寝殿造 3.4     中級貴族の寝殿造       2016.9.19 

摂関家・里内裏以外の寝殿造

豪華絢爛な王朝貴族社会のトップクラス以外の寝殿として知られるもの。

散位従四位下大江公仲の坊城第、嘉保2年(1096年) 太田静六復元図 

太田静六は『寝殿造の研究』(p.512)に次のような想像図を載せる。しかしこの池は全くの想像であり根拠は無い。

寝殿造の歴史

太田静六復元図 

太田静六は池について以下のように述べるが承服しがたい。

家族への処分状であるため、庭園関係については一言も触れていないが、南半部には御堂と書倉しか設けられなかった点からみても、南半部は園池であったことが解るので、南池や中島を持つ寝殿造式造園がなされたのであろう。

また、元史料には中門廊の記載は無い。『大日本史料』嘉保元年12月29日条中「大江仲子解文」にある該当箇所は次の通りで屋根は檜皮葺ではなく板葺である。なお以下の屋地は一町(東西4行、南北8門の32戸主)の広さで「捌戸主」は「八戸主」の意味。4人の子に1/4づつ相続させるためのものである。

丑寅角捌戸主〔西三四行、北一二三四門〕
 建 板葺五間四面寝屋 一宇〔東北二面有孫庇〕
   四間二面廊 二宇
   五間二面雑舎 一宇
   三間倉代 一宇〔但有西地、分可移渡〕
   三間一面車宿 一宇〔但有南地、分同可移渡〕
 此外有六間四面屋一宇、於件屋者、所分宛男以実也、隔中垣之日可渡南地乎
同地辰巳角捌戸主〔西三四行、北五六七八門〕
 建 板葺四間書倉 一宇
   六間三面屋 一宇〔但在北地、分隔中垣之日運渡之〕
同地未申角捌戸主〔西一二行、北五六七八門、堂敷地也〕
同地成亥角捌戸主〔西一二行、北一二三四門〕

『寝殿造の研究』(p.511) 平安遺文1338

四間二面廊や五間二面雑舎などの記述に対する間取りがああなるものなのかどうか、私には解らない。梁行二間の廊の両妻側に庇を出した形式を想定した方が自然ではなかろうか。それ以上に六間四面屋と六間三面屋の奥行きを方や四間、方や二間に書くのはおかしいと思う。更に四位で朱雀大路に門が開けたか? 印象としては太田静六自身の寝殿造概念に引きずられた、かなり杜撰な復元図だと思う。

なお大江公仲はこの他、京に以下の二つの屋地を所有している。

  • 美福地壱町〔在左京七条一坊八町、建三間四面屋一字〕
  • 西三条地壱町〔在右京三条一坊六町、建三間四面屋一字〕

池の無い公卿の屋敷

修理大夫藤原顕季の高松殿

方一町の三条坊門南・西洞院東第である。この屋敷は白河上皇の院御所になったこともある。修理大夫というと下級貴族のようにも見えるが、藤原顕季は白河院近臣として、讃岐守、丹波守、尾張守、伊予守、播磨守、美作守なども歴任し、院司から院別当、正三位太宰大弐にまでなった公卿である。実はこの頃の修理大夫は内裏の修理費用を負担できる院近臣、大国の受領が就任した。同じく白河院近臣を勤めた藤原家保の父、鳥羽院近臣藤原家成の祖父にあたる。

『中右記』康和4年(1102〕正月にこう記される。

正月十一日、夜上皇従鳥羽殿、渡御顕季朝臣新造宅高松、一両月間可御

つまり『中右記』に詳細が記される高松殿が火災後に再建された頃、藤原顕季は四位の美作守、諸大夫、受領層であった。長治元年(1104)正月三日に堀河天皇が、白河法皇の御所・高松殿へ朝親行された時の次第も『中右記』にある。

正月三日、為朝親、有行幸法王御所高松亭、(中略)高松西門暫留御輿、(中略)寄御輿於西中門下、(中略)入御西対、(中略〕於寝殿簾中有御拝、(中略)西侍廊上達部座、障子西殿上人座、同廊北庇東宮殿上也、(中略)此亭寝殿、西対代廊、西中門許也、(中略〕西車宿暫為御輿宿所

「この第は寝殿と西対代廊と西中門だけだ」と記され、東西両対屋は無論のこと、東西対代すら持たず、有るのは寝殿と西対代廊と西中門だけである。その太田静六復元図(『寝殿造の研究』 p.509)を以下に示す。平安時代ももっと末期や、鎌倉時代に良く見る姿である。

