寝殿造 3.5 家地関係史料にみえる小規模寝殿  2016.10.2 

その他

藤田勝也2003 『日本古代中世住宅史論』 p.56-65
 「家地関係史料にみえる平安時代〜l鎌倉時代初頭の住宅敷地内建物構成」 よりピックアップ。

ピックアップの条件は「寝殿」とあるもの。「寝殿」とは無いが「桧皮葺」あるいは「車宿」がある京(山城国)ものを候補とし、寝殿とあるもの以外の僧坊を除いた。

承和8年(841)治郎小輔従五位下石川朝臣宗益

三間桧皮葺板敷屋一間(軒?)庇在三面 / 五間桧皮葺屋一宇在口 / 五間板屋一間在庇口面 /
 桧皮葺甲倉一宇 / 桧皮葺板倉一□□□□・・・

原史料:石川宗益家地売券 (平安遺文70)

9世紀の五位は平安時代後期の五位よりもずっと上である。「在口」とは「在庇」だろうか。倉が桧皮葺とは恐れ入る。何の倉だろう。ただ、この時代の桧皮葺は我々が見、思うものとはだいぶ違うはずである。

仁寿2年(852)尼証摂

ピックアップの条件には外れるが、「寝殿の平面構造」の中でも紹介したので含めておく。

五間檜皮葺板敷東屋一宇在三面庇〔南五間懸板蔀五枚、東二間懸板蔀二枚、北三間懸板蔀三枚〕

原史料:尼証摂施入状 (平安遺文101)


斎衡2年(855)、民部卿阿部朝臣家知事秦永成

三間桧皮葺板敷屋壱宇 庇三面於己損 / 五間酒屋壱宇 庇二面己損 / 板屋壱宇

原史料:秦永成地相博券文(平安遺文118、119)

民部卿の屋敷ではなくて、その家司の秦氏の家である。「己損」連発なのでかなり老朽化しているらしい。五間酒屋はよく解らない。

正六位上大海当氏 延喜21年(912)

正六位上なので貴族ではなく、その下の官人だろうが、大海当氏所有の、左京七条一坊一五町の櫛笥小路に西面する4戸主の屋敷が記録に残る。4戸主とは一町の1/8である。

三間桧皮葺板敷屋壱宇 在庇四面並又庇西北、又在小庇南面、戸五具、大二具、小三具、
五間板敷弐宇 在一宇庇、南西面、在一宇庇、西面、戸各在壱具
中門壱処、門弐処 大小

原史料:「七条令解」(平安遺文207)

『古代社会の崩壊』(p.49)から藤田勝也の復元図を以下に引用する。屋地が狭いのでこの配置以外にはあり得ないと思うが、三宇とも板敷とあり、主屋は檜皮葺である。

寝殿造の歴史

『古代社会の崩壊』(p.49)

応和元年(961) 正六位上上海直延根後家海恵奴子

三間桧皮葺屋壱宇 / 三間車宿壱宇 / 門屋壱宇、
場所:左京三条四坊四町西一行。 

原史料:朝野群載巻21

「四町西一行」を額面どうりに読めば8戸主とは云え1対4の細長い屋地である。「西一行内」で実は4戸主というなら解るが。

貞元3年(978)秦是子 

三間四面寝殿一宇 在孫庇北南 / 七間三面土屋壱宇

原史料:山城国山田郷長解(平安遺文313)

寝殿は四面庇で更に孫庇が南北に付くと東西の棟なら南北の方が長くなってしまう。寝殿は東西棟との先入観が強いが、この建物は南北棟の可能性は無いか。「七間三面土屋」とは柱間寸法の違いを考慮しても寝殿より大きいのではないか。なお「土屋」とは板床ではない土間の建物である。


永保3年(1078)文書生藤原(入手丹波守)

立物屋八宇 寝殿 廊 雑舎
平安京五条四坊二町二三四行北六七八内(七戸主七丈一尺四寸)

原史料:左京五条令解 (朝野群載巻21)

文書生は当時はまだ秀才で貴族予備軍である。

嘉保2年(1095) 散位従四位下大江公仲処分状案 

丑寅角捌戸主〔西三四行、北一二三四門〕
 建 板葺五間四面寝屋 一宇〔東北二面有孫庇〕
   四間二面廊 二宇
   五間二面雑舎 一宇
   三間倉代 一宇〔但有西地、分可移渡〕
   三間一面車宿 一宇〔但有南地、分同可移渡〕
 此外有六間四面屋一宇、於件屋者、所分宛男以実也、隔中垣之日可渡南地乎
同地辰巳角捌戸主〔西三四行、北五六七八門〕
 建 板葺四間書倉 一宇
   六間三面屋 一宇〔但在北地、分隔中垣之日運渡之〕
同地未申角捌戸主〔西一二行、北五六七八門、堂敷地也〕
同地成亥角捌戸主〔西一二行、北一二三四門〕

原史料:(平安遺文1338)

これは「中級貴族の寝殿造」でも紹介したものである。


天治2年(1125)少納言禅師 

六間二面寝殿壱宇 在南又庇 門壱于
場所:左京七条二坊一町西三行北七八門内

原史料:「僧某房地田畠所従等譲状」(平安遺文2045)


大治3(1128)平資基 

壱宇五間二面寝殿 壱宇三間二面廊 壱宇三間二面雑舎 壱宇三間一面車宿
場所:左京七条二坊一町西三行北七八門内

原史料:大治3年(1128)の「平資基屋地去渡状」(九条家文書)

