寝殿造 5.2     寝殿造の時代区分     2016.9.9  

寝殿造の変遷

寝殿造の変遷をどうとらえるかは人により違う。例えば藤田勝也1999 『日本建築史』では、1.準備期、2 成立期、3 変質期、4 形骸期と分類する。

1.準備期改め成立前夜

奈良時代から平安時代前期、ほぼ10世紀中ごろまでをあてる。律令制の時代である。屋敷に関する文献史料はほとんど無いが、いくつかの屋敷跡が発掘されている。代表的なものをあげておく。

藤原京の右京七条一坊

8世紀初頭の大宝律令の頃、藤原京の右京七条一坊に上級貴族邸と推定される遺跡があり、敷地を内郭・外郭に分け,内郭の建物配置は左右対称で正殿(以下寝殿)も四面に庇を備える。しかし各建物は廊でつながらず、孤立している。なおこの復元図では左が南にあたる。

寝殿造の歴史


平城京左京三条二坊(長屋王邸跡)

8世紀前半の奈良時代初期、藤原不比等が養老律令を選定した頃、平城京左京三条二坊の長屋王邸跡とも見られた遺跡では2町四方の敷地に多くの建物が建つ。しかし建物の配置は不規則で,建物間のつながりも希薄である。北に門を開く。なお右の復元模型は左が南になる。

寝殿造の歴史


平安京右京一条三坊九町(山城高校遺跡)

8世紀末から9世紀初頭の平安京右京一条三坊九町(山城高校遺跡)は寝殿の東西に脇殿(以下対の屋)があり、柵列が対の屋と一体化しつつ内郭を形成する。左右対称の建物構成をとるが、東対は母屋のみ、西対は母屋の東に庇(弘庇か?)がある。両対の屋と一体化した柵列が南の溝(おそらく柵もあったか)までのび、 正殿の真南に中門、その先に南門を開く。 

  寝殿造の歴史

右京三条一坊六町(藤原良相邸) 

出土した墨書土器から右大臣藤原良相(813〜 867 年)の邸宅であることが判明した。六町の北半部には東西に2つの池があり、溝によって繋がっている。建物は数棟検出されているが、それほど大きなものはなく、おもな建物は未発掘な六町の南半部か、一部しか発掘されていない北西側に存在した可能性が高い。

寝殿造の歴史

平安京右京六条ー坊五町.(京都リサーチパーク遺跡)

9世紀中ごろの平安京右京六条ー坊五町.(京都リサーチパーク遺跡)になると,建物間を結ぶ廊が明確にあらわれ,これによって内郭を形成する。しかし南の六条大路側に偏在していて南庭は狭い。かつきれいな左右対称ではない。


寝殿造の歴史

右京三条二坊十六町(斎宮邸)

発掘調査ではホットな事例、斎宮邸跡である。見てのとおり寝殿造との共通項など何処にも見いだせない。強いて云えば池があるということぐらいだが、池と建物の関係は全く違う。念のため北は上である。池を中心にかなりの部分が調査されたが、寝殿造を思わせる配置ではない。

寝殿造の歴史


寝殿造は徐々に成立したのか

いずれも皇族を含めた貴族の屋敷ではあろうが、良く云われる寝殿造のイメージとは少し違う。しかし屋敷地を内郭・外郭に分け、内郭の建物配置は左右対称に近いということから寝殿造の準備期とされたのだろう。

1,3の復元図は藤田勝也編1999 『日本建築史』 、3以降の廃案時代初期のものは京都市埋蔵文化財研究所の「考古アラカルト59・寝殿造成立前夜の貴族邸宅−右京の邸宅遺跡から」より。

平城京や長岡京、そして平安時代初期の平安京で上級貴族のものと思われる方一町以上の屋敷は上記以外にも発掘されているが、どこからを寝殿造と見るかのポイントは藤田勝也2005 のまとめによると次のようになる。

  1. 寝殿を中心とする、廊・渡殿による建物の有機的結合
  2. 中門・中門廊による内外郭の二重構造
  3. 建物と前庭さらには圏池との一体的な空間利用
  4. 板床上を主とする生活空間
  5. 開放的空間と閉鎖的空間の併存
  6. 庇の発達
  7. 礎石建て
  8. 主要建物は檎皮葺