寝殿造の歴史

別な意味で貴重な存在だといえる。それは高松殿のように寝殿と西対代廊と北対が中心建築というように簡略化された寝殿造の実例は史上に現れる機会が少ないかとである。平安時代を通じて少納言や参議程度の邸宅では、東西に対屈ないし対代を持つ正規寝殿造に住む者の方が少なく、大勢としては非参議顕季の高松殿程度の家が普通であったかと思われる。(pp.508-509)

参議程度というが、参議は公卿である。殿上人より上の立派な貴族である。平安時代を通じて公卿、殿上人程度の中流貴族の邸宅では、東西に対を持つ正規寝殿造に住む者の方が少ないと太田静六は云う。「東西に対を持つ正規寝殿造」は貴族ぼ邸宅ではなく、最上級貴族の邸宅だと太田静六も思っていたらしい。そしてこの屋敷には池が無いことも認識している。大江公仲の坊城第では池を書き込んだ太田静六だが、こちらの高松殿では「無い」と見なすしかない証拠があるからである。それが以下の文である。

天皇をお迎えする時でも、大寝殿造では龍頭鈎首舟が出て舟楽を奏するのだが、高松殿では単に乱戸を発するだけなので、南池や中島も設けられなかったものと思われる。設けられたにしても小規模なもので、舟楽を奏したり中島に楽屈を張ることなどはできなかったはずである。(p.509)


修理大夫藤原基隆の三条第

また修理大夫だが別人である。藤原基隆は白河上皇の院近臣として活躍を始めるが、乳母子として天皇にも近侍した。
美作守、摂津守、伊予守、播磨守、讃岐守、再度伊予守、再度播磨守を経て従三位となる。
この間に、多くの仏寺・殿邸を造営。白河上皇の院別当にも補任され、国司の重任や遷任により蓄えた財力をもって上皇周辺の経済面を支える典型的な院司受領である。白河法皇が崩御すると鳥羽上皇の院司となった。

その三条第は『中右記』中で「如法一町宅作」と賞賛される屋敷で、白河上皇に進上され、白河院の御所として用いられた上、院の養女で鳥羽天皇の女御となった藤原理子の御所ともなり、白河院はここで崩御する。しかしこの屋敷には南池がない。『中右記』元永元年(1118)正月20日条には「此御所依無前池」とある。


対屋の無い公卿の屋敷・藤原宗忠

対屋といっても東西の対のことだが、『中右記』元永2年(1119)3月21日条に「東西対東西中門如法一町家」と書いたのは白河院の近臣藤原宗忠である。彼の屋敷がの家は嘉承元年(1106)に完成したとき、彼は正三位の公卿であったが、屋敷の構成は、寝殿・北対・廊・侍廊・中門廊・中門・車宿・東門・北門・他1(『中右記』 長治2年3月18日、6月26日、10月3日、嘉承元年7月23日、12月7目条)で、東西の対は無かった。

元永元年(1118)には小寝殿・出居廊・車寄廊などが見えるが東西の対は無い。出居廊は二棟廊、車寄廊は中門廊のことか。大臣になる前とはいえ公卿である。「東西対東西中門如法一町家」を言葉通りに受け取れば、彼は自ら法を犯したことになる。もちろんそんなことはなく、「如法一町家」は里内裏や院御所に使われるような最高級の屋敷への賛辞ととった方がよかろう。

寝殿の無い公卿の屋敷・源雅実

右大臣源雅実の土御門殿は康和3年(1101)になるまでは西対はあっても寝殿が無かった。『中右記』康和四年正月二十日条にはこうある。

正月廿日、内大臣大饗事〔土御門亭新造寝殿造、初有此大饗也〕(中略) 此亭本西対許也、而昨年作五間四面寝殿

村上源氏九我家の祖である源雅実が内大臣になって、翌年の内大臣大饗に向けて寝殿を建造したと。寝殿が儀式の場であることが良く解る事例ではあるが、この源雅実は内大臣になる前は右大将で15年も前から正二位である。決して脇役ではなく、その後右大臣、太政大臣にまで昇る。

白河院の中宮藤原賢子の同母弟で堀河天皇の外叔父として朝廷で重きをなし、『今鏡』によると、白河院や、関白藤原忠実にもはばかることがなかったという。その源雅実の屋敷は大臣になるまで寝殿が無かったという。


藤原定家 藤田盟児復元図 

「寝殿造の最小単位」(小沢朝江他 『日本住居史』 2006)などと云われる藤原定家の一条京極亭には最初中門廊代すら無かった(藤田盟児「藤原定家と周辺住民の居住形態」1993)。嘉禄2年.(1226)だから定家は既に公卿である。

寝殿造の歴史


初稿 2016.1.6