「九条家文書」に残る大治3年(1128)の「平資基屋地去渡状」には「五間二面寝殿」とある。寝殿の他の建物は「三間二面廊」、「三間二面雑舎」、「三間一面車宿」各1件で、場所は「左京七条二坊一町西三行」である。「左京七条二坊」とは南北を八条大路と七条大路、東西を西洞院大路と大宮大路に囲まれた坊で、その坊を4×4の16に割ったものが一町であり、坊のなかの町にも番号を振る。「左京七条二坊一町」は七条大路と大宮大路に面する坊の中では北西の端の120m四方の区画である。それを更に割るときは、まず東西に4つに割り、左京の場合は西から一行、二行と数える。「一町西三行北七八門内」とは一町の西から三行目の行で、北から七八門。つまり南側2戸主(30m四方、300坪弱とかなり小さい敷地ということになる。その屋地に車宿まで含めて四宇もの建物とはかなり密集した配置となる。

残念ながら平資基なる者は「尊卑分脈」にも出ていない。三間一面の車宿もあるので、諸大夫クラスの貴族と思われる。


天承元年(1151)信濃守藤原盛重 

屋三宇並車一宇
場所:左京七条二坊一町西三行北七八門内

原史料:「藤原盛重屋地譲状」(九条家文書)

これは前述の平資基から信濃守藤原盛重が買い取った屋地をその娘「佐女牛殿」に譲った譲状である。従って「屋三宇」とは「壱宇五間二面寝殿 壱宇三間二面廊 壱宇三間二面雑舎」のことである。


仁平2年(1152) 神主従四位上賀茂縣主(あがたぬし)

代々賀茂神社の神主を務める家系であり、「賀茂某家地譲状案」(「平安遺文」2771号)には

五間四面寝殿一宇
十三間廊一宇 / 三間一面侍屋一宇 / 三間二面車宿一宇
七間三面雑舎一宇 / 五間二面倉一宇 / 七間一面倉一宇 / 三間一面倉一宇
敷地五段(他略)

原史料:「賀茂某家地譲状案」(「平安遺文」2771号)

敷地五段とは半町16戸主の広さである。それにしても十三間廊とはかなり長い廊である。


寿永元年(1182)豊受大神宮権禰宜従四位下度会神主 

五間四面寝舎壱宇

原史料:「度会神主某譲状」(「平安遺文」4065号)

 

文治3年(1187)2月「賀茂重保家地譲渡状」

35年後に先の譲状で屋敷を譲られた当時散位の賀茂重保が更にその子に屋敷を譲った文治3年(1187)2月「賀茂重保家地譲渡状」(「鎌倉遺文」206号)にはこうある。中門廊はその35年間の間に追加されたものか、それとも先の譲状では省略されただけなのかは判らない。寝殿も堀立柱の可能性はあるが、少なくともそれ以外は堀立柱だろう。35年の間には建て替えられている可能性が大きく、十三間廊が十間長廊に変わっているのはその為だろう。その他の雑舎の数も減っている。

地五段
五間四面寝殿壱宇付中門廊
十間長廊  壱宇 / 三間二面厩 壱宇 / 三間二面車宿壱宇
七間雑舎  壱宇(以下略)

原史料:文治3年(1187)2月「賀茂重保家地譲渡状」(「鎌倉遺文」206号)


文治3年(1187)小僧都旱海譲状

堂一宇 一間四面檜皮葺
寝殿一宇 四間三面檜皮葺
雑舎一宇 三間二面板葺
湯屋一宇 三間三面板葺

原史料:小僧都旱海譲状(鎌倉遺文215)

 

建久2年(1191) 大法師勝海譲状案

寝殿一宇 四間二面
雑舎一宇 四間一面

原史料:「大法師勝海譲状案」(鎌倉遺文528)

 

建久3年(1192) 散位大中臣朝臣処分状

三間四面寝殿壱宇
三間一面侍車宿壱宇 / 五間三面大炊屋壱宇 / 
倉壱宇 / 平門壱宇

原史料:「大中臣某処分状」(鎌倉遺文639)

三間一面侍車宿とは侍所の端が車宿になっていたのか。大炊屋は台所かと思ったが、しかし五間三面は大きすぎる。どちらかの端の庇に竈を置き台所とした雑舎か。

建久6年(1195)散位中原為経譲状

屋四宇内 五間一面寝殿一宇 / 雑舎三宇 / 侍屋一宇

原史料:「中原為経譲状」(鎌倉遺文803)

合計すると5宇になるのだが。五間一面寝殿とは南に庇だろうか。屋根は入母屋ではなく切妻だろう。車宿は無いが侍所がある。


建保7年(1219) 地頭左近将監

五間居屋 / 三間冬殿 / 二間鷹屋 / 五間御馬屋

原史料:「地頭某宅屋譲状案」(鎌倉遺文2430)

ピックアップの基準外だが、地頭が出てきたので挙げておく。「五間居屋」というのが主屋だろう。「冬殿」は意味がわからない。鎌倉時代に「地頭左近将監」とあれば一応成功(じょうごう)で叙爵しているだろう。左衛門尉より上であるが、その割に建物が少ない。全てを譲ったとは限らないが。


それぞれの原史料に当たればもう少し実態が見えてくるかもしれないが、以上は藤田勝也のまとめた表だけを見ている。

初稿 2016.1.6