寝殿造 4.4       入母屋造の屋根      2016.8.23 

入母屋造の屋根

もう一度この図を見てほしい。今度は平面、つまり床面の話ではなく屋根の話である。


切妻屋根と庇の結合

寝殿の屋根は昔は本当に切妻屋根の下に庇を突き出す二重構造だったと思う。上の図では「D」の段階である。8世紀初頭の藤原京の右京七条一坊遺跡の想像図がそれにあたる。じつは江戸時代に建てられた現在の京都の御所、紫宸殿屋根もそうである。だが我々の知る入母屋造の屋根は母屋と庇がつながっている。冒頭の建長寺方丈の屋根のようにである。なお、寝殿造で「庇」というと、「庇の間」のことであるが、ここでの話題は本当に屋根としての庇のことである。

寝殿の現物は現存しないので、下の図の左は法隆寺の大講堂(入 母屋造、平安時代、国宝)の断面図である。

母屋と庇の関係が良く判る。おそらく右の図の様な切妻屋根の下に庇という単純な構造が元で、その段階の垂木(屋 根の野地板を支える木)を化粧垂木にして、その上に更に垂木(野垂木)を乗せている。つまり室内で上を見上げれば以前と同じだが、実は屋根の庇はその更に 上にあるようになった。化粧垂木といっても飾りではなく野垂木を支えている。その野垂木を母屋の垂木につなげ、母屋の屋根より緩い勾配としている。その上 に檜皮を葺いて母屋、庇の屋根の表面を一体化させたのであろう。ただしそれは上級の寝殿の場合で、普通の寝殿は鎌倉時代後半でも絵画には『法然上人絵伝』 (鎌倉時代末14世紀)の押領使漆間時国の屋敷などは右の図のように描かれている。
 

   太田博太郎『日本建築史序説』 p.23 より加工。

右の図では野垂木も化粧垂木もなくただの垂木である。左の図のように母屋の切妻屋根と庇の表面(外面)を一体化させたときに野垂木と化粧垂木の二重構造になり、元々の垂木が化粧垂木となって、その上に野垂木が載る。詳しくは「ひとかかえ大きな木」サイトをご覧頂きたい。
なお、法隆寺の大講堂は寝殿ではないが、構造としても10世紀末に再建という時代面でも、寝殿造の寝殿に近い。これが寝殿なら七間四面(桁行九間、梁間四間)と最大級の寝殿になる。

そうなったのは花山院の注文からか。『大鏡』第三巻にこうある。

この花山院は風流者にさへこそおはしましけるこそ。御所つくらせ給へりしさまなとよ。寝殿、たい(対屋)、わた殿 (渡廊)なとは、つくりあひ、ひわたふき(茸)あわ(合)する事も、この院のしいてさせ給へるなり。昔はへちへち(屋々)にて、あはい(間) にひ(樋・とい)かけてそ侍しは侍めれ。

昔は屋根は別々で、間にトイを懸けていたが、花山院が御所を造った時、寝殿・対・渡殿などの檜皮茸(ひわたぶき)の屋根を葺き合わせる様に命じたと。十世紀後半の話である。もっとも書いてあるのは建物同士の屋根をつなげてしまったということだから、母屋と庇の屋根の一体化 はそれまでに出来ていたかもしれないが。

花山天皇とは藤原兼家に欺されて出家し、その突然の出家を源氏が護衛(護送)し、阿倍清明の式神が清明にそれを報告したというあの事件の天皇である。

なお、さきほどの右の図、母屋と庇の屋根をつなげなければこうなる。江戸時代の高山陣屋だが。錣屋根(しころやね)という。


法隆寺の大講堂に戻って、下の写真は庇の内部である。その天井は現在の普通の家のような平天井ではなく、屋根の裏、つまり屋根の野地板とそれを支える構造材である垂木がそのまま見える。構造材ではあるが、これは化粧屋根裏で、この上に野垂木)を乗せ、瓦の屋根はその上である。

寝殿造の庇(屋根)も同様で、『年中行事絵巻』に書かれる最上級の寝殿や対では、下から見えるこの垂木は化粧垂木で、その上に野垂木があり、それが母屋の垂木に接続され、野地板が敷かれ、その上に母屋から連続して 桧皮が葺かれる。ただし、『年中行事絵巻』にも錣屋根(しころやね)を思わせる描写がいくつもある。寝殿造は全て整った入母屋造と決めつける訳にはいかない。

初稿 2015.11.19