寝殿造 5.3 如法一町家は左右対称なのか 2016.9.25 |
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如法一町家白河法皇に仕えた藤原宗忠の『中右記』1104年(長治1)11月28日条にこうある。方一町が寝殿造りの基本であると。
なおここは元藤原基忠の屋敷であった大炊御門(おおいのみかど)北東洞院西で、白河上皇御所となり、のちに1112年(天永3)まで鳥羽天皇の内裏となる。その後、その東隣の大炊御門北東洞院東が鳥羽天皇の里内裏となる。 ただしその「一町之家」が「如法」、くだけて云うと「お約束」であるのは院や公卿クラスの話である。
方一町の屋敷を持てるのは三位以上、または四位参議以上であると昔から定められているのにないがしろにされているので改めて通達したということだろう。法的には「一町之家」を禁止されていた非参議四位以下に許された屋敷の広さは平安時代の文献には残っていないが、『続日本記』によると四位五位が1/2町以下、六位以下は1/4町以下であった。1/4町は方半町、60m四方の8戸主である(太田博太郎1989 p.94、藤田勝也2005 p.14)。 ただしその記述は平安京以前の条であり、平安時代初期には同様であっても、平安時代末の状況ではない。『小右記』長元3年6月28日条のようにその禁制が何度も告知されるということは、逆に守られてはいなかったということの現れでもある。受領の京宅は官物の倉庫の意味もあるが、一町規模の屋地をもつものが多かったようである。 10世紀 912年(延喜2)の『七条例解』(平安遺文 207号)に出てくる正六位上大海当氏の櫛筒小路の屋敷は4戸主であり、その敷地に母屋三間に四面庇、更に叉庇、小庇を持つ床張りの建物と、2宇(軒)の五間板屋、つまり板葺きの土間床の建物を持っている(藤田勝也2005 p.49,p.67)。五位が大量生産された平安時代末期から鎌倉時代初期の五位クラスの都市部での宅地感覚はこれぐらいではなかろうか。 8戸主の屋敷は鎌倉でも発掘されている。最上級ではないが上級の屋敷である(今小路西遺跡)。文献上で北条氏の屋敷を戸主で表したものは嘉元の乱直後の1305(嘉元3)年5月30日の「駿河守(宗方)跡小笠原谷地八戸主事、可為醍醐座主僧正坊管領・・・」(鎌倉遺文22226:前田家所蔵文書)がある。これとも関係するがやはり前田家所蔵文書(鎌倉遺文24063:1310(延慶3)年9月15日)に「名越善光寺入地〔陸戸主〕事、任越後守実時後家代成覚今年六月四日相伝状・・・」がある。(『鎌倉市史・総説編』p233)。 「如法一町家」は屋地の広さという点では確かに「法」である。ただしそれは公卿以上は一町の屋敷を持ってはならないという「法」だが。その法が守られていなかったことは1096年の従四位下大江公仲の坊城第をみても明らかであり、従四位下大江公仲は一町の屋地を三つも所有していた。冒頭の『中右記』1104年(長治1)11月28日条の分脈には全くそぐわない。そこでの「如法一町家」はいったい何を指しているのだろうか。『中右記』長治1年(1104)11月28日条にある「如法一町家」の内容は元永2年(1119)3月21日条に藤原宗忠が書く「東西対東西中門如法一町家」の意味だろう。冒頭の長治1年(1104)11月28日条はその姿を屋敷の理想的な姿として賞賛する文章である。冒頭の記事より2年数ヶ月前、康和4年(1102年)1月5日には既に弁の頭で参議、正三位に達していた藤原宗忠が、諸大夫ふぜいが「違法」に所有することもある「一町家」を院御所として賞賛する訳がない。 寝殿造りは左右対称なのか太田博太郎藤原宗忠の『中右記』「東西対東西中門如法一町家」を最初に取り上げた太田博太郎は、寝殿の東西に対を有する左右対称で典型的な寝殿造を指すものと解釈した。賞賛しているのだからそれを理想型、典型を思うのは当然だろう。 1972年に太田博太郎はこう書く。
