寝殿造 4.5        庇屋根の形      2016.9.28 

『年中行事絵巻』に書かれる寝殿の屋根

寝殿の屋根は、絵巻に描かれるのはほとんど庇の先端である。あるいは例の雲がかかっていたり、屋根を取り外して内部が描かれたりで屋根の状態が解るものは少ない。一体化された入母屋造に描かれているのは第9巻8の内裏の仁寿殿(じんじゅでん)と、第17巻6 に描かれた馬場殿だけではないだろうか。いや、仁寿殿の屋根の形は入母屋造より古い、紫宸殿と同じ形にも見える。

寝殿造の歴史

『年中行事絵巻』巻五「内宴」(第9巻8)に描かれる仁寿殿。マンガ化すると下の図のようになる。この図のCの四隅に低い庇屋根が付いた感じだ。仁寿殿ではないが、屋根の形の参考となるのが右の長岡宮内裏正殿復原模型である。画像をクリックすると向日市埋蔵文化財センターの該当ページへ飛ぶ。

寝殿造の歴史   寝殿造の歴史

馬場殿があったのは高陽院と、あとはひとつか二つぐらいだったか。少なくとも南北二町の屋地でないと馬場は作れない。

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『年中行事絵巻』巻八「騎射」(第17巻6 )に描かれる馬場殿

なお(第17巻6 ) 等は日本絵巻物集成『年中行事絵巻』 (雄山閣 1931年)での表記である。雄山閣の『年中行事絵巻』は絵が一枚一枚区切られているので、どの絵であるか示しやすい。中央公論社のものと巻数が違う訳は調べていない。

第19巻10 は薄い輪郭で解りずらいが、どうも入母屋屋根のようである。第14巻7 の絵は階と簀子縁、庇の間が描かれているが、まるで庇の奥の柱の上に棟木が来るような絵だが清涼殿と書かれている。清涼殿なら庇の間の奥に母屋がありその上に棟木(屋根の尾根)なので確かに母屋の屋根と庇の屋根が一体化しているように見える。

第20巻4 の拝殿のようなものはちょっと微妙だ。切妻屋根と庇との境目に線がある。第14巻8 は寝殿造側面のようだが屋根は微妙である。これも母屋と庇の間に線が見える。錣屋根(しころやね)の可能性もある。
第14巻1 は儀式の来客控室に使われたときの侍廊だろう。切妻屋根である。切妻屋根と庇が分離して描かれているものは、寝殿ではなく、門ではあるが第9巻1 の健春門、第9巻2 の宣陽門などにある。

以上ここに描かれているのは最上級の御殿である。なお、先の花山院の、建物同士の屋根をつないでしまったというケースで『年中行事絵巻』に確認出来るのは第14巻2 にある中門廊と侍廊のケースだけだと思う。一時は流行ったとしても平安時代末までには消えたのであろう。異なる建物の屋根を結合すると、揺れの吸収が難しいと思う。すぐに破損して雨漏りを始めるのではないかと思う。
第14巻2 のモデルは東三条殿と云われる。東三条殿は摂関家バブル期の屋敷で唯一焼け残った屋敷である。

 

庇の四隅

入母屋造の屋根として説明されるものは全てそうなのだが、絵巻でも内裏、院御所、大臣家などの最上級寝殿造では庇の四隅は45度の角度でつながっている。この図の「D」の形である。

庇の四隅を45度で結合するというのは、美しくはあるが当時の技術では加工上非常に難しい。 ボール紙で屋根の模型を作る場合を想像してほしい。庇の屋根を分解すると台形の四枚の平面になる(下の図左)。「庇の四隅は45度の角度でつながっている」と書いたが、しかしそれは真下から見上げた状態であって、庇の傾きがあるので段ボール紙を切るときには45度ではない。下の図の左側のようになる。何度なんだ?

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    普通の入母屋造の屋根           単純な庇の拡張        切妻屋根の左右に庇屋根の追加

一方で、庇で庇を斜めに接合せずに、真ん中の図のように四角いボール紙で組み立てるなら簡単だ。母屋の切妻屋根の下に南北に庇屋根を付け、その庇の外側の柱のところで、東西に庇屋根を付ければよい。南の庇と東の庇はつながっていない。分解するとそれぞれ4辺が直角な四角形だ。ボール紙の模型の話だが、明らかに簡単なこ とが実感できるだろう。

もうひとつの問題は構造的にも難があることである。その部分の垂木はただの飾りに過ぎなくなって庇屋根の軒を支えていない。良い例が法隆寺の金堂である。寺院建築は瓦で寝殿造の檜皮葺や板葺の屋根より数倍重い。それを丸桁(がんぎょう)を使い、三手先(さんてさき)や雲斗肘木を出してなんとか支えようとしているが、屋根の隅は重さに絶えかねて垂れ下がってしまう。法隆寺の金堂のあの龍が巻き付いた柱はそのための後付けの補強である。

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法隆寺金堂の屋根。四隅は45度とは何処のことかわ判るだろう。

