寝殿造 4.3        板葺の屋根      2016.5.6 

板葺

柿葺を含む板葺の歴史は茅葺(草葺、藁葺なども含む)に次いで古いと思われる。杉・檜・椹(さわら)などの、木の目がよく通って耐水性に優れた木を割って作った。既に述べたようにノコギリで切って板を作るようになるのは室町時代以降、一般化するのは江戸時代以降である。

木を割るというのは原始的な方法ではあるが、木の目に従って割られ、木の目が切れないことで現在の機械製材の板よりも耐久力が増す。割り板は、屋根に葺かれた時に一枚一枚の間に空気の層ができて、機械製材の板のように毛細管現象で雨を吸い上げることもなく、速やかに流れ落ちて乾燥もはやいという。さらに木割りの際にできる天然の反りなども利用して屋根は葺かれていたようである(原田2002)。逆に真っ直ぐ素直に割れる木でなければ建材には使えない。

奈良時代の板葺

古代の社寺などに用いられた葺き方は「大和葺」と呼ばれ、6m近い長板を垂木に沿って棟から軒先にかけて流し、左右相互に重ね合わせることによって、棟と軒先に材木を載せるという簡単な工法である。


奈良時代に紫香楽京にあったといわれる藤原豊成の板殿は現物は残っていないが、正倉院文書中の「矢口古人屋丈尺勘注解」、「造石山院所返抄」、「造石山院所解案」などの石山寺造営文書など当時の資材帳などに克明な記録ががあり、そこからの関野克の復原図がある。それによると、切妻造で板葺の掘立柱建物であり、長板(5.8m×30cm弱)を左右相互に重ね合わせた葺き方だという。
同文書には、梁間二間、桁行三間、桁長3丈5尺の別の建物について、長1丈8尺(5m強)、広5寸(15cm)の葺板を312枚との記載がある。板1枚の分担は3寸5分(10.5cm)。広5寸の板なら両側でそれぞれ7分5厘(2cm強)ずつ重ねていたことになる(平井,pp.97-98)。

平安時代末から鎌倉時代の板葺

鎌倉時代は板葺から柿葺への過渡期であるとともに、板葺の方も徐々進化していく。代表的なものが裳階板葺であり目板打である。

大和葺                裳階板葺                 目板打

裳階板葺は法隆寺金堂や五重塔などに見られる板葺工法で、垂木がなく桁に直接乗っている。

ずらして葺く上方の板が山形になっており、幅は一尺ほどで雨水を左右に分けて水はけをよくするなど工夫の跡が見られる。

さらに目板打になると、幅広の板を並べ目板で押えるだけでなく、上方の板を半円形にして、下方の板も丸く挟るなど改良が施され、一種の木瓦葺といったものになった。法隆寺の金堂、五重塔の裳階は長旅年間(1457-1460)の修復の際に、大和葺から目板打に改められたと考えられている(原田2002)。

それらは寺院建築の例だが、住宅建築においても、少なくとも古代・中世の都市においては板葺が基本である。
平安時代末の『年中行事絵巻』でも、鎌倉時代の様々な絵巻においても板葺は沢山出てくる。

『年中行事絵巻』の板葺は町屋がメインで、内裏や院、東三条殿などは綺麗な檜皮葺に描かれているが、鎌倉時代の絵巻、例えば『松崎天神縁起』に描かれる菅原道真の養父菅原是善の屋敷は、元は立派な檜皮葺の屋敷に描かれているが、屋根の檜皮があちこちはげている。

次は『松崎天神縁起』より近江国比良宮。


下は『春日権現験記絵』での藤原俊盛の屋敷である。


そのはげ落ちたところを見ると、桁に垂木を載せて木舞を打ち、その上に棟から軒方向に長板を葺いて野地にしている。その長板は直線であり反ってはいない。そしてその長板、あるいは短い榑板の上に押縁が見える。現在の檜皮葺のように野地板が横張りで隙間があって、あんなに檜皮が剥がれたら、雨漏りどころの話ではなく住めたものではない。絵巻の描写を信じるなら檜皮葺の厚さは現在よりも相当薄そうに見える。それだけでも雨露をしのげる板葺の上に、更に仕上げとして檜皮を薄く引いていたのではないだろうか。

原田はこの絵のことではないが、葺材の下に木舞がくると思われる位置に押縁や押えの材を置き、両端は母屋桁に固定するか、破風板に細工をして留めていたのだろうと推測する(原田2002)。

立派な屋敷でも檜皮葺よりはワンランク落ちるのは板葺。母屋は檜皮葺でも庇は板葺というケースもある。下は『男衾三郎絵詞』での武士・男衾三郎の屋敷。屋敷の構成は寝殿造と変わらないが、屋根を板葺に描くことで、同じ武士ながら貴族的な兄・吉見二郎の屋敷と描き分けている。描いた時代は違うが共に鎌倉時代の絵巻で、中門廊を先の菅原是善の屋敷と見比べると、檜皮が乗っているかいないかだけである。菅原是善の屋敷や近江国比良宮から檜皮を全部取り去れば屋根は男衾三郎の屋敷と同じになるだろう。