それも一理ある。しかしそれを「理想形」「イデア」としてではなく、太田静六のように寝殿を縦にしたような東西の対屋があった「本来の寝殿造の時代」の現実の形と考え、東三条殿や堀河殿をそれからの変質期ととらえるとなると、太田博太郎の意図からは外れる。 中御門宗忠が『中右記』に、「東西の対、東西の中門、法の如き一町の作りなり」と書いた「法の如き」は当時としてもなかなか無い賞賛すべきものへの賛辞であり、藤原道長や頼通の 時代に「理想型」としたのは内裏である。藤原道長や頼通の摂関時代最盛期には焼亡した内裏の再建を放り出して自分の邸第、土御門殿や高陽殿の建設に夢中に なっており、もしかすると太田静六が「本来の姿」とする東西の対があったのかもしれないが、あったとしてもむしろその方が例外である。 堀口捨己の弁ところで、その太田博太郎の発言が誰を向いていたのかというと、堀口捨己である。堀口捨己は昭和18年の「書院造について」でこう云う。
御物聖徳太子絵伝までは知らなかった。
全くその通りだと思う。そしてこれはもう73年も前に言われていることなのである。そして太田博太郎が先の様に書いてから既に半世紀近くが過 ぎようとしている。太田博太郎が意図したように寝殿造のイメージは正しく伝わったのだろうか? いや、今でも寝殿造のイメージは『家屋雑考』や『稿本日本帝国美術略史』とさして変わらない。今風に言い直せば『源氏物語』の六条院復元図や復元模型が中心となっている。『源氏物語』の六条院に北対は書かれていたか? ネット上の個人サイトはもちろんのこと、京都府の公式サイトやら一級建築士の受験勉強までそのベースとなると話は変わってこよう。太田博太郎は正しい建築史知識を広く広めることに心血を注ぎ、記述も平易な説明を心がけているが、しかし今のこの現状は太田博太郎の望んでいたこととは違うだろう。 太田博太郎の対称形とは太田博太郎は何故寝殿造を 「対称形を基本にする」と云いたかったのだろうか。おそらくこういうことではないだろうか。
この筋書きなら理解出来る。この論法で云えば、鷹司兼忠の中門廊が片方にしかない寝殿造も、『法然上人絵伝』の漆時国の館や藤原定家の屋敷すらも「対称形を基本」として、その一方を省略しただけのものなのだ。そして寝殿造と書院造一番大きな違いが理解できる。 川本重雄の主張川本重雄2012 によると「中右記」の中で「如法一町家」または「如法家」と記されている住宅は、(1)大炊御門北東洞院西殿、(2)三条北烏丸西殿、(3)六角東洞院殿、(4)土御門北高倉東殿、の四つであり、大炊殿と三条殿は東対・寝殿・西対代廊からなる構成。土御門高倉殿とおそらく新大炊殿もその反対に東対代廊・寝殿・西対という構成で、寝殿の東西両方に対、あるいは両方に対代廊が建つというような、きちんとした左右対称な寝殿造は一つもなく、一方に規模の大きな対を、他方に小規模な対代廊を建てる左右非対称なものばかりである。それがが「如法一町家」の一般的形態であった。
本当に摂関期が「成立期」、あるいは全盛期で、院政期が「変質期」あるいは「衰退期」なのだろうか。 関野克の弁その論争のはるか昔、『日本住宅小史』(1942)の中で関野克は次のように述べる。先に「住宅建築が生活圏内に包含される場合」を紹介したが、今度は「住建築の一部に生活圏が営まれる場合」である。
「大陸的なに左右対象の配置」は「実用上の必要から生じた殿廊配置でない」と。「全く機械的な造形物の中に流体の如き生活が流れてゐた」とは凄い表現だ。
確かに「標準寝殿造の配置」という言葉は使うが、それは「大陸的配置のもつ超現実性に憧憶」「形式主義」であって、それが本来の寝殿造というようなニュアンスは無い。関野克の『日本住宅小史』での「公家住宅」は大化の改新以降鎌倉時代までの「公家住宅」の諸行無常であって、「本来の寝殿造」などあまり考えていない。
という。 以下私の意見だが、『家屋雑考』が描く寝殿造など「そりゃ誰の屋敷だ!」と云いたくなるほどのもので、忘れてしまった方が良い。平安時代の貴族の屋敷を「寝殿造」と呼ぶことだけ頂いておこう。そもそも『家屋雑考』が描く寝殿造は、間違っているところを訂正しても最盛期の摂関家の屋敷しか意味しない。それも里内裏としての利用を意識した邸宅である。大臣まで含めて、摂関家以外の公卿がそんな屋敷に住んでいたという痕跡は何処にも無い。諸大夫に至ってはなおさらである。もしも寝殿造を最盛期の摂関家の屋敷に限定するのなら、それ以外の、あるいは貴族の住宅全般を表す類型名称を提示しなければならない。関野克の「中世公家住宅建築の形式を指すもの」という踏み込みは実に的を射ていると思う。「中世」に引っかかる人がいるかもしれないが、ここでは平安時代の少なくとも後半は含めている。