寺院や神社は建物も信仰の対象 なので、立派に美しく、金をかけて建てるが、住居の見栄えに財力を注ぎ込めるのは大臣家以上だろう。庇屋根を斜めにつなぎ合わせることは加工技術の面でも構造力学的にも難のあるやり方である。もちろん寝殿造の檜皮葺屋根は寺院の本瓦屋根よりは軽いので三手先(さんてさき)など使わなくとも持ちこたえられるが、それにしてもである。

縋破風(すがるはふ)

先の図の「単純な庇の拡張」は縋破風(すがるはふ)の場合である。切妻屋根の本体ではなくて、寄棟造の南面に孫庇を追加した例だが、追加された庇屋根は奥も手前もしっかりと桁で支えられている。

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室生寺の金堂 

その違いを図で説明するのはかなり難しいが、下の二つを見て欲しい。左が入母屋屋根のつもりである。まずはその左側を見て欲しい。青い線が柱に支えられている梁や桁で、いくら加重がかかっても大丈夫な、庇屋根を支えている部分。オレンジと赤が垂木である。
入母屋造でも四隅でなければ、庇の外側と内側で太い梁や桁に乗っかり、固定されている。垂木の太さは瓦葺か檜皮葺、あるいは板葺かで太さや密度が変わるだろうが、軒先の眞下に柱と桁が無くとも、2点を固定することで十分に持ちこたえられる。極端に言えば置いてあるだけでも垂木は軒下に落ちない。この図は庇の長さを8、軒先の長さを5の比率で描いているが、児童公園のシーソーを思い出して欲しい。大人が内側に座り、子供が反対側の一番外側に座れば体重が軽くてもちゃんと遊べる。この図だと庇の外側の青い線が支点で、軒先に大人、母屋側に子供だ。

ところが、屋根の四隅はどうだろう。四隅に斜めに入っている青い線は隅木で、かなり負担はかかるのだが、ここでは十分太いと仮定しよう。赤とオレンジの違いはオレンジは落ちない垂木。赤は固定するか他の支えが無いと軒下に落ちてしまう垂木である。例えば垂木Aは庇側と軒側がほぼ同じでギリギリセーフとしよう。しかしBとCの2本の垂木だとどうだろう。隅木にしっかりと固定していないと落ちてしまう。固定していても軒先の重さを支えるのは並大抵のことではない。シーソーはさっきと逆になっているのだから。更に外側のD、E、Fの3本の垂木は? 垂木の片方を止めてあるだけでは垂木に力が加わればすぐに落ちてしまう。実際には垂木同士を木舞という細い横材で繋いだり、軒先の茅負や木負という横材で繋いであるからかろうじて落ちないが、軒先を支えるという垂木の役割はなんら果たしていない。ただの飾りである。

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      入母屋造の屋根 A   B   C   D   E   F                  単純な庇の拡張

こんどは右側を見て欲しい。先の図で単純な庇の拡張、切妻屋根の左右に庇屋根の追加としたパターンである。赤い部分が無い。全ての垂木はシーソーの5対8の8側の長い方の2点で支えている。これならば風さえ吹かず、地震もなければ固定しなくとも下へは落ちない。実際には固定するが、青い線の横柱に蔓や紐で結わえるだけでも大丈夫だ。釘なんて当時は簡単に使えるものではないし、ほぞ穴の加工だって大変な苦労なのだから。図では縦の青い線が柱の先の軒先まで出ているが、これは問題無い。かなり太い長い材を使うのでこれぐらい突き出しても十分に支えられる。先の室生寺金堂の画像を見返してほしい。

四隅の結合が斜めではない屋根は鎌倉時代末1309年の『春日権現験記絵』や、ほぼ同時期と伝える『法然上人絵伝』の、上級建築様式だが最上級ではない屋敷によく出てくる。まず『春日権現験記絵』にある住坊。入母屋の母屋部分の屋根は桧皮葺に描かれるが庇は板屋根である。これが上の図の中央のパターンである。

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上の図の右は平面の母屋と南北の庇を法隆寺伝法堂食堂(じきどう)のように切妻屋根で覆い、左右の庇だけ庇屋根で覆うものである。『法然上人絵伝』にある稲岡庄預所職、明石源内武者定明の隠棲する建物である。屋根は母屋も庇も板屋根である。

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郎党二名が座る庇は床が竹で描かれているが、これは実際にそうだったというより、罪を悔いた源内武者定明の信仰を表す記号と見た方が良いだろう。

上の二つの絵は、上級住宅ながら屋根は板葺で質素な家だが、同じ『法然上人絵伝』には屋根が庇まで含めて桧皮葺の高級な建物にさえそのような形が出てくる(下)。現存するものでは宇治上神社の拝殿や先の室生寺の金堂も縋破風(すがるはふ)で有名である。宇治上神社の拝殿の縋破風の屋根を檜皮葺で仕上げるのは今では大変な苦労だそうだが、形そのものは簡単な構造のなごりと云える。

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ただし上記の絵画のような屋根になる場合、四面庇の妻側の庇屋根同士で縋破風(すがるはふ)となる場合の他に、三面庇で、片方に庇の無い側の場合もある。例えばこういう例である。

