公的ないし晴れの場」なのであるから。従ってこの大井太郎の屋敷は、摂関家の寝殿造と比べれば確かに貧相ではあっても、鎌倉時代の寝殿造の常識がら踏み外すところは無いと思う。

【2016.9.21 追記】
これは私の新説、独自見解と思っていたらまたしても残念なことが。『新建築大系2 日本建築史』 p.289 で強大の高橋康夫先生が「図の左手(おそらく東方)」と書き、横連子窓と妻戸のある右側の面を中門廊としている。おまけに細川管領邸に似ていると。1999年発行の本なので、圧倒的に高橋康夫先生の方が早い。論文ネタがひとつ減ってしまった。 

 「法然上人絵伝」押領使漆時国の館

法然の生家

鎌倉時代末の作とされる『法然上人絵伝』の押領使・漆時国(うるまときくに、法然の父)の館は建物の大きさ、雑舎の数などだけ見ると近世の農家ぐらいである。

ただしそれは絵巻の記号であって実際の姿ではない。実際の姿云々は後回しにして、先に記号を読み解いていこう。詞書はこうである。

抑も上人は、美作国久米の南條稲岡庄の人なり。父は久米の押領使、漆の時国、母は秦氏なり。子なきことを嘆来て、夫婦心をひとつにして仏神に祈り、申すに秦氏夢に剃刀を呑むと見て、則ち懐妊す。(小松茂美氏調整後の文)

小松茂美の解説に従えば海(あま)氏、管家(かんけ)とともに当国の名家で、代々大領、小領などの郡領の職を世襲してきたという。要するに美作国久米郡南條稲岡庄の庄司であり、郡司や押領使を兼ねていたということだろう。頼朝旗揚げ時点の畑山重忠のようなものか。
この館には中門の無い中門廊がある。そしてそこには武具をまとった郎党が宿直し、寝殿には主人夫婦が描かれる。中門廊は一般には梁間(はりま)一間で外側は壁。内側柱間は吹放しである。これは最上級の寝殿造でも同じであることは既に見てきた。ここに中門廊が描かれているのは、地方の在地領主ながら押領使で、身分の高い武士ということを説明しようとしている。
館が小さく描かれているのは、京の僧やら貴族やら絵師にとっては美作国という「都鄙」の「鄙」、要するに田舎の出来事ということを伝える記号である。加えて実際にあり得る館の全景を書いたら、法然の父母が点になってしまう。何しろこの絵は法然を懐妊するシーンなのだから両親が寝ている処を描がけなければ話にならない。ちなみに我々の思う「寝むる」は、この時代には「臥せる」で、「寝」はメイクラブのことだという。最中でなくて「絹々」でも良いが。

しかし絵のままだと法然の父母は寝殿の南庇で寝ていることになるが、そんなことはありえない。実際には母屋か北庇であろうが、それでは絵に描けないのでこちらに持ってきたのだろう。絵巻の絵は説明のためのシーンのコラージュである。だいたい蔀戸を開けたまま寝る訳がない。
もうひとつ。この絵や先の信州佐久郡大井太郎の屋敷から地方の武士の屋敷の規模を推し量る事は出来ない。後世の絵師が法然の生家を見たことがないのは当たり前だが、絵師が思い描いた漆時国の実際の館とも違う。というのはあとの次のシーンも、その次のシーンも同じ漆時国の館だからである。

法然誕生のシーン

下の絵では侍廊らしきものが描かれているが、館の全景の絵には該当がない。

次に中央左寄りの室内には屏風に囲まれたところに、今にも出産という法然の母が描かれているが、その左側は庭である。しかし同じ構図の次の絵、夜襲されるシーンではそこに部屋がつながっている。出産の場面(上)でその部屋が消されて庭になっているのは、法然が生まれるとき天から白旗が降ってきたというシーンだからである。左端の火消しの纏いのようなものがそれだ。庭を書かない訳にはいかない。代わりに手前側に部屋が出来ている。それにしても広い立派な館だ。冒頭の百姓屋のような家と同じとはとても思えない。従って先の法然の生家の絵をもって、この時代の在地領主の館はこれぐらいの規模と解釈するのは正しくない。

館が夜襲されるシーン

下はその漆時国の館が夜襲されるシーンである。同じ家を同じ角度から描いているはずなのだが、先の絵とは間取りの整合性はとれない。三間が二間になったり、舞良戸(まいらど)で開放部分のはずが塗り壁になっていたりする。絵巻では何を伝えたいかで間取りも向きも館の大きさも瞬時に変わる。屋敷の規模を写実的に書いていたら人間は点になってしまって伝えたいことが伝えられなくなる。ちなみに法然の父、漆時国の臨終の場は上の絵の左につながる部屋である。調度はなかなか立派なものである。