更に具体的に絞り込むと以下がポイントとなる。

  1. 東西棟の寝殿の東西に南北棟の対があり、さらに東西の中門・中門廊によって南庭を囲む
  2. 主要建物間を連絡する廊・渡殿
  3. 建物に付属する廊
  4. 中門廊の存在
  5. 主要出入口は多くの場合、東または西に設ける
  6. 敷地南方に園池

もちろん池の無い寝殿造の例もあるのでこれらの基準からの総合判断であるし、あくまで大規模な屋敷での話である。

その藤田勝也2007 「寝殿造と斎王邸跡」では次の8点で比較を行った。

  1. 敷地中央やや南に主要殿舎群を配し、北半には裏方の機能を担う各種の雑舎的建物というように、南北に対照的な構成であること。
  2. 西棟の寝殿と南北棟の東・西対がほぼ東西に並列し、廊とともに南庭を囲む。
  3. 廊によって建物は連絡する。
  4. 寝殿・対・廊に付属する廊がある。
  5. アプローチに着目すると、内郭と外郭の二重の構造をとる。具体的には中門廊によって、築地塀に開く門から中門廊に開く中門までの領域と、中門内の寝殿や対の南面、園池を望む領域に二分される。
  6. 主要な出入口となる門は南北面ではなく東西面に設ける。
  7. 広大な閤池が敷地南方に築かれる。
  8. 柱下部の基礎構造

1)は敷地全体の配置構成上の特徴。 2)、3)、4)は主要殿舎群について、寝殿を中心に各建物の有機的な結合する様子。 5)、6)はアプローチとアプローチの方向である。7)は建物と庭園との位置関係。 8)、9)は建物自体の特徴である。藤田勝也はこの基準で平城京から平安京までの、遺跡、あるいは文献で状況がおおよそ判別できるものの評価をしたのが下の表である。 d)と e)は離宮の可能性まであるというぐらいの、それぞれ当時最上流に属すると思われる屋敷である。

- 1 2 3 4 5 6 78
a 平城京長屋王邸 ×  ×  ×  ×  × 南?  ×  混在
b 長岡京東院
 (桓武天皇仮皇居)
◯軒廊 × 南? × 混在
c 長岡京左京二条二坊十町 × △柵列 × 混在
d 平安京右京一条三坊九町
 (山城高校遺跡、8c末〜9c初)
× × × △柵列 × 混在
e 平安京右京六条一坊五町
 (京都リサーチパーク遺跡、9c中)
◯? × 混在
f 斎王邸
  (推定900年前後)
× × △推定 × × 混在
g 藤原師輔・東一条第 10c中 ◯? 東・西
h.東三条殿 5期 1043-1166年 東・西 礎石?










この比較から藤田勝也は寝殿造は徐々に出来上がっていったと云うよりも、ある屋敷から急に広まった可能性を指摘する。ビートルズの出現で音楽が変わったようなものか。

実はa)から f)までが発掘調査で、要するに今まで成立期と云われる時期の寝殿造そのものは文献と絵巻で知られるだけでひとつも発掘されていない。また、徐々に形が定まったものなら、こんなにはっきり分かれるのはおかしいという訳だ。ビートルズの原型をプレスリーや、あと誰かなぁ、まあともかく、それより以前のポップスに探し求めても見つからないようなものか。ビートルズじゃなくてフォークソングでも良い。と云っても音楽には詳しくないが。
今後9世紀と見られる寝殿造、あるいはその原型が左京区から発掘されないとは限らないが、現時点までの発掘成果からは確かにそう思う。

京都市埋蔵文化財研究所が『リーフレット京都』No.298(2013 年10 月)に「寝殿造成立前夜の貴族邸宅」というものを公開している。曰く。

平安京の庭園遺構は9世紀の中頃から増加していきます。湧水の多い京都の地形を活かしたことも関係するのでしょう。しかし、寝殿造の建物配置に最も近い9世紀中頃の右京六条一坊五町では、池は存在せず寝殿造は成立していません。9世紀の右京の邸宅遺跡は、寝殿造成立前夜の様相を示しています。
代々、平安京に住む貴族たちが自らの都市文化を育み、寝殿造という建物と庭園が一体化する住宅様式を成立させるのは10 世紀以降のようです。(中略)貴族たちの私邸での生活様式が定型化していき、寝殿造という邸宅のスタイルも確立したのでしょう。

