寝殿造 4.6        屋根の反り        2016.9.15 

屋根の反り

反りを付けた大屋根は板屋根は工法としては難しいのではないだろうかと思ったが、平井聖の『屋根の歴史』によると、反りを付けることは単なる見栄えではなく、実用上の必要もあったようである。ひとつには軒先は庇の柱よりかなり外に出る。すると支えの無い軒先は長い年月で垂れ下がってしまう。そのため 予め反らせておいてその垂れ下がりを吸収するということらしい。

屋根板が奈良時代のような長板の場合にはもうひとつ理由が考えられる。木の板はほっといてもひわる。だから家具に使うような無垢の木は何年もかけて 余分な水分を抜き、あるいは自然なひわりを発散させた上で板にし、使用する。しかし建物の建材としての木材にどれほどそれが出来るだろうか。加えて屋根は 雨は無い日でも夜露は必ず受ける。それが何十年となれば、単に板を並べただけならば板毎のバラバラなひわりで隙間が出来、かなりの雨漏 りになる。

そのバラバラのひわりを横棒で押さえて隙間が出来ないようにしたのではないか。あの横棒は単に置いてあるだけでなく、屋根板の下の母屋桁(垂木を支える横木)と結わえているはずである(と『屋根の歴史』にあった)。石を載せるのもその加重で板葺きの板のあばれ(ひわり)を押さえる為だろう。それが反りになるぐらい押さえつければ雨漏りは少なくなる。しかし長板を反らせるほど強く母屋(横柱)に引きつけるのは相当な力がいるだろう。

長板は正倉院文書にある藤原典成の屋敷の北殿(梁間二間、桁行三間)移築の記録に「蘇岐板四百枚各長二丈」とあり、別の文書には「長一丈八寸、広五寸」とあるので、長さ6mぐらい幅15cmのものを2cmぐらい重ねて葺いたことになる(平井『屋根の歴史』 p.98)。厚さは判らないが2〜3cmだろうか。

もうひとつは短い板の場合である。この鶴岡八幡宮の写真の屋根裏の垂木を見て欲しい。屋根の尾根の部分の横柱が棟木、一番外側が桁で、その中間が母屋(横木)である。垂木は屋根の勾配を造り、棟木から桁に渡されるが、この写真では直線ではない。母屋桁(横木)の処で角度が変わっている。継ぎ足されているのだ。

同様の構造は絵巻の『法然上人絵伝』にも描かれている。破風板には反りがあるが、屋根葺の下の垂木は二種類の直線で、良く見ると屋根板の上の格子状の押さえの縦木も同じ様に、傾きの異なる二種類の直線になっている。『年中行事絵巻』の下級貴族の家の屋根ももしかするとこのような構造だったのかもしれない。そうすると、屋寝は母屋部分も板葺きで桧皮葺ではないことになる。


下は先ほどの『法然上人絵伝』にある明石源内武者定明の隠棲する建物の屋根の拡大である。例えば左側の庇の板葺きは三枚の板を継ぎ、その重なり部分を上の横木で押さえている。

それに気づいて改めて『春日権現験記絵』の先ほどの屋根を見るとやはり板を重ねて、重なりの部分を横木で押さえている。『一遍聖絵』にある地頭大井太郎の屋敷の板葺き部分もそうである。特に大井太郎の屋敷は屋根の葺き板を井桁の枠で押さえているが、その縦部分は上下ふたつからなり、角度が変わっている。鶴岡八幡宮の写真の垂木とちょうど裏表のようだ。実際そうだったのではなかろうか。

こけら葺きの場合は、西本願寺の飛雲閣で長さ30cm、幅8cm、厚さ3mm。大山祇神社の本殿の場合は長さ45cm、幅6〜10.5cm、厚さ3mmのものを重ねてゆく(平井『屋根の歴史』 p.106)。こんな薄板を平安時代の工具で削れるとは思いにくい。台鉋は室町時代に海外から伝わるまで無く、鉋と云えば槍鉋だったのだから。おまけに家具ではなく屋根であるので量が違う。

絵師は屋根まで書くことは少ないし、相当にデフォルメもし記号化もするが、屋根の構造は良く知っている。板葺き屋根の反りは板を押さえつけることと、多段階の角度変化の両方の結果かもしれない。多少は技術がいるので、下層の町屋ではそこまでは出来なかったのだろう。かなり雨漏りしたと思う。

寝殿造系の高級住宅でも、桧皮葺は板葺きと桧皮葺の二重構造(でないと桧皮が固定出来ない)だから雨漏りはしないだろうが、板葺きでの雨漏り防止は相当に難しい。というかどうしていたのか判らないと平井聖は書く。思いつくのは樹脂(例えば漆)ぐらいだが、コスト的に難しいだろう。従って庇は板葺きで済ませても母屋は板葺きということになったのだろう。このようなこけら葺きが始まったのは寝殿造よりも後の時代だと思う。加えてこれもかなりの手間がかかり、相当の財力が無いと出来ない。


ところで「Dマイナ2」だが、絵巻には反りに描かれるが、実際には二段階の傾斜角かもしれない。少なくとも垂木の傾斜は二段階である。屋根板の押さえは丸太と石の場合が多く描かれるが、角材で縦横の井桁格子に組むものもある。その場合の縦の角材は直線で描かれ、その角度は垂木の傾斜と同じく二種類に描かれている。信州佐久郡の武士の屋敷もそうである。こけら葺なら緩やかな反りも出来るだろうが手間もコストも桧皮葺とさして変わらず、なによりもこけら葺は室町時代からで平安時代末にはなかったはずである。するとこんな感じだろうか。