絵巻が伝える経緯はこうである。漆の時国は自分の由緒深い本姓を誇って、稲岡庄の預所職明石の源内武者定明(堀河院滝口武者) の出自の賎しさを侮り、命に従わなかった。それに立腹した定明は恨みに思って、保延7年(1141)の春、時国の屋形に夜討ちをかけたと。

ここから漆時国 は在地領主で稲岡庄の庄司だったのだろうと考える。加えて秩父党のように親類縁者のそれぞれが、同じ様に近隣の在地領主として散らばり、漆の時国はその在地勢力のリーダーだったのだろう。押領使であっても、国衙に対しては郡司とか在庁官人官人を兼ねていたとしても、一番の収入源は稲岡庄だったと考え ればこの夜襲の意味は理解出来る。「出自の賎しさを侮り」云々は、法然門下の僧にはそう思っておくのが理解しやすかったからだろう。

権門である本所、その下の領家、現地の庄司という三階層が基本だが、領家と現地の庄司の間に 預所が入ることがある。例えば千葉氏は、国司とか頼朝の父義朝とか、佐竹氏の一族などに繰り返し庄園を横領されてかなりつらい目にあっている。源内武者定明もそういう形で割り込み、漆時国らが反発したというあたりが当たらずとも遠からずか。そういえば大庭御厨の濫妨は天養2年(1145)、千葉氏の相馬御厨の方は下総守藤原親通の横槍が保延2年(1136)7月15日、源義朝の介入が康治2年(1143)、佐竹義宗の横やりが永暦2年(1161)正月。東国でも西国でも同じ様なことが起こっていたという訳か。


再び平井聖に戻り

平井聖はここにあげた三つの絵巻『西行物語絵巻』、『一遍上人絵伝』、『法然上人絵伝』と、『明月記』に記された藤原定家の家を含めて、その主屋は共通する特徴ある姿であるという。

これらの主屋は、いずれもそれほど大きなものではない。定家の家の寝殿は、間口三間の母屋の周囲に庇をめぐらした平面であった。あとの三つの主屋の規模も、画面でみる限り定家の家の寝殿とほとんど変わりはない。これらの主屋に共通するイメージをつくり出しているのは、片隅から短い中門廊を突き出す非対称な形である。(pp.88-89)

必要のない部分が省略されて非対称になり、最も単純で必要条件だけを備えた形が、短い中門廊を一方の端から突出した主屋姿だったのである。(p.89)

普段、・寝殿造の住宅を訪れた人は、中門廊の中門付近から上った。牛車で乗りつける場合には、中門廊の外側にある縁から直接乗り降りしている。徒歩の場合も中門廊の中門側の妻から上る人、中門廊に設けられた板扉から上る人など、身分・目的によって入口はちがっていたが、中門廊はそれらの人びとの昇降の場と して重要な役割を果たしていた。従って寝殿とその周辺をいかに簡略につくっても、中門廊の出入口としての機能を果たす部分だけは省略することができなかった。中門がなくなっても短い必要故少限の中門廊が残ったのである。(pp.89-90)

この短く突出した中門廊の名称は、いつのまにか中門と呼ばれるようになる。(p.91)

これらの記述は、中門とセットの中門廊から、中門の無い中門廊、そして主殿造から書院造にまで痕跡を残す玄関という意味での中門の説明としてはもっともで的を射ているとは思うが、説明を急ぎすぎていると思う。例えば定家の家には最初中門廊代は無かった。時代の変遷ともうひとつ、階層による差のファクターである。

細川管領邸や三井寺光浄院客殿は高貴な客人を迎えるための装置は必要であったろうし、押領使の漆間時国の館やおそらく地頭の大井太郎の屋敷は田舎ではあってもその地では名士、大名であろうから絵師は田舎であっても格が高いことを表すために中門廊を描いたのだろう。そして実際にそういう階層では中門廊を持つことが良くあったに違いない。一方、左兵衛尉佐藤憲清は領地に戻れば名士でも、京で左兵衛尉なら左衛門尉より格下である。貴族社会ではまさしく侍階級であるので、中門廊を持たなければ対面が保てないというものではない。そしてまたそれを描かなくとも佐藤憲清の屋敷は侍廊まである立派な屋敷である。ついでに云うなら佐藤憲清が出家を決意して家を出て行く西側には中門廊が描かれている。


初稿 2016.1.6