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春日大社の着到殿だが南と東には庇があるが、北にはない。入母屋造から北庇屋根を切り取ると、ちょうどこういう形になる。

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上の『法然上人絵伝』に出てくる建物が東西棟で東に庇を欠いたものなら確かにこうなるだろう。しかし最上級の寝殿造の対のでもそう描かれている。絵巻には屋根はなかなか出てこないのだが、『年中行事絵巻』の「朝観行幸」にある後白河法皇の法住寺殿の西対はこう描かれる。このあたり↓

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これは法隆寺の三経院聖霊院のこの形(下)である。ともに南北棟で東西の対屋と同じだ。三経院や聖霊院は本体の切妻屋根部分が瓦葺で、南面の弘庇部分が檜皮葺なので、接合部が妙な形になっているが、全て檜皮葺であれば、このような形になり、法住寺殿の西対の屋根と一致する。対屋の屋根は寝殿のような入母屋造ではなく、伝法堂や僧坊のような切妻造であって、南の弘庇の部分に庇屋根を付けたものということになる。

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先の『年中行事絵巻』よりは時代は下がるが、鎌倉時代後期の『法然上人絵伝』には後白河法皇の法住寺殿の西対と同じような西対が描かれる。こちらは階隠(はしがくし)に相当する部分が、階だけでなくその両脇も合わせて三間分ある。屋根の切妻部分の妻の破風(はふ)がえらく前に出ているが絵巻的デフォルメだろう。縋破風の折れ曲がりがある。↓この眞下に。そして右側もそうなっている↓

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これらを見ると、最上級の寝殿造でも、対屋の屋根は入母屋ではなく、切妻屋根の南面に庇を付けるのが例であったように見える。やった! これはオリジナルな新説♪ と思ったら、私が生まれる前に太田博太郎がこう書いていた。

対屋は南北に長い建物で、母屋の四隅に庇をめぐらし、屋根は棟を南北に通した切妻屋造で、前面一間通りを吹放しとし、床を一段下げ、柱は角材を用い、妻から葺き下ろしの庇をつける。(『日本建築史序説・初版』 1947、史論集1、p.63)

なお対屋の形は、これを法隆寺の聖霊院において見ることが出来る。(同、p.65)

私が生まれる前から云われていたのでは論文ネタにはならない。残念。まあ推測は正しかったと前向きに思うようにしよう。ところで北側は? 絵画資料に北から対屋を描いたものは無いのでなんともいえない。ただ、寝殿造の様式を残す宇治上神社の拝殿なども合わせ考えると、南北共にこうなっていた可能性もある。


屋根のパターンの追加

4.4入母屋造の屋根」の冒頭の稚拙な図で「C 東西にも庇で拡張」の次に「D 四面の庇をつなげる」としたが、「C」と、「D」の錣屋根(しころやね)や、更に母屋と庇の屋根がつながっている「Dプラス」な入母屋造の屋根の前にもう二段階あったようだ。下の図の「Dマイナ1」と「Dマイナ2」である。

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「Dマイナ1」と「Dマイナ2」は「D」や「Dプラス」のように庇を45度でつなげてはいない。45度でつなげるのは建築技術の進歩の過程でもあるのかもしれないが、錣屋根(しころやね)がその後現在まであるようにコストパフォーマンスを取るか、見栄えを取るか、あるいは施主の好み、という問題だろう。素人考えながら「Dマイナ1」を作るのは簡単だと思う。それに対して「D」を雨漏りしないように作るのは結構難しいだろう。

現に榑葺(くれぶき)民家は屋根の架構の進歩で民家ですらかなり大きな梁間が取れるようになり、かつ二階まで出来るようにはなっても屋根の形そのものは飛騨の里に移築されたものも、西上州の重文・旧黒澤家でも、高山陣屋大倉でも「A」かせいぜいが「B」までである。飛騨の里に移築されたものもは改めて見ると旧中藪家旧野首家などのように「Dマイナ2」のものが多い。この庇の拡張が一番簡単で効果的なのだろう。

切妻の場合、妻(側面)中央の壁が高くなり、雨に曝される確率が高くなる。それを防ぐためにも妻側の庇の拡張は都合が良いのだろう。農村には専業の大工は居ない。家は村の共同作業で建てる。もちろんそれらの民家は反りも造らず、本体の屋根と庇をつなげていないので、縋る破風にはならないが。


このページのまとめ

平安貴族の屋敷=寝殿造=入母屋造りの桧皮葺屋根に東西の対、そして池、という固定概念では平安貴族の屋敷も寝殿造も正確に捉えることは出来ないのではないだろうか。そんな固定概念では平安時代から鎌倉時代にかけて、寝殿造に住めなかった貴族がゴマンと居ることになってしまう。その中には上級貴族である公卿はおろか関白まで出てきてしまう。そんなバカな話はない。現に関白藤原兼実の屋敷の門は桧皮葺でなく板屋根だった。しかし残念ながら世間ではそういう誤解が非常に多い。