むしろ男衾三郎の屋敷の屋根の方が高級っぽく反っているのが面白い。ただの直線の板屋寝では屋敷に見えないので反りを強調したのか。

一方、庶民の住宅では、板の上には丸太や木の根、竹などが疎らに置かれており、重しに河原の石などが手当たり次第に載せてある。今では記念建造物だが、戦前までは地方の山間部の民家に良く見られた光景だろう。違うところは、平安時代から鎌倉時代にかけての町屋、民家は近世や近代よりもずっと小さいということだ。『今昔物語集』を読むと、貧乏な下級官人は三畳二間か四畳半二間(板張りと土間)ぐらいの家に住んでいる。さながら下の絵のようなものである。

上が平安時代末の『年中行事絵巻』、下が室町時代末の『洛中洛外図屏風』の町屋である。この違いを探すのが建築史家の仕事なのだが、ざっくり見ればたいして変わらない。しかし江戸の町屋とは大違いということは誰にも判る。上下とも大都市京都の繁華街。今で云えば銀座に赤坂、新宿に渋谷というところか。


柿(こけら)葺

先に『上杉本洛中洛外図屏風』では、屋根は4種類に描き分けられており、瓦屋葺と檜皮葺と板葺が二種類。高級なこけら葺と粗末な板葺、と書いたが、高級なこけら葺がいつから始まったのかは明らかではない。

『上杉本洛中洛外図屏風』である。瓦葺と粗末な町屋の板葺は判るだろう。残るは檜皮葺とこけら葺だが、
判るだろうか。石の載ってない立派な茶色の屋根で、茶色の明るい方がこけら葺である。

「柿(こけら)葺」という呼称の初出は1197年に編纂された『多武峰略記』である。1180年から約10年かけて別院にあった宝積堂、南院堂などの屋根をそれまでの檜皮葺から柿葺に改めたとある。

もうひとつは『古今著聞集』(巻第20)695話「渡辺の薬師堂にして大蛇釘付けられて六十年余生きたる事」である。橘成季が「源三左衛門かける」に聞いた話があるが、そこに「こけらぶき」という言葉が出てくる。「源三左衛門かける」は渡辺党だろう。嵯峨源氏の系統は「渡辺綱」のように一字名を用いる。「渡辺の薬師堂」はおそらく渡辺党の氏寺での話である。
その薬師堂は建てられて60年。「もとこけらぶきにてありける」屋根がかなり痛んだにで修理のためにはがしてみると、釘付けされたまま生きている蛇が発見されたという。原田は「柿板は大きな釘を打つと割れやすいので、おそらくは押縁か桟を屋根裏板に釘止めしたものであろう」と想像する。

『古今著聞集』は建長6年(1254)の編纂。それより60年前だと1194年頃だが、「かける」のときではなく「つがうの馬允が時」とあるので1194年よりも前に建立された堂ということになる。「源三左衛門かける」は『尊卑分脈』第三編 p.20の「翔」だと思う。馬允の「つがう」はどういう漢字なのか、いつの人なのかは判らない。『尊卑分脈』の「翔」の周辺にそう読めそうな者は見つからなかった。ただ、年代的には『多武峰略記』の記述とおおよそ一致する。しかしそこでこけら葺と書かれるものが、現在我々がイメージするこけら葺と同じかどうかは判らない。

現存する柿葺の実例は、法隆寺聖霊院内で、聖徳太子像を安置した厨子が最古のもの。弘安7年(1284)に改造で、出組斗棋の柿葺屋根。軒回りも木軒付を用いて格をもたせている(原田2002)。





飛騨高山陣屋のサンプル

ついでに榑葺き(くれぶき)、こけら葺などの画像を。飛騨高山の高山陣屋に展示されていたサンプルである。

石置長榑葺

これが先の「取葺」である。時代や地方により呼び方はまちまちだと思う。このクラスが民家によく見るものである。といっても絶滅危惧種の文化財家屋だが。高山陣屋では大倉がそうである。ただし古代・中世よりも板は短く薄くなっているように見える。


その大倉の屋根を下から見たところ。さきほどの庇の天井裏と見比べて欲しい。野地板(つまり屋根材の下地材)が無い。


半榑熨斗葺

高山陣屋では御役所、役宅がそうらしい。実はこの写真を撮った6年前には屋根まで気をつけていなかった。

 

こけら葺

こけら葺きを知ったのは円覚寺宝物風入れのとき、国宝舎利殿の前でお坊さんから説明を受けたときである。高山陣屋では玄関の庇がそうらしい。さきほどの庇もそうだろう。屋根裏を石置長榑葺の屋根裏と比べて見ると丁寧さが全く違う。つまりここに上がった中では一番格が高いということか。並んでいた三種のサンプルの中で一番丁寧である。 

上はサンプルだが、下は本物。
檜皮葺の屋根の例として冒頭に挙げた三渓園・臨春閣 の裏手の屋根。板を綺麗に重層に重ねてあるのが解る。ただ、屋根の淵だからか一般的なこけら葺よりも板厚があり、高山陣屋の分類なら半榑熨斗葺になるのかもしれない。