「件御所如法一町之家也」と『中右記』1104年(長治1)11月28日条に書いた右大臣・藤原宗忠の屋敷は「件御所如法一町之家也」ではない。中御門亭は寝殿、北対、二間子午廊、侍廊、中門廊、車宿、西門、北門など寝殿以外十棟である。その中御門宗忠の屋敷を寝殿造の上の方と関野克はみなしている。 稲垣栄三の弁稲垣栄三はどちらかというと神社建築史の方で有名な方だが、稲垣栄三著作集(全7巻)の内に寝殿造についての論考を3巻の冒頭に38ページ残している。稲垣栄三は11世紀初頭、藤原氏が全盛期をむかえたころの寝殿造の標準形は左右対称の配置であったろうとする。
そうでないと東三条殿のようなプランが生まれる理由が理解できないと。東三条殿のようなプランというのは、西対がなく、その位置に西中門廊がくるという変則な配置でありながら、なお寝殿の西には透渡殿(すきわたどの)を設け、東中門廊と対置する位置に西透廊を延ばして南庭を囲んでいる」ということである。東三条殿でも寝殿中央を通る中心軸がまだ意義を失っていないと、そしてこういう。
なんか似たような意見を聞いたことがあるような。といってもこの稲垣栄三の主張の初出は1965年。似たような意見とはその半世紀後の藤田勝也のことなのだが。 稲垣栄三は寝殿造の標準形は左右対称の配置であったろうとするが、しかし東西共に塗籠を持った対(つい)によるきちんとした左右対称な寝殿造とまでは云ってはいない。そして、
という。では何が左右対称の配置だというのだろうか。少し長いが引用してみる。
川本重雄や藤田勝也の見解と何処がどう違うのか良く解らなくなる。結局のところ東西共に塗籠を持った対(つい)によるきちんとした左右対称な寝殿造こそ本来の姿と拘ったのは太田静六だけではないのか? 何が左右対称なのか現段階での私の意見をまとめてみよう。但し思いつきを防備録的に羅列しているだけだが。 初期の大寝殿造は大陸的な左右対象の配置だったろう。大陸、つまり中国は当時の日本にとって群を抜いた先進国である。それを模倣することがひとつの格式である。だいたい格式という言葉は中国伝来の律令制を堅持しようとする意図でまとめられた延喜格、延喜式から生まれた言葉である。 ただし、当時の摂関家が中国の邸宅を直接知る訳がない。大陸的な左右対象の配置を最初に取り入れたのは飛鳥、奈良時代の大寺院と大極殿以下の朝堂、そして内裏である。摂関家がまねたのはその内裏である。内裏には池が無いって? 離宮の神泉苑がある。 ところで、左右対象とはどこが、という問題。 太田静六は『寝殿造の研究』において38もの邸宅の推定図を書いたが、その中で東西の対(対代と記されているもの及び小寝殿を除く)が揃っているのは以下の5件だけである。太田静六の推定図はどうも信用ならないのだがここではそれを前提としておく。
1/7〜1/8では両対がきちんとそろった左右対称の寝殿造があったとしても、それはほとんど例外と云っても良い程度ではないだろうか。例えば『古建築入門』の最後のページに、飛鳥時代から奈良時代の寺院伽藍の図がある。一見左右対称だが、良く見るとまちまちである。その中の薬師寺の伽藍配置を見て、これが古代寺院の伽藍配置だ。それから外れるものはみな変質なのだと云っても全く意味はないだろう。第一平安時代の内裏は本当に左右対称か? 清涼殿と綾綺殿は全く違うだろう。 もう少しアバウトに考えてみよう。寝殿の庇で宴会をやっている。その寝殿造の左右にそれなりの建物がある。更に両側に廊が突き出ている。催馬楽の「此殿」にある
の光景はそれで十分だろう。そしてそれが立派な屋敷と思うのは当時最高の権威である内裏の紫宸殿からの光景に似ているからだろう。では何故その左右対称が崩れたのか。 摂関時代には里内裏も用いられたが、内裏は焼亡してもすぐに再建され、最高の権威、晴れがましい宮殿として上級貴族の目にやきついていた。ところが院政期になると、院が内裏にいないばかりか、幼い天皇も内裏にはいない。1082.07.29 に内裏が焼亡したあと、再建されたのは約20年後である。紫宸殿からの光景が晴れがましい宮殿として上級貴族の目にやきつくことはなくなった、あるいは極度に減少したことが大きいのではないだろうか。 もちろん、受領などの人事権は摂関の手を離れて、大国の受領は院近臣が独占するようになり、道長や頼通の頃のように、受領の成功を受けられなくなり、忠実など女院の屋敷や荘園を自分の元に一本化し、摂関家領荘園を形成して経済基盤の建て直しを図るのが精一杯で、豪勢な邸宅を再建するような余裕はなくなる。唯一焼け残っていた東三条殿を儀式用施設として、摂関家の対面を保っていた。 