発掘が右京中心とはいえ、9世紀がこの状態では10 世紀以降といっても一般に思われている寝殿造の「型」ができあがるのはかなり後なのではないか。更に云えば、左右対称な寝殿造の「型」なるものは本当にあったのかという疑問すらわいてくる。この時期は「準備期」と云うより「成立前夜」と云った方がよいのではないか?

2 成立期

寝殿造の成立i時期は平安中期,摂関時代に相当する 10世紀中ごろから11世紀初頭ごろまでと推定される。 10世紀中ごろからといううのは先の表のg)藤原師輔・東一条第頃からということである。『源氏物語』の時代がこの時期に当てはまる。ここでは藤田勝也の時代区分に従っているが、他の建築史家もほぼ一致している。私はまだ原本にあたってはいないのだが、藤田勝也2007での先行研究の紹介によると、例えば福山敏男は、

主として平安京内の上流階級の住宅であった寝殿造は、十世紀の末ごろには完成していたことが『源氏物語』の描写からも分かるが、それ以前の、未完成の段階にあったと思われる十世紀前半、あるいは九世紀やそれ以前の上流住宅について、改めて考え直してみる必要。

 福山敏男1984 「寝殿造の祖形と中国住宅」『住宅建築の研究』 中央公論美術出版、1984年

飯淵康一は、寝殿造を構成する建物の発生を個別に検討し、

  • 中門廊の発生は少なくとも 9世紀末に遡る。
  • 寝殿と東西対を結ぶ渡殿が記録にあらわれ始めるのは10世紀に入ってから。
  • 11世紀末、12世紀初めごろになると、南の渡殿が透渡殿と呼ばれる様になる。
  • ほぼ時期を同じくして、二棟廊、二棟渡殿の語があらわれはじめ、
  • 侍所は11世紀後半期より記録には侍廊としてあらわれてくる。
  • 随身所は、10世紀末には記載されるが、11世紀前半期には専用の場を中門廊南端に得た。

ことなどを指摘したうえで、

東西対屋の南庇、同孫庇の存在はすでに10世紀の前期には知られ、東西孫庇は10世紀末にはみることができる。これを備えた大規模な対屋は11世紀には極く標準的になったものと考えられる。

飯淵康一1985 「貴族住宅構成要素の発生」『空間秩序からみた平安期貴族住宅の研究』(私家版、1985年)

と記す。ただしこの時期は史料があまりなく、遺跡も前述の通り未発掘である。

文献で推定される早い事例は、先の表のg)。10世紀中期の藤原師輔の東一条第(亭)である。東西棟の寝殿の東西に南北の東・西対、寝殿北に東西棟の北対、東西に御門、西中門およびその南北廊(中門廊)などが確認される。東方の中門および中門廊は、東対、東御門の存在から想定不可能ではない。ただし、太田静六は『寝殿造の研究』の中で推定図を提示するがあれは十分に根拠のあるものではない。太田は文献で不明な部分は太田の頭の中の左右対称な寝殿造のパターンを下敷きに図を描くようである。例えば文献に現れなくとも南庭に大きな池を想定する。

ちなみにその東一条第(亭)は藤原良房に始まり忠平、師輔等へと伝領されたもので、里内裏ではないがそれに近く、清和天皇皇子の貞保親王、村上天皇女御安子(師輔娘)、その子憲平親王(冷泉天皇)、花山上皇、三条天皇皇后藤原賊子といった、師輔に関りのある皇族たちに御所として提供することが主要な用途であった。

藤田勝也1999年前掲書で次のように書いている。

「寝殿造」は準備期と変質期の多くの類例とその変遷過程から想定された様式名称であって、同時代史料による具体的な復原例にもとづくものではない。したがってそれを固定的なイメージで把握することは危険である。とはいえ「寝殿造」の存在を否定するには,明白な根拠が現時点ではない。