更に孫の基実の死で、その財産の多くは妻の平盛子を通じて清盛の手に移ってしまう。そして承久の乱で、天皇家は形式的には最高の権威であっても、実質は関東(鎌倉幕府)の風下にあることは貴族の目にも明らかとなり、『十六夜日記』の阿仏尼やその子冷泉為相のように、貴族の財産相続の訴訟すら関東に頼む有様である。 最高の権威、晴れがましい宮殿としての内裏など、実態としても、また貴族社会の記憶からも消え去ってしまう。模範となるものが薄れ、消滅したことが、左右対称の消滅のもっとも大きい要因ではなかろうか。関野克の言葉を借りると、「大陸的な左右対象の配置」「日常生活とは全く関係ない」「住建築の一部に生活圏が営まれる場合」としても寝殿造は、こうして「実用上の必要から生じた殿廊配置」に近づいたと。そのときに残ったのが寝殿に二棟廊、中門廊に侍廊、車宿で、新たに常御所が日常生活の場として加わる。 上の5件は全て全盛期の摂関家の手によるものである。さらに、純粋に自分の住まいとして心血を注いだのは関白藤原頼通の邸宅・高陽院の一期二期だけである。頼通は邸宅や庭園に特別な関心を抱いていた。その高陽院も二度の被災のあとの第三期高陽院は専ら皇内裏として使われた。新たに加わった常御所は別として、寝殿に二棟廊、中門廊に侍廊、車宿という後期の構成は、摂関家全盛期でも、中流貴族の屋敷に見られたのではなかろうか。 寝殿造を摂関家最盛期の摂関家の邸宅とでも定義するのであれば、太田静六の弁は成立するのだが、そんな定義には何の意味もない。それに院政期の「件御所如法一町之家也」は寝殿造のことではないということになってしまう。 寝殿造とは何なのか先のページで紹介した藤田勝也1999 の『日本建築史』は建築史の教科書として編集されたものであろうから、当時の学会で主流であった見解を無視する訳にはいかなかったのだろう。しかし2012年の『平安京と貴族の住まい』は教科書ではなく、タイトルには似合わない専門書であるので「第2章「寝殿造」とはなにか」の中では遠慮無く自説を 展開している。曰く、
たしか藤田氏は2005年の「平安京の変容と寝殿造・町屋の成立」でも寝殿からの見え 方を云っていたと思う。ただしもっと控え目な表現だったと記憶する。13年の間に段々意見が固まったのか。なお上記引用中の論者とは太田静六と川本重雄の 論争を指している。『家屋雑考』とはこのシリーズの冒頭に書いた江戸時代のものである。 江戸時代の『家屋雑考』や前世紀中頃に太田静六が思い描いたような、あるいはかつて歴史の教科書(例えば『詳説日本史』 山川出版社, 1960年)に載っていたような左右対称の寝殿造など無かったとすると、いったい何が寝殿造なのだろうか。 それにしても京都府サイトのこの図は誰が監修したのだろう。車宿のとなりにあるのは侍所だって?そんなバカなこと! その問題に一番ラジカルな発言をしているのは藤田勝也だと思う。2012年の前掲書にこう書いている。
私は江戸時代の復古調まで含める気はないが、しかしこの三点には頷ける。公卿座が流動的だった、というかその名が無かった11〜12世紀でもこの三点はあてはまるだろう。 具体的な兆候でのフェーズ分冒頭に紹介した『日本建築史』での、1.準備期、2 成立期、3 変質期、4 形骸期という分類は20世紀での一般的分類である。それを書いた本人すら今ではそうは思っていないようだ。ならばもっと具体的な兆候でフェーズ分けをしてみた方が実り多いのではないか。そういう点では寝殿造を行事・儀式の場ととらえて、寝殿中心の儀式から対中心の儀式への変化を指摘した川本重雄の研究は魅力的である。そして里内裏の及ぼす影響である。里内裏では寝殿を南殿(紫宸殿)にみたて、対のどちらかを中殿(清涼殿)に見立てた。そして研究対象になるような大寝殿造は里内裏になるときに手を加えられ、あるいは最初から里内裏として建設されるようになる。 そこから先は仮置きだが、小御所の出現。対の消滅(二棟廊の格上げ)、寝殿母屋の仕切り、弘御所の出現などがメルクマール、ターニングポイントになるのではなかろうか。「寝殿母屋の仕切り」も含めたが、主に藤田勝也の云う周辺部である。藤田勝也はこう云う。
「詳細は今後の課題」では私が困ってしまうのだ。早く仕上げて欲しい。 初稿 2015.11.05
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