ここで云われる「寝殿造の存在」とはきちんと左右対称な寝殿造の意味だろう。

3 変質期

平安時代中期から末期,さらに鎌倉時代前期までの院政期は、寝殿造カ緩やかに、しかし際だった変化を機実に示す時期とされる。この時期は史料が増え、院御所や摂関邸はもとより一般公家邸から平家邸まで多くの事例が復原されている。束三条殿は藤原氏の氏長者の本邸として様々な行事が行われ、その指図も沢山残る。そのため、復原図や儀式の様子が把握できる。

藤田勝也は先の通り「それを固定的なイメージで把握することは危険」と云いつつも、西対がなく、左右対称でないことでも代表例の東三条殿について「寝殿造の代表例として間々紹介されるれこれが変質期に属すことは要注意」と云う。左右対称を成立期の本来の寝殿造と置けば確かに東三条殿はそれとは異なる。イレギュラーである。

東三条殿は古くからの藤原道長の頃からの屋敷であるが、当初はあまり重きを置かれていなかった。それが平安後期に脚光を浴びるのは他の屋敷が焼失する中でここだけが火災に遭わずに古式をとどめ、それ故多くの儀式がここで行われた為である。そのため多くの記録が残った。左右対称ではないがこれは西対か西対代の建つべき場所に泉が湧いていた事による。イレギュラーではあっても成立期、あるいは最盛期の寝殿造なのではないか。

東三条殿に比べ堀河殿はまだ左右対称に近い。寝殿の北面に孫庇がある。東対は母屋・庇構造では無い。寝殿の北東に二棟廊(渡廊)がある。敷地は南北に2町。しかしそれでも左右対称ではない。西対の屋は塗籠も孫庇も弘庇もあるが、東は梁間2間の東対代廊で、侍所廊も随身所もない。中門の位置も違う。
堀河殿は堀河天皇が建てたのではなく、その名が現れるのは藤原基経が院を用いた頃からで、村上天皇の頃には藤原兼通の所有だった。里内裏(円融天皇) となった最初の屋敷でもある。白河法皇の頃火事に逢い再建された。その前後で堀河天皇の里内裏となっている。従って寝殿造全盛期の姿と見て良いのではないか。

私は「変質期」というより「全盛期」あるいは「熟覧期」でも良いと思うが。

「変質期」を云うなら平安時代末期から鎌倉時代初期だろう。そう置くならその後の鎌倉時代後期は「形骸期」でも良い。
というように論者の視点によって時代区分は若干ずれる。ここで取り上げた時代区分は藤田勝也の1999年時点のものなので、次の項で触れるように藤田勝也の次の本ではどうなっているか判らない。


4 形骸期

藤田勝也は1999年の『日本建築史』において次のように述べる。

鎌倉時代後半から室町時代中ごろまで、変質した「寝殿造」の一郭は形骸化しつつ存続する。13世紀末における公卿近衛家の邸の一郭に見る建物の組み立ては,足利将軍の諸邸まで連綿と継承されている。公家的住空間としての寝殿造の故実化ともいうべき現象だが、しかしこれはあくまで寝殿造からの視点にもとづく。後述するように,中世はまた新たな住空間の創出,展開の時代であった。(藤田勝也1999)

「中世はまた新たな住空間の創出,展開の時代」というのは主殿造から書院造への流れのことだと思う。しかし成立期の寝殿造は本当に左右対称であったのだろうか。東三条殿は「変質期に属す」るのだろうか。
2012年の『平安京と貴族の住まい』の「第2章「寝殿造」とはなにか」の注25において藤田勝也はこう述べている。学説は本人の中でも日々進化するということだろう。

なお藤田・古賀秀策編 『日本建築史』(昭和堂、1999年)の第五章において、「寝殿造の故実化」ととらえ、しかしそれは「寝殿造からの観点にもとづく」ものと評した。ただし、こうした一定の形式が定着した時期をもって「寝殿造の形骸化」としたことには、なお再考の余地がある。(藤田勝也2012 p.108)


初稿 2015.11.20